* 海よりも深く、溺れるように 3 *


 押し黙り、下を向いてしまった独歩を、そのままにしていこうと思えば出来たものを、左馬刻はそのままにしなかった。
 気に障るようなことを言った覚えはない。目の前にいる男はただのサラリーマンだ。裏社会に生きる自分とは、世界が違うだろう。ただ、ラップバトルで戦うと言う接点が出来ただけだ。それがなければ、知り合うことすらなかっただろう。
 だが、知り合ったからには、戦ったからには、放っておける相手でもない。曲がりなりにも、自分達チームをバトルの決勝で破った相手だ。
 左馬刻にしてみれば、次こそは必ず勝つという意気込みがあるし、それまで負けられては困る相手だ。
「ったく。何なんだよ」
 わかんねぇ、と頭を掻きながら目の前にある頭を見る。癖のある赤毛が、あちこちへ毛先を向けている。猫背な上に、下を向いているせいで、赤毛の合間から、夏の湿った夜気に汗が浮かぶ、白いうなじが見えた。
 左馬刻の白い手が独歩の白い首筋へ伸び、顔が肩口に近づけられる。
「甘い匂いがするな」
 唐突に、耳元で低い声がして、内側へと意識を向けていた独歩は、弾かれたように顔を上げた。
 目の前に、鋭く赤い、宝石のような二つの瞳。どこか獣を思わせる色と強さに、背筋が凍った。
 何で、薄暗いのにこんなにはっきり見えるんだ………そう思うのと同時に、首筋に触れている手を弾く。
「な、何………」
 頭の片隅で、警鐘が鳴る。逃げろ、と。この眼は、駄目だ、と。
「あんた、Ωか?」
 低く呟かれた言葉に、独歩は背筋を凍らせて、左馬刻を突き飛ばした。
「って………何すんだ!?」
 重たい鞄を抱え、一歩後ずさる。
「っ、う、嘘、だ………今まで、誰、にも」
「あん?」
「違う………俺は………」
 逃げろ、と頭の中で何度も声がする。その声に従うように、独歩は路地から飛び出し、左馬刻の前から逃げ出した。
「おい、てめぇ!」
 追いかけようとしたが、部下と入れ替わりになるのが面倒で、やめた。
「クソがっ!」
 苛立ち紛れに転がっている男の足を蹴る。
 あの甘い匂いは、明らかにΩの匂いだ。石鹸や香水の匂いなんかでは、ない。
 ふと、独歩が持っていたはずのジャケットが地面に落ちていることに気づき、拾い上げる。そこからも、甘い匂いがした。
 逃げる瞬間、独歩の目からは、涙が流れていた。だから、左馬刻は追わなかった。
 今は、逃がしてやる。そう、思った。


 どこをどう走ったのか、すれ違う人にぶつかったような気もするが、覚えていない。それでも、帰巣本能とでも言うのか、気づけば独歩は自宅の玄関ドアの前にいた。
 上がった呼吸を整える時間すら惜しく、鍵を取り出して開錠し、音を立ててドアを開けて閉める。後ろ手に鍵を閉め、そのままその場に座り込んだ。
 普段運動など全くしない体が、悲鳴を上げている。血液が沸騰し、汗が噴き出し、手足が震える。心臓が、鼓動が、恐ろしい程速く音を立てている。
「あれ?独歩ちん、今帰り?」
 部屋の奥から声がして、下を向いていた顔を上げる。
「一、 二三?」
「どしたん?玄関座り込んで」
 真っ暗な玄関で靴も脱がず、ドアに背中を預けて座り込んでいる独歩を不審に思ったのか、幼馴染みで同居人の伊弉冉一二三は、明かりを点けて近づいてきた。
「って、何泣いてんの!?」
「え?」
 言われて、初めて自分が涙を流していることに気づき、慌てて袖口で拭う。
「何!?何かあったの!?」
「いや………何も………」
「何もなくて泣くわけないじゃん!」
 そういえば、今日仕事は休みだと言っていたな、などと今の状況に関係のない、ラフな格好の一二三を理解して、立ち上がろうとした。だが、走ってきたせいか、うまく足の力が入らず、立ち上がれない。
「ははっ………久しぶりに、走ったら、足が笑ってる」
「走るって、独歩ちんが走るなんて、おかしいじゃん!何があったわけ?」
「何………逃げ、て………」
 自分でもどうして走ったのか分からず、その経緯を思い出そうとして背筋を震わせた。
 あの、眼だ。あの眼が、怖くて………
「逃げるって、何があったの?って、そのままだとズボン汚れるし、立って、立って」
 目の前に差し出された一二三の手を掴み、どうにか独歩は立ち上がった。
「悪い」
 独歩の落とした鞄を一二三が拾い、重っ、と呟いている。
「はぁ………俺は、どうして………」
「ちょいちょいちょい!ここでネガティブになんないで!ほらほら、靴脱いで!」
 一二三に急かされるようにして靴を脱ぎ、玄関を上がり、毎日帰ってくる家の風景に、うるさかった心臓の音も、噴き出していた汗も、静まっていくようだった。
 リビングは程よくエアコンが効いていて、涼しかった。少し緩めていたネクタイを完全に解こうと指をかけた瞬間、腹が大きな音を立てて鳴った。
「にゃははは!風呂入って来ちゃえば?走ってきたんしょ?汗流してすっきりしちゃった方がいいって。その間に飯作ってっし」
「………そうだな。そうする」
 一二三が持っていた鞄を受け取り、その重さに(そうだ。カタログが入っていたんだった)と思い出して、またこの重さを明日会社に持っていかなければならないことに落胆して、自室へ鞄と社員証を置き、独歩は風呂場へ向かった。
 電気を点け、洗面所の大きな鏡に映る自分を見ると、そこにはいつもと変わらない、いや、いつも以上に仕事に草臥れ果てた中年が映っている。隈も酷く、顔色も悪く、その上泣いたせいなのか、目も充血している。
「酷い顔だな」
 泣いた理由は分からない。勝手に涙が流れ出たのだと言う他はない。だって、自覚がなかったのだから。
 脱衣籠の中に脱いだシャツを放り入れ、ふと、首筋へ右手をやって摩る。
「………俺は、どうせ………」
 背を向けて、下を向いて、やり過ごせばいいだけだ。いつものように。そうすれば、全ては何事もなく過ぎていくはずだ。
 そう結論づけて、独歩は瞼を閉じた。
 けれど、閉じた瞼の裏に映るのは、思い出されるのは、怖かったはずの赤い瞳と、低い声だ。
 あの、明らかに優秀な種だと分かる気配。
「っ!」
 摩った首筋が、熱かった。


 苛立ちをぶつけるように、空になったビールの缶をゴミ箱の中へと放り投げる。だが、それは男を小馬鹿にするようにゴミ箱から外れ、地面へと転がった。転がった缶を、今度は蹴り飛ばしてビルの壁へぶつける。
 嫌なことが続いた。ラップバトルには勝てないし、女には振られるし、車には泥水をかけられるし、仕事もクビになった。
 コンビニでもう一本酒でも買おうと顔を上げると、デジタルサイネージにラップバトルの様子が映し出されている。
 自分は辿り着かなかった、決勝の様子だ。
「むかつくなぁ」
 辿り着かないことは分かっていた。実力などないからだ。けれど、怒りは湧く。
「あれ?あいつら、確か………」
 映し出されている映像の中に、見たことのある顔があり、男は記憶を辿った。
 かつてのクラスメイトが、映っていた。












2021/3/21初出