* 海よりも深く、溺れるように 4 *


 借金を踏み倒すためにシンジュク・ディビジョンへ逃げ込み、左馬刻に捕まった男の持物の中に、小さな白い紙に包んだ錠剤が幾つもあった。男が言うには、それは最近出回っている薬で、ラブポーション………所謂媚薬のような物で、中毒性や習慣性がなく、若い男女の間で手軽に使われているのだという。しかし、この薬は水で飲めばその程度で済むのだが、アルコールに溶かすと睡眠剤のような効果も発揮し、それもあって恋愛トラブルに発展することもあるらしい。さらに、コーヒーで飲むと吐き気を催すとか、紅茶と飲むと腹を下すとか、もうそこまで来ると本当の効能はどれだという話しになるが、そう言った謳い文句で売り捌かれているのだと言う。
 男は、偶々幾つか手に入れたそれを小遣い稼ぎに知人へ売りつけようとしたが、その前に左馬刻がやって来たのだと項垂れていた。
 その男の処遇は部下に押しつけ、手に入れた薬は、麻薬を敵視している刑事、入間銃兎に押しつけ、左馬刻は再びシンジュク・ディビジョンへ来ていた。
 電話をかけて呼び出しても良かったが、昨日の今日だ。来ない可能性を考慮して待ち伏せをすることにした左馬刻は、名刺に書かれていた独歩の勤務先の入ったビルの前で、煙草を取り出した。
 見れば、ビルの中はほとんど電気が消えている。煙草を一本吸い終わる頃に、ようやく目的の姿がビルの中から現れた。
「よお、リーマン」
 左馬刻が声をかけると、弾かれたように下を向いていた顔が上がり、明らかに怯えたような顔をする。
「ちょっとツラ貸せや」
「何で………」
「あ?これ落としてっただろうが」
 左馬刻は、持っていた独歩のスーツのジャケットを目の前に差し出す。
「話があんだよ。ついてこい」
「………嫌です」
「んだと?」
 まさか、拒否されるとは思っておらず、左馬刻は独歩の胸倉を掴んだ。
「人に落とし物拾わせといて、随分な態度だな、おい?」
「誰も、拾ってくれなんて言ってない」
 出来る限り眼を見たくなくて、独歩は視線を逸らすしかない。だが、そうして視線を逸らした先で、好奇に満ち溢れた、道行く人々の視線とかち合う。
「離して、くれっ!」
 胸倉を掴んでいる左馬刻の腕を引き離し、一歩下がる。会社のすぐ側で、喧嘩を引き起こすわけにはいかなかった。
「場所、変えましょう。ここは困る」
「いいぜ」
 してやったり、と言う風に左馬刻が笑う。その笑顔すら、今の独歩には不気味だった。


 どこか近場の公園で、と独歩は考えていたが、左馬刻が「暑い中外でする話しじゃねぇし、聞かれて困るのはてめぇだろ」と言うので、仕方なしに、嫌々、どうしようもなく、独歩は自宅まで来た。
 一二三が仕事で良かった、と思いながら鍵を開け、部屋へ入る。締め切りだった家の中は暑くて、リビングのエアコンをすぐに稼働させた。
「それで、話って何ですか?」
 リモコンを置いて振り返ると、左馬刻が室内を見渡すように、リビングの入り口に立って視線を投げている。
「何で昨日逃げた?」
「………理由なんて」
「今の時代、生き辛さはあるだろうが、Ωってだけでどうこう言われねぇだろ」
 現代において、第二性というものは、差別の対象ではない。特に、女性が政治を握り、国を動かすこの国にあっては、そう言った差別的行為は特に嫌われる。世界中を巻き込んだ戦争で人口が減った分、むしろΩは子供を産める希少な性として、大事にされる事が多いはずだ。人口が大幅に減った国では、保護する国すらあるという。
「αのあんたに、分かるわけないだろ」
「あん?」
「親にも兄弟にも腫れ物扱いされて肩身が狭くてしょうがない………その上俺は、っ!」
「何だよ?」
 口走りそうになった言葉を飲み込んで、独歩は口を押さえた。わざわざ、教える必要のない話だ。
 大きく一つ深呼吸をして、手を外した。
「………ジャケット、返してくれ」
 リビングの入り口に立ったままの左馬刻に近づいて差し出した手に、ジャケットは返されなかった。
「あんた、危機感薄いな」
「え?なん」
 返す素振りでジャケットを床へ落とし、差し出された腕を掴んで、独歩の体を背中から壁に押しつける。左馬刻より少し背の低い独歩の体は細く、薄かった。
「ああ。やっぱりな。昨日より匂いが濃い」
 甘い匂いを吸い込むように、首筋へ顔を近づける。いっそ、そのまま噛みつきたい衝動に駆られたが、幾ら左馬刻でも相手の了承なしに、番契約を結んだりはしない。
 けれど、味見の一つ位、許されるだろう。
 左馬刻は、そのまま独歩の首筋を鎖骨の上辺りから耳の下まで、舐め上げた。
「ひっ!」
 舐め上げついでに、薄い耳朶を軽く噛む。
 その瞬間、匂いが更に濃くなった。αを誘う、Ωのフェロモンだ。
「すげぇな。こんな強い匂いは初めてだ」
 αの左馬刻に、番になってくれと言ってくるΩは今までに何人もいた。だが、独歩程の甘さと濃さの匂いを持つ相手はいなかった。
 まるで、包むように匂いが立ち上り、頭の芯を痺れさせるように強く、甘く、喉の渇きを覚えさせるかのような、濃さ。
 αの本能が、食べろ、と言う。
 甘い果実に食らいつくように、細い顎を掴み、そのまま、震える唇に口づける。
 独歩の体は驚きで硬直し、腕を上げることすら出来ない。いや、左腕は物理的に左馬刻に掴まれて、封じられてもいた。
 目の前に、綺麗な白い顔がある。長い睫毛に縁取られた瞼の下に、あの赤い瞳があると思うと、独歩は恐怖で動けなかった。
 呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、唇が酸素を求めて戦慄き、薄く開く。その隙を狙ったのか、左馬刻の舌が独歩の口内へ滑り込んだ。
「はっ………んむっ」
 熱い舌が、独歩の舌を絡め取り、好き勝手に口の中を撫でていく。
(何だ、これ………頭、くらくらする)
 熱くて、意識がふわふわと漂いそうな中、怖いはずのあの眼を、見たいと思った。
 だが、左馬刻の左手が、髪を撫でて襟足に触れ、そのままうなじを撫でた時、独歩の中で唐突に恐怖が膨れ上がり、弾けた。
 強く左馬刻の肩を突き飛ばし、左腕を掴んでいた手を振り払う。
「っのやろ」
 声を荒げようとした左馬刻の勢いは、目の前で大粒の涙を流して泣いている独歩の顔を見て、完全に削がれてしまった。
「ちっ………わぁった。もうしねぇよ」
 お手上げだとでも言うように、左馬刻は両手を肩の辺りで挙げた。それでも、独歩の両眼から涙は止まらず、その場に座り込んで、右手でうなじを庇うように覆う。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ………俺は、俺は………いらない。いらない。いらないんだ」
「おい………」
 その時、玄関の方で物音がした。扉が開いて、外の熱気が入り込んでくる。
「ちょっと独歩ちん、玄関あけっぱじゃん。不用心だっていっつも言って………って、え?何事?」
 靴を脱ぎかけた姿勢で、一二三の視線が、いるはずのない左馬刻へ注がれる。だが、その視線が左馬刻の足下にいる独歩へ向けられると、慌てたように靴を脱ぎ捨て、短い廊下を走ってくる。
「何、何やってんの?独歩、大丈夫?」
「一二三」
 少し前まで自分と触れていた唇が、他の男の名前を呼んだことに苛立った左馬刻の双眸に、剣呑な光が宿った。












2021/4/10初出