座り込んだまま、涙が止まらないらしい独歩を見て、一二三は何故か室内にいる左馬刻へ顔を向けた。 「何したの?」 「てめぇには関係ねぇよ」 「関係なくないっしょ。ねえ、独歩ちん。忘れ物取りに来ただけだから、俺っちまたすぐ店戻んないとなんだけど………このまんまにしておけないっしょ?」 覗き込んでくる一二三の顔を見上げて、みるみるうちに顔を青ざめさせた独歩は、その場から逃げようとした。けれど、噛まれた耳朶が熱くて、うなじが熱くて、ただ、首を左右に振るしか出来なかった。 それでも、一二三は独歩の様子がいつもと違うことには気がついたし、明らかに、うなじから手をどかさないことに気がついた。 「え?………何?まさか、噛まれたの?!」 「噛んでねぇよ!何なんだ、てめぇは!」 「それこっちの台詞だから!ここは俺っちの家でもあんの!」 言われてもう一度見てみれば、一人で住むには広い家だと分かる。リビングに置かれたソファは一人用ではないし、机にセットされている椅子は一脚ではない。 「もー。びくったー。だよねー。独歩、発情期ないもん。番は作れないよ」 「………………何だと?」 「え?嘘?まじ?やべー」 「どういう意味だ、そりゃ!」 「一二三!」 驚きから涙が止まったらしい独歩に怒鳴られて、ばつが悪くなった一二三は、数歩の所にある自室に入り、目的の忘れ物をポケットに入れ、出てきた。 「独歩に直接聞いて。今のは口滑らした俺っちが悪いけど、詳しくは勝手に言えないし………わり、独歩ちん。何かぁ、引っかき回しちゃった感じー?」 「お、お前っ」 そのまま一二三は玄関へと向かい、靴を履き、短く「じゃ」と言うと出て行った。しっかりと、外から鍵をかける音が響いた。 涙は止まったが、一二三を追いかけるわけにもいかず、結局また二人きりになってしまい、どう動いていいか分からず、独歩は座り込んだまま、効き始めたエアコンの冷気に、軽く肩を震わせた。 「おい」 溜息とともに落ちてきた声に、反射的に顔を上げる。 「っ………はい」 「立てるか?」 目の前に差し出された左馬刻の手を、怖くて掴めずにいると、強引に左手を掴んで引き上げられ、立たされる。 「もう、何もしねぇよ。今のホストの話、詳しく聞かせろや」 「嫌で」 「無理矢理口割らせんぞ」 湯気のように立ち上る怒気が見えた気がして、独歩は落ちていた自分のジャケットを拾い、食事用の椅子の背もたれへかけた。 「コーヒーでいいですか?」 話を聞かない限りは、帰る気がないのだろう左馬刻を前に、逃げる手段など見つからなかった。 この国において、第二性は義務教育を終えるまでに調査される。勿論、望めば個々人でそれ以前に調べる事も可能だ。だが、大抵男女ともに第二次性徴を迎える頃、十三歳〜十四歳程度で、学校の健康診断と共に検査が行われる事が多い。無論、それまでに学校の授業などで、第二性についての勉強がある。 独歩も例に漏れず、学校の健康診断で第二性の調査を行った。 結果は、Ωだった。両親は最初こそ驚いていたが、それでも、独歩を愛さないと言うことはなかったし、家族仲が壊れるということもなかった。 いつか来るかもしれない発情期に備えて、発情期を抑制する薬や、時期をずらす薬などがあること、期間は人によって差があることなどを独歩は学んでいった。 独歩の通っていた中学校も、高等学校も、Ωの生徒は比較的人数が少なかった。そもそも人口に占める割合が少ないのだから、当たり前と言えば当たり前だが、それでも、定期的に数週間学校を休む生徒は、いつしか特定されていき、Ωだと知られてしまう。 けれど、何年経っても、独歩には発情期が来なかった。早ければ、中学生の内に来る者もいる。遅くとも高校卒業程度で、発情期は来るものだとされている。しかし、高校を卒業しても、独歩には発情期がなかった。 流石におかしいと心配した両親は、独歩を病院へ連れて行った。 生殖機能が、ないのだと言われた。 先天的に、子供を作る機能が備わっていないと言われ、両親は泣いた。 Ωが本来持つはずの生殖機能を持たないから発情期も来ないし、Ω特有のαを誘うフェロモンも出ない。だから、番は作れない。 そう、診断された。 両親は、弟は、それから独歩を腫れ物扱いし始めた。それは、そうだろう。Ωだと診断されながら、Ωとしての特性を持たない、欠陥品だ。出来損ないだ。 いや、どう慰めていいか、どう生きていくよう指針を示せばいいか、わからなかったのかもしれない。 独歩は、諦めた。発情期が来ないと分かっているなら持っている必要はないと、抑制剤も全て捨てた。自分の事をΩだと知っている人の居ない場所へ行こうと、家を出た。 βを装っていれば、仕事が出来ないと揶揄されても、生きていくのに不自由はしなかった。実際、これまで独歩をΩだと気づいた人はいない。今、身近で知っているのは、幼馴染みの一二三と、主治医である寂雷だけだ。 そこに、左馬刻が加わった。 「なので、俺には関わらないでください」 「何だと?」 「子供が産めないΩに用はないでしょう?」 「俺がいつんなこと言ったよ」 「バトルで会うのは仕方ないですけど、それ以外はもう関係ないので」 「勝手に話進めてんじゃねぇぞ」 「俺はっ!」 自分の声に驚いて、独歩は一瞬声を詰まらせ、下を向いた。 「俺は、もう、諦めたんだ。いらないんだ。αも、番も、恋だとか愛だとか、そんなものに振り回されたくない。今のこの生活で十分なんだ!」 偶々、番のいないαが番のいないΩのフェロモンに気がついた、ただ、それだけだ。そもそも、そこがおかしいのだけれど、左馬刻がそう言うのであれば、信じるしかない。自分のフェロモンが出ているかどうかは、独歩自身に判断は出来ない。 Ωは、そもそも人類が繁栄するために、種を存続するために、進化した種だとも言われている。だからこそ、繁栄と存続のために、繁殖に適した体に生まれるのだと。 ………なのに、そのΩに生まれながら、繁殖に適していないと言われたら、どうしていいか分からないじゃないか……… 独歩は、忘れられないのだ。あの時、医者から告げられた言葉を聞いた母が、泣きながら「ごめんね」と呟き続けたのを。母のせいではない。そう言っても、泣き続けたのだ。 だから、蓋をして、閉じ込めて、置き去りにして振り返らず、ただ毎日を変わらずに過ごしていく事だけを、求めている。 変化は、いらない。 「帰ってくれ………」 「俺様の話は終わってねぇぞ」 「お願いだから、帰ってくれ」 一番知られたくないことを、黙っていたいことを話したのだ。これ以上話すことなど、独歩にはなかった。 懇願するように下を向く独歩の姿に、左馬刻は溜息をついて立ち上がり、出されたコーヒーを飲み干して、手を伸ばした。 「てめぇの匂い、俺は嫌いじゃねぇぞ」 独歩の髪を混ぜるように頭を一撫でして、左馬刻は玄関へ向かった。 「またな」 靴を履く音、鍵を開ける音、扉を開く音、扉を閉める音。遠ざかっていく、足音。 左馬刻を見送りもせず、顔も上げられず、独歩はただそっと、撫でられた髪に触れた。 ![]() 2021/5/2初出 |