* 海よりも深く、溺れるように 6 *


 まだ、匂いが纏わりついている気がした。けれど、それに対して嫌悪感を抱いていないことの方が、不思議だった。
 今まで左馬刻に近づいてきたΩは、その大半が番にしてくれと望むか、一時的な快楽を求めるもので、フェロモンさえ出ていればαが釣れる、と思っている者が多かった。
 それを、悪いとは言わない。Ωが平穏に生きて行くには、αの番を持つのが一番いいとされているからだ。そうすることで、他のαを誘うこともなくなり、発情期間やフェロモンの放出量が安定すると言われている。
 αがΩを選ぶのではない。Ωがαを選んでいる。優秀な血筋を、種を残すために、本当に優秀な遺伝子を、Ωが本能で選ぶ。近年の研究ではそう言われていた。
 だが、だからといってαに選ぶ権利がないわけではない。どうせ番うならば、好いた相手同士の方がいいに決まっているし、フェロモンの相性がいい相手がいいだろう。
 左馬刻にとって、独歩の匂いは、今までに会ったどのΩよりも、相性のいい、好みの匂いだった。
 いらない、諦めた、関係ないと言われて手を出すのは留まったが、正直、一二三が乱入していなければ、匂いに絆されて、うなじを噛んでいた可能性は、ある。
「番、ねぇ」
 吸い込んだ煙草の煙を大きく吐き出して、その煙の上がっていく方向を見る。少し視線をずらせば、今出てきたばかりの部屋の窓から、明かりが漏れている。
 左馬刻は、今まで第二性を重要視してこなかった。αである自分を、殊更顕示してもこなかった。理由としては、単純に相手に困ったことがない、と言うのが上げられた。
 職業柄か、見た目のせいか、第二性に関係なく女は言い寄ってきたし、慕ってくる男も多かった。せいぜい、Ωのフェロモンに気づいた時に「ああ、αだったな、俺」と言う程度のものだったのだ。
 だが、あの匂いは駄目だ。相性だとか、好みだとか言う言葉では、到底足りない。暴力的なまでに、左馬刻の中のαを刺激し、欲を剥き出しにさせようとしてくる。
 あの泣いていた顔を、熱と欲に浸らせて、髪の一筋から爪先まで、左馬刻の匂いで埋めつくしてやりたかった。


 朝なんて来なければいい、夜なんて明けなければいい、と思っていても、太陽は当たり前のように空へと昇る。独歩の気分など、忖度してくれるわけはない。
 今日一日を耐えれば、土日の二連休だ。どうせ、仕事が終わらずに、土曜日は休日出勤になるのだろうけれど。毎週そうだ。二連休のはずなのに、必ず日曜のみの休みになる。酷いと、日曜日すら潰れるのだ。それすら、仕事が遅い、こなせない自分が悪いのだが。
 その日の独歩は、積み上げられた机上の書類を、地道に片付けることに専念しようとした。だが、どんなに独歩が自分の仕事に専念しようと思っても、仕事は割り振られるし、上司からの無茶振りがなくなることはない。
 嫌だと断りたかった。だが、客からの要請があるならば行かなければならないし、上司に楯突くことも出来なかった。
 そんなにそうそう街中で出会すという事もないだろう………そう、心の中で祈るようにして、ヨコハマ・ディビジョンへ向かった。


 とっぷりと日が暮れ、街中には金曜日の夜という事もあってか、仕事帰りと思しき人々の姿が多くあった。きっと、これから居酒屋だとかカラオケだとかへ行くのだろう。自分はまだこれから仕事だ、と思うと気が滅入ったが、それでも独歩は会社へ戻らないわけにはいかない。机の上に残してきた大量の書類を、少しでも片付けなければ。
 重い足取りで歩いていると、唐突に後ろから肩を叩かれた。
「お〜、やっぱり、観音坂」
 振り返って見ると、声をかけてきたのは、茶色い髪の男。染め直していないのか、髪の根元から黒くなってきていた。
「あれ?俺のこと覚えてねぇ?高校の時三年間クラス一緒だったんだぜ?」
 高校生活のほとんどは、一二三と一緒に行動していた記憶しかない。人との付き合いが苦手だった独歩は、クラスメイトの顔も名前も、覚えてはいなかった。
「この間、街頭ニュースでお前が映ってさ」
「え?」
「ほら、ラップバトルの決勝!その映像見てさ、うわ、懐かしー、ってなったんだよ」
「そ、そう」
「伊弉冉も一緒に映ってたなー。お前ら、まだ一緒に行動してんだな。高校ん時と変わんねぇの?」
「まあ」
「なあ、折角久しぶりに会ったんだし、飲み行かねぇ?あ、酒飲めるよな?」
「飲めるけど………いや、俺、まだ仕事が」
 独歩の言葉など聞かず、男が肩へと腕を回してくる。それでもまだ、独歩はその男の名字すら、思い出せなかった。
「いい店があんだよ。な?」
「いや、ちょっ」
「いーから、いーから、行こうぜ!」
 強引に歩き出した男の腕を振り解けず、独歩は引きずられるようにして、街中を歩く。
 その姿を見咎めた視線が、街の中にあることに気づきもせず。


 眠ってしまった独歩に肩を貸し、辿り着いたのは安いビジネスホテル。
 懐かしさから声をかけたのは本当だった。社会の厳しさなど何も知らなかった学生時代を、思い出したくて。だが、話をしている内に、段々と苛立ちが募っていった。
 どうしてこいつが優勝者なんだ?俺とこいつの、一体どこが違う?女も仕事も失って、明日の展望さえ見えない俺より、仕事も出来なさそうで卑屈そうなこいつが上なのか?
 募った苛立ちは、怒りに変わった。
 男は、何日か前にクラブで売りつけられた薬を、独歩が席を立った間に、彼の飲み物の中へ入れた。アルコールで飲めば、睡眠剤のような効果が得られる、と言う話を信じて。
 眉唾だと思っていた薬は、本物だった。三十分と経たない内に独歩は船を漕ぎ始め、寝息を立て始めた。
「さて、と」
 ここまで運んでくるのはそれなりに大変だった独歩の体を、乱暴にベッドの上へ放り出し、彼の鞄を拾い、ひっくり返す。
 ラップバトルの優勝チームには、賞金が出ることになっていた。男もバトルに参加していたのだ。その位は知っていた。
「金位恵んでくれよ、っと」
 見つけた財布の中身を見て、男は白けた。ほとんど、紙幣が入っていないのだ。
「他に何かねぇのかよ」
 旧友の財布の中身を抜く自分を、浅ましいとは思う。だが、男も自身を心底からの悪人だとは思っていない。路上へと独歩を置き去りにすることも出来た。夏なのだ。例え置き去りにしても、風邪などひかないだろう。
 けれど、こんなことなら置き去りにすれば良かった、と後悔している。置き去りにすれば、ホテル代も抜けたのに、と。
 財布の中からカードを抜いては見、抜いては見て、最後の一枚は健康保険証だった。
 使えない、と財布を放り出そうとして、ふと、男は健康保険証をもう一度抜いた。確かこのカードには、第二性が記されていたはずだ。大事な個人情報だが、おいそれと他人に見せるものでもないからだ。
 男の口元に、下卑た笑みが浮かんだ。
 男の記憶では、独歩が高校時代長期間の休みを取っていた記憶はない。まあ、発情期には個人差があるという話だし、一々他人の第二性など、覚えていない。
 だが、男はΩが嫌いだった。何がどう嫌だというわけではないが、優秀なαとも、一般的なβとも全く性質の違う性だ。生理的に受け付けない、とでも言えばいいのだろうか。
 一度ポケットにねじ込んだ金をサイドテーブルの上へ出し、金で下へ押しやられていた紙ゴミやレシート類を取り出すと、独歩に盛った薬の残りが何錠か、混ざって出てきた。
 男は水を取りに、洗面所へと向かった。












2021/6/5初出