まだ、匂いが纏わりついている気がした。けれど、それに対して嫌悪感を抱いていないことの方が、不思議だった。 今まで左馬刻に近づいてきたΩは、その大半が番にしてくれと望むか、一時的な快楽を求めるもので、フェロモンさえ出ていればαが釣れる、と思っている者が多かった。 それを、悪いとは言わない。Ωが平穏に生きて行くには、αの番を持つのが一番いいとされているからだ。そうすることで、他のαを誘うこともなくなり、発情期間やフェロモンの放出量が安定すると言われている。 αがΩを選ぶのではない。Ωがαを選んでいる。優秀な血筋を、種を残すために、本当に優秀な遺伝子を、Ωが本能で選ぶ。近年の研究ではそう言われていた。 だが、だからといってαに選ぶ権利がないわけではない。どうせ番うならば、好いた相手同士の方がいいに決まっているし、フェロモンの相性がいい相手がいいだろう。 左馬刻にとって、独歩の匂いは、今までに会ったどのΩよりも、相性のいい、好みの匂いだった。 いらない、諦めた、関係ないと言われて手を出すのは留まったが、正直、一二三が乱入していなければ、匂いに絆されて、うなじを噛んでいた可能性は、ある。 「番、ねぇ」 吸い込んだ煙草の煙を大きく吐き出して、その煙の上がっていく方向を見る。少し視線をずらせば、今出てきたばかりの部屋の窓から、明かりが漏れている。 左馬刻は、今まで第二性を重要視してこなかった。αである自分を、殊更顕示してもこなかった。理由としては、単純に相手に困ったことがない、と言うのが上げられた。 職業柄か、見た目のせいか、第二性に関係なく女は言い寄ってきたし、慕ってくる男も多かった。せいぜい、Ωのフェロモンに気づいた時に「ああ、αだったな、俺」と言う程度のものだったのだ。 だが、あの匂いは駄目だ。相性だとか、好みだとか言う言葉では、到底足りない。暴力的なまでに、左馬刻の中のαを刺激し、欲を剥き出しにさせようとしてくる。 あの泣いていた顔を、熱と欲に浸らせて、髪の一筋から爪先まで、左馬刻の匂いで埋めつくしてやりたかった。 朝なんて来なければいい、夜なんて明けなければいい、と思っていても、太陽は当たり前のように空へと昇る。独歩の気分など、忖度してくれるわけはない。 今日一日を耐えれば、土日の二連休だ。どうせ、仕事が終わらずに、土曜日は休日出勤になるのだろうけれど。毎週そうだ。二連休のはずなのに、必ず日曜のみの休みになる。酷いと、日曜日すら潰れるのだ。それすら、仕事が遅い、こなせない自分が悪いのだが。 その日の独歩は、積み上げられた机上の書類を、地道に片付けることに専念しようとした。だが、どんなに独歩が自分の仕事に専念しようと思っても、仕事は割り振られるし、上司からの無茶振りがなくなることはない。 嫌だと断りたかった。だが、客からの要請があるならば行かなければならないし、上司に楯突くことも出来なかった。 そんなにそうそう街中で出会すという事もないだろう………そう、心の中で祈るようにして、ヨコハマ・ディビジョンへ向かった。 とっぷりと日が暮れ、街中には金曜日の夜という事もあってか、仕事帰りと思しき人々の姿が多くあった。きっと、これから居酒屋だとかカラオケだとかへ行くのだろう。自分はまだこれから仕事だ、と思うと気が滅入ったが、それでも独歩は会社へ戻らないわけにはいかない。机の上に残してきた大量の書類を、少しでも片付けなければ。 重い足取りで歩いていると、唐突に後ろから肩を叩かれた。 「お〜、やっぱり、観音坂」 振り返って見ると、声をかけてきたのは、茶色い髪の男。染め直していないのか、髪の根元から黒くなってきていた。 「あれ?俺のこと覚えてねぇ?高校の時三年間クラス一緒だったんだぜ?」 高校生活のほとんどは、一二三と一緒に行動していた記憶しかない。人との付き合いが苦手だった独歩は、クラスメイトの顔も名前も、覚えてはいなかった。 「この間、街頭ニュースでお前が映ってさ」 「え?」 「ほら、ラップバトルの決勝!その映像見てさ、うわ、懐かしー、ってなったんだよ」 「そ、そう」 「伊弉冉も一緒に映ってたなー。お前ら、まだ一緒に行動してんだな。高校ん時と変わんねぇの?」 「まあ」 「なあ、折角久しぶりに会ったんだし、飲み行かねぇ?あ、酒飲めるよな?」 「飲めるけど………いや、俺、まだ仕事が」 独歩の言葉など聞かず、男が肩へと腕を回してくる。それでもまだ、独歩はその男の名字すら、思い出せなかった。 「いい店があんだよ。な?」 「いや、ちょっ」 「いーから、いーから、行こうぜ!」 強引に歩き出した男の腕を振り解けず、独歩は引きずられるようにして、街中を歩く。 その姿を見咎めた視線が、街の中にあることに気づきもせず。 眠ってしまった独歩に肩を貸し、辿り着いたのは安いビジネスホテル。 懐かしさから声をかけたのは本当だった。社会の厳しさなど何も知らなかった学生時代を、思い出したくて。だが、話をしている内に、段々と苛立ちが募っていった。 どうしてこいつが優勝者なんだ?俺とこいつの、一体どこが違う?女も仕事も失って、明日の展望さえ見えない俺より、仕事も出来なさそうで卑屈そうなこいつが上なのか? 募った苛立ちは、怒りに変わった。 男は、何日か前にクラブで売りつけられた薬を、独歩が席を立った間に、彼の飲み物の中へ入れた。アルコールで飲めば、睡眠剤のような効果が得られる、と言う話を信じて。 眉唾だと思っていた薬は、本物だった。三十分と経たない内に独歩は船を漕ぎ始め、寝息を立て始めた。 「さて、と」 ここまで運んでくるのはそれなりに大変だった独歩の体を、乱暴にベッドの上へ放り出し、彼の鞄を拾い、ひっくり返す。 ラップバトルの優勝チームには、賞金が出ることになっていた。男もバトルに参加していたのだ。その位は知っていた。 「金位恵んでくれよ、っと」 見つけた財布の中身を見て、男は白けた。ほとんど、紙幣が入っていないのだ。 「他に何かねぇのかよ」 旧友の財布の中身を抜く自分を、浅ましいとは思う。だが、男も自身を心底からの悪人だとは思っていない。路上へと独歩を置き去りにすることも出来た。夏なのだ。例え置き去りにしても、風邪などひかないだろう。 けれど、こんなことなら置き去りにすれば良かった、と後悔している。置き去りにすれば、ホテル代も抜けたのに、と。 財布の中からカードを抜いては見、抜いては見て、最後の一枚は健康保険証だった。 使えない、と財布を放り出そうとして、ふと、男は健康保険証をもう一度抜いた。確かこのカードには、第二性が記されていたはずだ。大事な個人情報だが、おいそれと他人に見せるものでもないからだ。 男の口元に、下卑た笑みが浮かんだ。 男の記憶では、独歩が高校時代長期間の休みを取っていた記憶はない。まあ、発情期には個人差があるという話だし、一々他人の第二性など、覚えていない。 だが、男はΩが嫌いだった。何がどう嫌だというわけではないが、優秀なαとも、一般的なβとも全く性質の違う性だ。生理的に受け付けない、とでも言えばいいのだろうか。 一度ポケットにねじ込んだ金をサイドテーブルの上へ出し、金で下へ押しやられていた紙ゴミやレシート類を取り出すと、独歩に盛った薬の残りが何錠か、混ざって出てきた。 男は水を取りに、洗面所へと向かった。 ![]() 2021/6/5初出 |