頭が、痛い。酒を飲んだ覚えはあるが、自分がどこにいるのか分からず、独歩は痛みを堪えて瞼を押し上げた。けれど、視界も歪んでいて、天井を見ているのか、壁を見ているのか、床を見ているのか分からない。 「お、目が覚めたか、観音坂?」 名前を呼ばれて、ゆっくりと声のした方へ首を動かすと、まだ名前の思い出せない、かつてのクラスメイトが立っていた。 「水飲むか?」 言葉と共にグラスを差し出され、肘をついて上体を起こし、受け取る。そこで、ようやく自分がベッドに寝ているのだと気づいた。 「居酒屋に置き去りにするわけにもいかないだろ?お前が住んでる場所なんか知らないから、とりあえずビジネスホテルに来た」 独歩はグラスの水を半分ほど飲み、その水の味が、おかしいことに気づいた。 (これ、水か?何か、苦い、ような) 酒にはそれほど弱くないはずだが、頭の痛みで、状況がうまく飲み込めなかった。 グラスを視界に入ったサイドテーブルの上に置き、ベッドへ倒れるように横になる。 明日………いや、もう今日かもしれない………は、仕事確定だ、と落ち込んでいると、ベッドが軋みをあげた。 「観音坂、お前、Ωだったんだな」 「………え?」 すぐ近くに見慣れない男の顔があって驚き、言われた言葉を理解し、独歩は青くなった。 だが、独歩の動揺など気にもとめず、男は独歩のズボンのベルトに手をかけ、外しにかかり、抜いてしまう。 「何………やめっ」 「どうせ、Ωなんて散々色んな奴らとヤッてんだろ?ああ、それとも伊弉冉が相手か?」 「ふざけっ………離せっ!」 足を上げて、独歩は男の腹を蹴り上げた。相変わらず引かない頭痛を、抑えられるわけはないのに抑えるように右手を頭にやり、男から距離をとろうと、体を起こした。 はずだった。 「あ、れ?」 ぐらりと、視界が大きく揺れ、独歩は再びベッドの上に倒れ込んだ。 「ああ、やっと効いてきたか………いって」 腹を擦りながら、男が独歩の足を封じるように、両脚の上に馬乗りになる。 「暴れんなよ。めんどくせぇから」 (体が、熱い。力が入らない。何だ、これ) 男が何か、話している。だが、独歩の意識は内側へと向いていて、言葉は何も入ってこなかった。それでも、自分の置かれている状況が、とても危険な状況だということだけは理解できた。 (逃げないと………それにこの男は、違う) どうやって逃げようかと考える思考も、熱さのせいでまとまらない。伸びてくる男の腕を払い、自分を守る為に、ベッドの上で這うように逃げるしか、独歩には出来なかった。 (違う、違う、これじゃない) 違う、と言う言葉で頭の中が埋めつくされていく。自分が欲しいのは、これじゃない。 ヨコハマの街中で左馬刻が独歩に気がついたのは、匂いがしたからだった。それなりに距離がある中、多くの人間が歩いていたにも関わらず、匂いに気づいた事に違和感を抱いたが、部下に呼ばれて、その場を離れた。 けれど、匂いの強さが気になった。あれ程の匂いを撒き散らしながら、周囲を警戒しないで歩いていられることが、不思議だった。 Ωの匂いは強すぎる場合、αだけでなくβを誘うこともあると言われ、そのフェロモンに当てられて道を踏み外す人間は、悲しいことに、一定数存在する。 火を点けていない煙草を噛みながら、左馬刻は事務所を出た。慌てた部下がついてこようとしたが、散歩だと言って置いていった。 ヨコハマの街中を歩き回ったところで、見つけられるわけはない。決して小さな街ではないのだ。それでも、頭のどこかで、会えないと言うことはないだろう、と言う、確証のない確信が持てた。 繁華街を抜け、ビジネス街に差し掛かった辺りで、左馬刻は匂いに気がついた。昨日とは比べものにならないほど薄く、微かではあるが、匂いはする。だが、姿はない。当然だろう。既に日付が変わった時間帯で、ビジネス街は閑散としている。 ふと目についたのは、古びたビジネスホテル。あまり繁盛しているようには見えなかったが、エントランスの明かりがついている。 ホテルのフロントに足を踏み入れたが、受付をする人間がいない。左馬刻は、受付の脇の壁に設置された案内図を見て、勝手に階段を上ることにした。 いるかどうかは分からない。それでも、匂いに釣られるように足は勝手に階段を上る。 “運命の番”というものがあるらしい。αとΩの間でだけ囁かれる、都市伝説のようなものだ。曰く、お互いに一目見ただけでそうだと分かるとか、本能で、フェロモンで惹かれるのだとか、様々な言われ方をする。 左馬刻は、信じていない。もしもそんなものがあるのならば、恋も愛もいらなくなる。本能で、遺伝子で、理性や知性を持たない動物のように繁殖するだけで良くなるだろう。 自分自身で選びたいだけだ。例え、それが本能の命令だろうと、フェロモンの誘発だろうと、最後の最後に、左馬刻自身の意思で。 三階に辿り着いた時、匂いが強くなった。 「マジかよ」 確信はあったが、まさか本当に見つけられると思っていなかった左馬刻は、驚きながらもその階に足を踏み入れた。 (何だ、この匂い。何で誰も気づかねぇ?) 甘く濃いだけではない。酸味のような、嫌な匂いが混じり、左馬刻を苛つかせた。 廊下を歩き、一際匂いの強く感じられる部屋の前で止まり、一応ドアノブを回してみたが、勿論開くわけはない。だが、軽く叩いてみると、扉が薄い。簡単に破れそうだった。 二度、三度と扉を蹴り、四度目に体ごとぶつかると、扉は開いた。 一歩足を踏み入れて顔を上げた左馬刻は、室内の様子を見て、怒髪天を衝いた。 廊下が随分騒がしいな、と男が思っていると、扉が開いて、人が入ってきた。 まさか、鍵をかけていたドアが破られると思っていない男は、声を上げられないようにと、独歩の口を押さえ、シャツを脱がしかけている状態で硬直し、誰が、と認識をする前に、その体を壁まで吹き飛ばされていた。 ぶつけた頭と背中が痛い、と思った次の瞬間には、顔面に蹴りが入った。 「おい、てめぇ、誰に断って手ぇ出してやがんだ?あぁ?」 痛い、と声を上げる間もなく髪を掴まれ、床に頭を叩きつけられる。もう、痛いと思う暇すらなく、男は意識を失った。 動かない男の髪から手を離し、ベッドへ近づいて伸ばした腕は、弱々しい力で弾かれた。 「や、だ………嫌、たす………」 視線が、定まっていない。呂律も回らないのか、言葉が最後まで言えていなかった。 何かがおかしい、と室内を見渡せば、独歩の物と思しき鞄や荷物が散乱している。サイドテーブルには金銭と、錠剤があった。 「何盛られやがった!」 怒鳴った所で、答える相手はいない。盛っただろう相手は、左馬刻が潰してしまった。 逃げようとしているのか、独歩がベッドの上で手足を動かす。しかし、力が入らないのか、ほとんど動けていなかった。 それでも、匂いは昨日の比ではない程強く濃く、酸味を伴ってはいるが、甘く漂う。 (これで、発情期がねぇだと?ふざけんな) 左馬刻は、独歩の腕を掴み、その上半身を引き起こすと、無意識的に細い体を腕の中へ収めて、暴れられない様に力を籠めた。 薬で意識が朦朧としている相手をどうこうする気は、左馬刻にはなかった。 (温かい………何だろう、この匂い………………ああ、これだ。この匂いは、大丈夫) 不意に吸い込んだ匂いが、恐怖を消す。それは左馬刻の、αのフェロモンだった。 安心した独歩は、力の入らない手で左馬刻のシャツを掴むと、そのまま意識を手放した。 くったりと眠りに落ちた独歩を見て、左馬刻はスマホを取り出し、部下へ電話をかけ、車を回すように場所を伝えた。 ![]() 2021/7/10初出 |