* 海よりも深く、溺れるように 8 *


 薬と男をまとめて銃兎の所へ送らせ、しばらくしてかかってきた電話で、銃兎は半分キレていた。怒鳴っているのを聞き流して、薬の効果を聞けば、先日左馬刻が預けた物と同じ薬だという。麻薬とは違う、と言う触れ込みも付随して、安易に手を出す輩が多く、数が出回っているのだという。ただ、数を多く生産しているせいか、成分が薄いため持続性がなく、半日とかからずに完全に抜け、麻薬のように検査にも引っかからない為、現行犯でしょっ引く他ないという話だった。
 持続性がないなら、話は簡単だ。待てばいい。そう結論づけた左馬刻は、銃兎との電話を切り、煙草を銜えて火を点けた。
 煙草の匂いで誤魔化しきれるとは思っていなかったが、吸っていなければ、独歩のフェロモンの匂いの強さに、左馬刻自身が急性の発情(ラット)を迎えそうだった。
 シンジュクへ帰しても良かったが、他のαが気づかないとも限らない。医者の寂雷に預けようかとも思ったが、寂雷もαのはずだ。
(他のヤツに食われてたまるか)
 その思考に気づいた瞬間、左馬刻は、自分が後戻り出来ない場所に立っていることに、気がついた。
 ホテルを出る前に意識を失った独歩は、そこからずっと眠っている。自分の部屋の、自分のベッドに独歩が寝ている状況が信じられなかったが、認めるしかない。
(こいつが、俺のΩだ)
 一度そう認めてしまえば、ここ数日の自分の行動も、感情も、理解できた。
 問題は、ここから先。番になるかどうか。
 左馬刻に異存はない。番が出来れば、他のΩから誘われることはなくなる。面倒が一つ減るというものだ。
 最後の煙を吐き出して灰皿へ煙草を押しつけ、火を消す。独歩を寝かせている寝室の扉を開けると、隔てられていたことで少しは遮られていたらしい匂いが、見えない煙のように漂っているような感覚に襲われた。
「クソッ」
 舌打ちしながら近づき、ベッドの縁に腰掛ける。
 正直、褒められてもいいはずだ。寝込みを襲うこともせず、ホテルでも襲わず、この匂いに耐えているのだから。
 癖のある、赤い髪を撫でる。昨夜も触れて思ったが、存外に柔らかいのだ。そのまま指先を滑らせて、閉じられた瞼を軽く撫でる。この下にある、深い色をした、あの涙で濡れた眼が、見たかった。
 撫でられたことで覚醒を促されたのか、ゆるゆると震えながら、独歩の瞼が押し広げられた。


 耳の奥で、鼓動が大きく響いている。
「あっ………」
 目を覚ますと同時に襲ってきた恐怖に、独歩は反射的に体を起こして逃げようとした。だが、目の前にいるのが左馬刻だと気がついて、上体を起こすだけにとどめる。
「あ、あの」
 覚えているのは、酒を飲んで眠りこんでしまい、ホテルへ運ばれた事と、旧友(と思しき男)にΩだと知られたことだ。
 何故今目の前に左馬刻がいるのか、自分のいる場所がどこなのか、今が何時なのか、聞きたいことは沢山あったが、どう口を開けばいいか、分からなかった。
「え、と」
「頭ははっきりしてるか?」
「え?あ、はい」
 酒を飲んだ後に酷かった頭痛は、ない。美味しくなかった水を飲んだ後の、靄がかかったような意識の不確定さは、なかった。
「じゃあ、いいな」
「え?」
 左馬刻の綺麗な顔が近づいてくる、と独歩が緊張で体に力を入れるのと、唇が塞がれるのとが、同時だった。
 昨夜(いや、もう一昨夜か)のような荒々しいものではなく、啄むように何度も唇に触れては、離れるのを繰り返す。
 何となく、背中と壁までは距離があるように感じていた。だから、逃げようと思えば逃げられるはずだ。視線をずらせば、開いたドアだって見える。けれど、独歩の体からは力が抜け、逃げようとは思わなかった。
(何で………気持ちいい)
 何度となく触れられた唇が自然と開き、赤い舌が覗いたのを見逃さずに、左馬刻は独歩の呼吸を奪うように、その唇を塞ぐ。
 舌を絡めて強く吸い上げれば、独歩の肩が跳ねるように震える。だが、左馬刻は一昨夜とは違い、腕を掴むような事はしなかった。
 逃げ道は、残してやる、と。
「はっ………ふっ………な、何で」
 言ったはずだ。自分はΩだが、役に立たないのだと。左馬刻程のαならば、引く手数多だろう。自分のような出来損ないの、欠陥品のΩに手を出す理由が、どこにもない。
 真っ直ぐ見てくる左馬刻の視線から逃げるように、独歩は視線をずらした。
 逃げたい。でも、逃げられない。いや………逃げたく、なかった。
 ここで逃げたら、きっともう、二度と、手に入れられない。
(何が?)
 自分は、何を手に入れられると思った?これだ、と思ったのは、何だった?
 答えを探すように、独歩は手を伸ばして、左馬刻に触れようとした。だが、その手は届く前に左馬刻に掴まれる。
「選べ」
「え?」
 掴んだ手を引き寄せた左馬刻が、その掌に唇を寄せ、軽く歯を立てた。
「このまま帰るか、ここで俺に抱かれるか」
「な、ん」
「こっちも限界なんだよ。てめぇの匂いが強すぎて、発情しねぇって言い切れねぇ」
「そ、んな、だって」
「てめぇの言い分は聞いた。でもな、俺様はそんなのどうでもいいんだよ」
 そうだ。最初から、そんなものはどうでも良かったのだろう。独歩の言い分はそれなりに筋が通っていた。だが、それが左馬刻に関係あるかと言われれば、ない。
 手に入れたければ、手に入れる。それだけだ。考えることが必要ならば、それはその時に考えればいいだけだ。
 歯を立てた場所から、指と指の間に舌を這わせると、独歩が小さく声をあげる。
「てめぇの匂いが気に入った。俺は、それでいい。だから、選べ」
 掴んでいた手を離して、独歩を自由にしてやる。
 独歩の視線がドアに向けられる。が、すぐに戻されて、下を向いてしまう。しばらくの沈黙の後、独歩が口を開いた。
「俺は、きっと、相応しくない」
「んだと?」
「碧棺さんには、もっと、いい、Ωが、いると、思います」
 選択肢も、逃げ道も与えて、なお逃げず、選択もしない独歩に、流石に頭にきた左馬刻は、独歩のシャツの襟を乱暴に掴んだ。
「俺様が欲しいのか、欲しくないのか、どっちだ!」
「っ………………し、い」
「聞こえねぇよ!」
「欲しい、です。でも、俺は」
 掴んだ独歩の襟を離さず、そのまま細い体をベッドへ押し倒す。
「覚えとけ」
 独歩の右手を掴んで、左馬刻は自身の心臓の辺りへ、手を当てさせた。
「これが、てめぇのαだ」
「俺、の」
 途端、独歩の眦から涙が零れた。
「おい、ここで泣くんじゃねぇよ」
「ちがっ、泣きたい、わけじゃ」
 その時、ようやく独歩は理解した。
 左馬刻から逃げ出した時も、左馬刻に初めてキスをされた時も、悲しくて、辛くて泣いたわけではない。
「嬉、しい………っ」
 こんな、駄目で出来損ないの自分を、選んでくれる人がいる。触れてくれる人がいる。
「はっ!そうかよ。なら、大人しく俺様に噛まれておけ」
 左馬刻の手が伸びて、独歩の首筋からうなじを軽く指先でなぞり、擽った。












2021/8/7初出