* 恋知らず 前編 *


 朦朧とした意識の中で、芳しい香りを嗅いだ。甘い果実のような、瑞々しい香りを。
「一口でいい。食べて下さい」
 男の声がする。毎日聞いている声だ。穏やかで、体の内側にすんなりと入ってくる、低く静かな声。
「お願いします」
 震える声の懇願に、何とか唇を開いた。もう、唇を開け閉めする気力がなかったのだ。
 何かが、口の中に入ってくる。柔らかく、弾力のある、何か。甘いような、苦いような不思議なそれを、最後の力を振り絞るようにして、嚥下した。
「………私は、幾度罪を重ねれば………どうか、君が私を憎んでくれるよう………」
 男の声が、震えている。怒りなのか、悲しみなのか分からない、静かな声音で。
 そこから先は、意識が闇に閉ざされて、分からなかった。


 貧しい家だった。日々食べていくものを確保するのが精一杯の、農家。けれど、家族が揃っていることが幸せだと、明るく生きていた。若い夫婦と、一人の子供。
 家族の幸せが壊れた切掛は、はやりやまいだった。村の誰かがどこかの村で貰い、それが村中に広がった。最初に奪われていったのは、幼い命だった。
 一人、また一人と、子供の命が奪われ、消えていく。夫婦も勿論、自分達の子供の命が奪われることを恐れた。だが、先に奪われたのは夫婦の命。子供の命を奪われないようにと、自分達の食事すら子供に与え、体が衰えた所へ、はやりやまいが牙を剥いた。
 夫婦の命が消え、子供が一人残され、次は自分の番だと、止まらない咳を繰り返していた所へ、医者が現れた。
 医者は、旅をしているのだと言う。珍しい薬を探し、治療法を探し、治せる人を一人でも増やせるように、と。その折、たまたま村の話を聞いて、足を運んだのだという。
 その時には、村の半数が死滅していた。もう、どの家の誰が死んだのかも分からない位に、人が死んでいた。田畑は荒れて、今年の収穫は見込めない、とまで言われた。
 子供は、助かった。そして、医者はその時病に罹っていた村人の殆どを治した。村人は感謝した。そして、どうか村に留まってはくれないか、と懇願した。だが、医者は旅の途中だからと、それを断り、去って行った。
 子供は、一人になり、村を出た。親のいない、働けない子供は、町へと奉公に出されたのだ。村が、村として生き残るためには、他に手立てがなかった。
 食い扶持を稼げない者に、食べさせるだけの食料が、なかったからだ。
 けれど、子供は奉公に向かなかった。指図されることが、嫌で、嫌で、仕方がなかったからだ。赤の他人に、頭ごなしにあれをやれこれをやれと言われ、挙げ句分からない事を押しつけられて罵られる。その繰り返しに嫌気がさして、出奔した。
 しかし、出奔したからと言って、生活が良くなるわけではない。むしろ、悪くなる一方だった。着る物にも食べる物にも困り、我慢することもあった。日銭を稼いで日々を暮らし、時が経ち、女性の間を渡り歩くように生活している内に、体の変化に気がついた。
 咳が、出る。毎日と言うわけではない。苦しいという程の咳でもない。はやりやまいを貰った時ほどの苦しさや痛さは、なかった。けれど、一度出だすと中々止まらず、回数は徐々に増えていった。
 訳が分からず、医者に何軒もかかったが、風の病だろうとあしらわれた。
 大きな町から小さな町へ、小さな町から大きな町へ、幾度も渡り歩いて、医者を探し、診てもらい、それでも原因が分からない。ただ、体はひたすら衰弱していく。酷くはならないが、良くはならない。けれど、体力が奪われていき、働けなくなる。
 その時、ふと、はやりやまいを治してくれた医者を思い出した。あの医者を、探そう。もしも駄目でも、あの時助けてくれた医者から匙を投げられるのならば、納得出来るかも知れない、と。


 辿り着いたのは、小さな海辺の村。その村で、医者は神様のように村人から崇められていた。
 毎日、辰の刻から午の刻までの時間に患者が途切れる事がない。午の刻から酉の刻までは、来ることの出来ない人々の要請に応じて自ら出向き、酉の刻以降は、子の刻まで薬の研究に余念がない。食事と眠る以外の時間を全て、病の人々のために費やしていたのだ。
 子供は、青年と呼べる程の年齢になっており、まさか、医者が自分を覚えているとは思わず、驚いた。
「覚えていますよ。あの時、あの村で最初に助けたのは君でしたから」
 ああ、やっぱり、この医者で間違いない。この男から匙を投げられるのならば、仕方がないと納得出来る。今までの医者は、まともに代金も払えない青年を、まるで塵を見るような眼で見てきたものだ。
「お金がないのであれば、ここで私を手伝っていただけませんか?」
 医者はそう言い、働くことが治療する見返りになった。働くと言っても、食事や睡眠を忘れがちな医者の生活の管理、と言った方が正しかった。
 村から外れた場所だろうと、少し離れた町だろうと、一両日中に帰って来られる場所であると、出向いていこうとする。そうして働いていると、食事をとることを忘れるのだ。酷い時など、本を読みながら味噌汁を零していたのだ。
 今までどうやって生活していたのだと問うと、助手がいたのだという。その助手が独り立ちをし、少し離れた町で仕事をし始めたのが最近。それまでは、その助手が、細々とした日々の事を熟してくれていたのだそうだ。
「だから、君が来てくれて、とても嬉しいですよ」
 他人から、嬉しいなどと言われたのは、初めてだった。何処へ行っても爪弾きにされ、疎ましがられてきたから。
「しょうがないなぁ。俺が死ぬまで、面倒見てあげるよ、寂雷先生」
 青年は、何とはなしに分かっていた。もうきっと、自分の体はそう長くない。咳と息切れは酷くなっていて、一日起きていることが難しかった。
 だから、人生の最後を、残りの命を、自分を助けてくれた医者、寂雷のために使えるならば、それでいいと思っていたのだ。
 その時の寂雷は、嬉しいような、悲しいような、とても複雑な表情をしていて、自分を救えないことを悲しむ必要なんか何処にもないのに、とは、どうしてか言えなかった。


 倒れたのは、それから半年と経たない、冬の初めの頃だった。
 それでも、まだ一日の内、午前中位は起き上がる事が出来ていた。それが、全く起き上がれなくなったのが、冬の終わり頃。ああ、先生のご飯を作ってあげられないなぁ、などと呑気に考えていた。
 だが、医者としての使命なのか、或いは同情からなのかは分からないが、寂雷は必死に病を治す手立てを探していた。
 薬を探し、治療法を探し、古い文献を読み漁り、著名な医者がいると知れば手紙を書いて助言を請う。それでも、手立ては見つからず、徒に時間は過ぎていった。
 そして、春になる頃には、寝返りを打つことすら体が重くて出来ず、食事も取ることが出来なくなっていた。
 それなのに………
「ねえ、寂雷先生。俺に何をしたの?」
 布団から起き上がった体の、何処にも痛みがない。咳も出ない。息苦しさもない。体は痩せ細っているが、力が全身に漲っているようだった。
「しばらくは、外へ出ないで下さい」
「どうして?俺元気だよ?」
 寂雷が差し出してきたのは、鏡だった。受け取ったそれに自分の姿を映すと、黒かった髪が、見たことのない色に変わっていた。
 果実のような、桃色に。
 私は罪を犯したのです、と寂雷が言った。







寂雷×乱数、と言うよりも+かもしれません。
和風の物語?だと思って下さい。
目次頁にも書きましたが、カニバリズム表現がありますので、ご注意下さい。




2024/6/22初出