男は、医の道を志し、歩む者だった。しかし、どれだけ知識を増やそうと、どれだけ患者を救おうと、救いきれずに毀れていく命が多かった。 救った命に感謝をされても、その反面、救えなかった命に苦しんだ。 男は、髪を伸ばすことにした。一種の願掛けだ。一人でも多く人々を救えるように、苦しむ人々へ手を差し伸べられるように。 そして、旅を始めた。 旅を始めて幾年か………苦しみと悲しみの連続だった。 貧しい人々は誤った知識で病を悪化させ、肥え太る者は医術を独占する。何故、全ての人々に平等に救いの手を差し伸べられないのか……… そんな折、市井で不思議な話を聞いた。 “不老長寿を得られる人魚の肉を食べた女がいる”と。 男は、その女を探す事にした。もしも本当にそんな事が現実にあるのならば、不治の病を抱える人や、明日をも知れぬ命を生きる人達を、救えるのではないか、と。 だが、女は見つからない。時間は矢の如く過ぎ去っていき、いつの間にか男の髪は、腰をとうに過ぎる程長くなり、膝を越しそうな長さになっていた。 髪が伸びれば伸びるほど、苦しみは増えていく。自分の無力さに打ち拉がれ、悲しみに暮れ、もう、そんな夢の様な、お伽噺の様な話は忘れようとした時、その女を知っていると言う農夫に出会った。 「どこだかの洞窟で、命が尽きるのを待っているってぇ話だったな」 「それは、どこの洞窟ですか?」 「海沿いだって聞いたがなぁ」 「貴方はその話を誰から聞いたのですか?」 「何年も前に死んだ儂の爺さんだ。爺さんが子供の頃に聞いた話だってぇから、もうその女も死んでるんじゃねぇか?」 変な事聞くお医者だなぁ、と笑われたが、男は虱潰しに海沿いを歩く事にした。 そして、とうとう、嵐が来るから海へ近づくのは止めた方がいい、と町の者から言われた日に、雨風を凌ぐ為に入り込んだ洞窟で、ようやく女を見つけた。 女は、齢二十程に見えた。髪はぬばたまの黒、肌は真珠の如く艶を持ち、ちらちらと燃える頼りない灯火を一つ燃やして、洞窟の奥に坐していた。 提灯の明かりで足下を照らして近づき、動かない女が生きているのかどうか確認しようと、手を伸ばそうとした瞬間、低めの声が響いた。 「血の臭いがする」 その低い声が、女の発したものであると気づくまで、少しかかった。洞窟の中で声が響き、まるでこの世のものとは思えなかったからだった。 「私は」 「お主、人殺しだな」 ゆっくりと、女の瞼が押し開けられ、双眸が男を見た。まるで、奈落の底のように黒々とした瞳だった。 「私は、医の道を志す者で」 「いいや。お主の纏う血の臭いは、尋常ではない。これまで、幾人殺した?幾度戦場へ出た?一人や二人、一度や二度ではなかろう?それも、武士として致し方なく駆り出されたというわけではあるまい。その臭いの漂い方は、髄まで血にまみれた者でしかあり得ぬ」 「私は医者です。救えぬ者の命が血の臭いとなっていると言うのならば」 「黙れ。詭弁を弄すな」 「詭弁など」 黒々とした女の瞳が、男の背後を見たかと思うと、口元が弧を描いた。 「いいや、違うな?お主、心底気づいておらんのだろう?己は真実正しいことをしているのだと、やり方は間違っていないのだと。殺してきた事も正しく、そして医の道を歩み、人を救うことも間違っていないのだと」 「無論です。私は、私の信じた道を歩いているのです」 「滑稽な」 「滑稽、ですか?」 「滑稽であろうよ。間違わぬ人間などおらぬ。過たず生を歩ける者もおらぬ。間違わず、正しく、過たぬ人間など、それは最早人間ではないわ」 坐していた女が、立ち上がった。纏っているのは、かつては真っ白であったのだろう、法衣。どれだけの年月を此処で過ごしたのかは分からないが、裾に近い部分は既に擦り切れて襤褸布の様相、全体も煤けた様に汚れている。そして、破けた法衣から覗く足は、枯れ枝の様に細かった。 「この命は、ようやく後数年で終わろうかという所まで巡った。だが、これもまた因果」 女が、法衣を脱ぎ捨てた。現れたのは、足同様、枯れ枝の様に痩せ細った体躯だった。まるで、即身仏のような。 「無垢なる者よ。傲慢なる者よ。高邁なる者よ。不定なる者よ。お前は相応しい。私の肉を喰らうがいい。心の臓を取り出して喰らえ。さすれば、不老長寿を得られるぞ」 「私は………私は、ただ救えぬ人を救える手立てを」 「愚かな。全ての人を救いたい等という高慢な願いが、人の身で成せると思っているのか?短い人間の生など、目の前にいるたった一人しか救えぬではないか」 男は、それに苦しんで来たのだ。だが、だからと言って、誰かの命を犠牲にしたい訳ではない。 「人の生を捨てれば、長く永く人々を救う事が出来るぞ?男よ、お主、名は?」 「神宮寺寂雷と言います」 名を聞いた途端、女は呵呵大笑した。 「神!その名に神を冠すか!これぞ重畳!やはりお主はこの命を継ぐに相応しい!誰にくれることなく野辺に捨てようと思うたが、いやはや、分からぬものよな」 女は背を向けると、屈んで何かを拾った。 「さあ、私の首を落とし、心の臓を喰らい、人の道を捨て、真の神になるが良い。それがこの命の、最後の使い道だ」 女は手に、錆びた斧を持っていた。 寂雷は、震える手で、その斧を、握った。 世界が、変わってしまった。いいや、世界は変わらなかった。寂雷から見た世界が、変わってしまったのだ。色は鮮やかで、風は涼やかで、潮の香りは強く………そして、死者の魂が、連なっていた。 寂雷が、殺した人々だった。 悪い人間がいなくなれば争いはなくなるのだと信じていた。だから、戦場にも立った。請われれば暗殺もした。だが、悪い人間は次から次に蛆のように湧いてくる。だから、良い人間を救う事にした。善人を助け、救い、増やすことで世の中は良くなるのだと信じたから。 一人、また一人と、死者達が笑う。嘲る。人の道を捨てた寂雷を、喜ぶ様に。 ―お前は決して、我らと同じ場所に辿り着くことは出来ないのだ、と。 そうして、一頻り嘲笑った死者達は、その姿を消していった。満足、したのだろう。自分達の殺した人間の、人間ではなくなったその末路を知って。 死者の消えた洞窟は、何の変哲もない洞窟へと戻った。 寂雷の足下に、錆びた斧が落ちている。 「私は、罪を犯していたことに気づかず、そしてまた、今、罪を重ねたのですね」 けれど、その錆びた斧を拾い、己の首に、胸に突き立てようとは、思わなかった。 「罰を、受けなければ」 今、此処で楽になることは、決して罰ではないのだろう。あの女が、痩せ細るまで一人でいたのはきっと、己の命を終わらせる事が罰だと信じていたのだろう。あの様子では、此処へ入って以降、何も口にしていなかったのではないか。 人を、救い続けなければ。この命が尽きるまで、救える限りの人を。 洞窟を出て最初に見た日の光は、酷く眩しく、寂雷の目を焼いた。 真っ直ぐ見上げる事は、出来なかった。 ![]() 寂雷には人外感を、乱数には小悪魔感を求めています。 寂雷は罪を犯した事は理解したし、罰を受けなければいけないと思っていますが。 根本的に悪いことをしている(していた)とは思っていません。 人を救うのには時間が必要だから、と。 2024/7/20初出 |