* 恋知らず 後編 *


 一通りの話を聞いて、溜息をつく。
「で?」
「で、とは?」
「だから、寂雷先生が俺に何をしたのかの説明にはなってないでしょ?」
「君を、救いたかったのです。だから、私は、君に、私の肉を食べさせたのです」
「………え?どこの肉?」
「腕の肉です。そこが気になりますか?」
「気になるでしょ?え〜と、後は何で髪の色が変わってるの?」
「私も元は黒髪でした。今は幾分薄い色に変じています。恐らくですが、人魚の肉を食べた者を食べると、変化するのではないかと」
「ふ〜ん。先生は、今何歳なの?」
「もう、正確な年齢は分かりませんが、二百五十年は生きています」
「んじゃ、俺もその位は生きられるかな?」
 明るく言って、お茶を口に含む。少し前まで、お茶の味すら感じられなかった。それ程体が衰弱していたのに、今は、苦みがとても美味しく感じられる。
「で、何で俺を救いたかったの?」
「何で?………………それは、苦しむ人が目の前にいれば、助けたいと」
「いや、でもさ。今まで先生の目の前で苦しむ人は俺だけじゃなかったでしょ?なのに、何で俺には自分の肉を食わせたの?」
 肉、と言う単語に、寂雷の表情が強張る。
 そう言えば、と思い至る。今まで寂雷の食事は、肉が殆ど入っていなかった。入れてみようとしたこともあったが、好きではないので、と断られていたのだ。
 まるで、染みが広がるように、心の中に暗い感情が広がっていく。
―ああ、この男は、俺を生かした事を悔いているのだ。
「………助手がいた、と言う話をしましたね?」
「うん」
「彼は、私が不老長寿である事を知りませんでしたが、何かがおかしいと思ったのでしょう。私のやり方には到底ついていけないと、去って行ってしまいました」
「まあ、不老長寿云々を抜きにしても、先生の働き方は異常だけどね」
「それが、五十年程前です」
「全然最近じゃないし」
「五十年一人でいて、私はどこか、おかしくなってしまったのかもしれません」
「寂しかったってこと?」
「それも、もう分かりません。けれど、君が来て、一年と経っていませんが、私は、とても楽しかったんだと思います」
 どんどん、どんどん、心に染みが広がっていく。黒く、深く、ゆっくりと。
「あれからずっと、十年単位程度で、居を移し替えてきました。長い年月、一つの場所に留まると、年を取らないことを怪しまれるものですから」
「だろうね」
 二百五十年は生きているという寂雷の外見年齢は、三十前後にしか見えない。長く外見が変わらないのであれば、一つの場所に留まるのは難しいのだろう。
「そのせいか、友人と呼べる者もおらず、知人もおりません。誰かと特別親しくなると、別れもとても、辛くなるので………」
「ねえ、寂雷先生」
「何でしょう?」
 広がった黒い染みが、言葉に染みる。
「先生は、俺をどうしたいの?」
「どう?どうも何も、快癒して貰いたかっただけで」
「快癒?これって、快癒かなぁ?」
「………そ、れは………」
「違うよね?だったらさ、先生には俺をこうした責任を取って貰う必要があると思うんだけど、どうかな?」
「人間に、戻る方法を探す、と言う事ですか?」
「え?いや、別にそういう事じゃないんだけど。大体、戻らないでしょ、これ?でも俺の許可とか、全然とらずに勝手に俺の体をおかしくしたわけでしょ?」
「………責任を取れと言うのならば、私に出来る方法で、出来る限りを」
 苦しそうに言葉を絞り出す姿を見て、静かに立ち上がった。
「うん。だから、俺とずっと一緒にいてよ、先生」
「飴村君?」
 背が高く、並んで立つと決して見下ろす事の出来ない寂雷でも、座っていれば、見下ろす事が出来る。
「乱数でいいよ。俺も、寂雷って呼ぶから」
 言いながら、腕を伸ばして寂雷の肩を抱きしめる。
「俺さ、ずっと一人だったんだよね。先生が俺を治してくれても、両親は死んじゃってたし、村は追い出されるし、追い出された先でもうまくやれなくてさ。どこ行ったって一人で。でも!寂雷は違った。俺がいてくれて嬉しいって言ってくれた。だからさ、正直、俺の命を救おうが最後を看取ろうが、どうでも良かったんだよね」
 乱数にとって、嬉しいと言ってくれたその言葉だけが、信じるに足るものだった。
「俺の命なんて、大した価値ないよ。でも、寂雷は俺の事で後悔してる。だったら、その後悔がなくなるまで、一緒にいてよ」
「そんなことで、いいのですか?」
「そんなことじゃないよ?これって凄く難しいことだよ?だって、俺の言う“ずっと”はね」
 死ぬまでずっと、ってことだからね、と、乱数は寂雷の耳元で、静かに囁いた。


 夜から闇が薄くなって、どれくらいの年月が経つのだろうか。何十年か前には、国土すら失うのではないかという程の凄惨な戦争を経験しておきながら、人間というのは現金なもので、今や手に入らない物などないのではないかという繁栄振りを手にし、その繁栄が故に身を滅ぼす者まで出る始末。
 天にまで届きそうな高いビルディングと、夜の闇を消し去りそうな明るいネオンの光の影で、身を滅ぼしかけている者達が、壊れかけの笑い声を上げている。
 それでも、昔に比べれば生きて行きやすくなった、と、ネオンの光で掻き消えそうな、空に浮かぶ小さな月を見上げる。
「昔はもっと大きくて綺麗に見えたのに」
 明かりの乏しい時代、夜の暗闇はとても怖いものだった。けれど、大きく見える月は綺麗で、優しい光を注いでいるように見えた。
 今の時代は生きやすくて好きだけれど、綺麗なものを綺麗なままにしてくれない所だけは、好きになれなかった。
「ま、いっか」
 人間がどんな風に身を滅ぼしていくのかには興味があるけれど、彼等彼女等がどんな結末を迎えようと、自分には関係がない。
 だって、どうせ覚えないから。人間とはあまりに寿命が違い過ぎて、興味が湧かない。
 笑い声を背中で聞きながら、歩き出す。
 夜も眠らない街には、夜にだけ開く病院がある。表通りからは大分離れた、閑静な住宅街の中に、突如として、蔦に覆われた古い建物が現れる。道路との境に設けられたコンクリートの壁にも蔦が這い、人が住んでいるのかが疑わしく思われる様相だが、錆びた鉄門を押して敷地内に入れば、庭と思しき場所はそれなりに手入れがされている。
 鉄門から真っ直ぐに数歩歩くと、いつ建てられたのか分からない建物の入り口に、消えかかった文字が書いてある。年期の入った磨り硝子に『神宮寺診療所』と。
 軋みを上げる磨り硝子の扉を押し開けば、薄暗い受付が現れる。靴を脱いで上がるリノリウムの床に何足かスリッパが置かれているが、患者のいる様子は見受けられなかった。
 奥の扉が開いて、男が出てくると、眉間に皺を寄せた。
「飴村君、裏口から出入りして下さい」
「え〜こっちのが早いんだもん。あ、お菓子買ってきたんだよ。寂雷は何が食べたい?」
 手に持っていたビニール袋を掲げて軽く振ると、更に眉間の皺が深くなった。
「私は、お菓子は食べませんよ」
「もう。折角なんだから寂雷もこの時代を楽しみなよ。面白いのに」
 責めている訳ではないのに、乱数と話す時の寂雷は、いつも、苦しそうだった。
―ああ。絶対、手放してやるものか。








自分の肉を食べさせてまで乱数を生かしたかった理由に。
寂雷は気づいていないし、気づくことがないです。
医者として、が全面に出てしまうので、自分の気持ちは後回し。
現代に至るまでも色々あるんですが(考えてはある)。
その辺は割愛で(苦笑)
因みに先生の病院が夜やっているのは、人外の方達を診る為です。




2024/8/17初出