* 海よりも深く、溺れるように U 1 *


 疲れた足を引きずるように帰宅し、郵便受けを開けて、深く、深く溜息をつく。
 もう、二週間だ。
 最初は、コンビニの袋に入ったおにぎりやプリンの空き容器。誰かがゴミ箱を探すのが面倒で入れたのか、と最初は考えた。だが、翌日も似たような袋にヨーグルトの空き容器や使い終わった割り箸が入っていて、それが一週間も続けば、故意だと気づく。
 そして、今日で二週間目。案の定、郵便受けの中にはゴミが入っている。それも、日を追うごとに量が増え、嵩が増し、正直捨てるのが面倒になってきていた。
 郵便受けの縁に袋を引っかけないように注意しながらゴミを引き出し、蓋を閉める。比較的誰でも開け閉めできるような構造になっているのがよくないのだろう、とは思うが、この郵便受けを使っているのは、独歩だけではない。同居人の一二三も使っている。最初は、一二三の職業柄鍵をつけることも考えたが、面倒になって止めたのだ。
 引き出したゴミがやけに重いことに気づいて持ち上げると、中身は生ゴミだった。水分が漏れないように口はきっちり閉じられているが、これは、気分が滅入る。
 そろそろ犯人を捜さなければ、その内、郵便受けに入らない大きさのゴミを入れられそうな気がして、憂鬱だった。
 真夏じゃなくて良かった、などと悠長な感想を抱きながら、独歩は、十一月下旬の冷たい空気に背中を震わせて、マンションのエントランスを抜けて、部屋へ向かった。


 それから数日、郵便受けには生ゴミが入れられる日が続いた。
 一日中くたくたになるまで働いて、ようやく休めると家に帰ってきても、すぐに気持ちが落ち着くわけではない日々は、知らず知らずの内に独歩の精神を蝕んでいった。
 毎日、毎日、毎日、毎日、誰が入れたのか分からないゴミを処分する日々。そりゃ、俺はゴミみたいな人間だろうさ。会社では上司から嫌味を言われ、仕事を押しつけられ、それをこなせずに残業し、顧客先ではひたすら頭を下げ続ける、社畜だろう。だが、だからといって、見知らぬ人間からの、訳の分からない嫌がらせを甘んじて受けるほど、お人好しでもない。ふざけんな。どこの誰だか知らないが、とっとと犯人を捜して、俺は安眠を手に入れるんだ。
 そう決意して帰ってきた独歩は、いつものように郵便受けを開けた。
「え?」
 だが、そこに生ゴミは入っていなかった。勿論、本来入っているべき郵便物も。だが、その代りに鼠の死骸が入っていた。
 慌てて郵便受けを閉め、周囲に人が居ないことを確認して、部屋へ駆け上がり、震える手で部屋の鍵を開けて、ゴミ袋と消臭剤と除菌ペーパーを掴んでとって返す。
 気持ち悪い、と思いながら、どうにかゴミ袋をひっくり返して手に被せ、死骸を掴んで袋の中へ閉じ込める。唯一の救いは、血が流れていなかったことだ。
 こんなのを、一二三に見せる訳にはいかない。今の所、帰宅時間などの関係で、このゴミ類を発見しているのは、主に独歩だ。
 郵便受けの中を除菌ペーパーで拭き、消臭剤を噴霧して、蓋を閉める。気持ち悪さを堪えながら、何とか部屋まで戻り、鼠の死骸の入った袋を、ゴミ箱の奥底へねじこんで、独歩はそのままトイレへ直行した。
 便器の蓋を開けて、堪えきれなかった物を吐き出す。
「な、んで………」
 この程度で打ちのめされるほど、柔な精神はしていないはずだ、と思っても、吐き気は止まらない。吐く物がなくなるまで吐いて、ようやく独歩は立ち上がった。
「一二三に、感づかれない様に、しないと」
 一二三は、妬みや嫉みを受けやすい職業だと言える。実際、ストーカーと化した女性客はそれなりの数がいるし、同業者からの嫉妬もある。こういった形での嫌がらせは初めてだが、一二三に向けられたものか、独歩に向けられたものかが分からない内は、下手に誰かに相談するのも憚られた。
 ふらつきながら、放り投げてあった鞄を拾い、明かりもつけていない部屋の中を歩いて自室へ入り、ベッドへ倒れ込む。
 疲弊した体と心が、悲鳴を上げていた。


 それから数日は、生ゴミが続いた。開ける度に郵便受けにみっちりと詰められているゴミに、どこでこんなに調達してくるのだろうか、とどうでもいいことを考えたりもする。
 そして、月が変わり、十二月に入って数日経っても郵便受けの状態は変わらず、結果、一二三も遭遇してしまい、独歩はそれまでの状況を洗い浚い吐かされることになった。
 警察に相談を、と言う話も出たが、男二人が同居する部屋のマンションの郵便受けにゴミが入れられている程度で、警察が動くわけもないと考え、見送ることになった。
 そうこうしている内に十二月も二週間程が過ぎ、年末が近づいて忙しくなった独歩は、ますます帰宅時間が遅くなった。
 考えるだけで憂鬱に拍車がかかり、足取りは重くなる。だが、その日は違った。
「よぉ」
 下を向いて歩いていた独歩は、声をかけられるまで気づかず、マンションのエントランスへ入っていた。
「あ、お、ひつぎ、さん」
「おいおい。何でそんな死にそうなツラしてんだよ」
 吸っていた煙草の煙を吐き出し、足下で吸い殻を踏み潰した左馬刻が、壁に預けていた背中を起こして独歩に近づく。
「電話しても出ねぇから、来た」
「す、みません」
 電話にも気づかない程、自分は意識が内側に向いていたのか、と思いながら左馬刻を見て、首を傾げる。
「何か、今日、いつもと違いますね?」
「ああ。ちっと集まりがあってな」
 スーツというわけでもないが、全身真っ黒な左馬刻は、珍しかった。しかも、軽く髪をかきあげているのか、雰囲気が違う。
 かっこいいなぁ、などと思いながら、郵便受けの前に立つ。開けずに部屋へ上がりたいが、独歩が開けなければ一二三が開けることになる。それは、避けたかった。
 一つ深呼吸をして、郵便受けを開ける。半分程開けて、独歩は勢いよく蓋を閉めた。
「おい、どうした?」
「っ………な、んでも………」
「何でもないってツラじゃねぇぞ」
 郵便受けを押さえる独歩の手が、震えている。見ないように下を向いた視線が、泳いでいる。どう見ても様子のおかしい独歩に痺れを切らした左馬刻が、腕を退かせて強引に郵便受けを開けてしまう。
 慌てた独歩が、左馬刻を止めようと顔を上げると、郵便受けの中身が、しっかりと視界に入ってきてしまった。
 鳩の、死骸だった。
「何でこんなもんが入ってんだ。おい!」
 こみ上げてくる気持ち悪さで、立っていられなかった独歩は、その場に座り込んでしまう。だが、完全に地面へ尻をつく前に、左馬刻の腕が独歩の腕を掴んだ。
 郵便受けを閉め、左馬刻は独歩の腕を掴んだまま引き上げた。
「歩けるか?」
 力なく頷く独歩に肩を貸し、部屋まで連れて行く。鞄の中からようやく鍵を取り出した独歩は、部屋を開け、室内に入ると、ふらつきながら壁伝いに手をついて歩き出す。
「おい、何してんだ?」
「………ゴミ袋、を。片付けないと」
「あー、もう!俺様がやってやるからゴミ袋渡せや!」
 謝る独歩からゴミ袋を奪い取り、郵便受けの中を片付けて左馬刻が部屋へ戻ったのは、五分程かかってからだった。
 真っ暗な部屋の中で、唯一明かりが点いている場所へ靴を脱ぎ捨てて勝手に上がり込むと、そこはトイレで、独歩が吐いていた。
「あんたのせいじゃねぇだろ」
 ごめんなさい、と、すみません、を、涙を流しながら繰り返す独歩の薄い背中を、左馬刻はしばらく撫で続けた。







まさかの続編です。
書いている自分が一番びっくりです。





2021/11/13初出