眩しい、とゆっくり瞼を開ける。いつも必ず、カーテンは閉めてから寝るのに、どうしてこんなに眩しいんだ、と目を細めて光の元へ視線を向けて、カーテンの柄が自分の部屋とは違う事に気がつく。どうしてリビングで寝てるんだ………と、寝返りを打とうとした独歩は、口から飛び出そうな悲鳴を飲み込むために、慌てて口元へ手を当てた。 (何、何、何で、碧棺さんが、俺の目の前に………いや、これ、どういう状況) 至近距離に左馬刻の顔があり、独歩は必死に記憶を手繰った。 昨夜帰宅した際に左馬刻に会い、郵便受けの件で助けて貰った後、ひたすら吐いた独歩は水を飲んで横になるのがやっとで、自室へ歩く事すら覚束なかったのだ。結局そのままリビングのソファで寝たのは、思い出せた。 (だからって、何で、膝枕!?) 独歩の頭は左馬刻の太股の辺りに乗っており、左馬刻自身はソファに座った状態で腕を組み、器用に眠っている。 (いやいやいやいや、おかしいだろ) その瞬間の独歩の中からは、左馬刻が自分の番である、と言う認識は完全に抜け落ちていた。しかし、実は眠った後、側にいた番の左馬刻の匂いが落ち着くことに気づいた独歩が、自然と左馬刻を探すように姿勢を変え、気づいた左馬刻が自分の膝の上へ独歩の頭を乗せた後、左馬刻自身も眠ってしまい、お互い何となく収まりのいい場所を見つけた結果が、独歩が目を覚ました瞬間の体勢だった。 動いたら起こしてしまいそうで、けれどこのままの姿勢でずっといるわけにもいかず、独歩はゆっくり体をずらして左馬刻の足の上から頭を下ろして、上半身を起こした。 (睫毛、長い、し、綺麗な顔) 寝ている内に崩れたのか、昨夜かきあげていた前髪が降りて、いつもの髪型に戻っている。起こさないように、と降りた前髪に触れて顔を近づけて見ても、やはり綺麗な、整った顔をしていた。 (何で、こんな人が、俺の番なんだろう) まるで、自分に都合のいい夢を見ているようで、独歩は未だに信じられなかった。 その時、左馬刻の両眼が唐突に開いた。 「あ、起こし、っ!」 左馬刻が大きく口を開けて、独歩の顎に軽く噛みつく。 「そこまで近づいたらキスしろや」 「へ?いや、俺、そういうつもりじゃ」 最後まで言えず、独歩の唇は左馬刻の唇に塞がれた。 「ちょっ、まっ」 二度、三度と、啄むようにキスをされ、逃げようと思っても、後ろへ下がればソファから転がり落ちそうで、独歩は動けなかった。 「リビングでいちゃつくの禁止だから!」 そう言いながら、仕事帰りの一二三が呆れた顔でリビングへ入ってくるまで、左馬刻のキスは続いた。 心配する左馬刻を帰し、土曜日であるにも関わらず休日出勤し、夕方まで働いた後、寂雷の勤める病院へ寄った独歩の足取りは、昨夜の比ではないほど、重かった。 分かっていた。夢のような事が起きたのだから、これ以上自分に都合のいいことは起こらない。ただ、もしも1パーセントでも可能性があるならば、と、考えただけだ。 足が重い。頭も重い。全身が気怠くて、早くベッドに滑り込んで、眠りたかった。 だが、マンションへ着く少し前に雨が降り出し、けれど走る気力もない独歩は小雨に濡れて、歩いて帰った。 ああ、そうだ、郵便受け………どんなに気落ちしていても、毎日の嫌がらせを片付ける行為は、一ヶ月以上も続けば部屋へと帰るまでのルーティーンに組み込まれてしまっている。確認しないで素通りする、と言う選択肢は、なかった。 マンションのエントランスへ入ると、郵便受けの前に女性が一人。金髪に近いような長い茶髪を緩く巻き、ファーのついた白いロングコートを着、足には真っ赤なピンヒール。右手にはコートと合わせたのか、白い小さな鞄。そして左手には、買い物袋のような物を提げている。 独歩が一歩足を進めると、気がついたのか女が振り返った。ピンヒールと同じくらい赤い口紅が、やけに毒々しかった。 振り返った女が、独歩を見て驚いたように目を見開くと、すぐさま睨みつけるように鋭く目を細め、買い物袋の中へ手を入れた。 「この、泥棒猫」 「え?」 言葉と共に独歩に投げつけられたのは、いつかと同じ、鼠の死骸。足下へ落ちたそれを見た後、女へ視線を移そうとして、独歩は頭に何かがかけられていることに気づいた。 額から頬へ、そして顎へと伝う白い色、そして独特の匂い………牛乳だった。 全部かけ終えたのか、足下に空の牛乳パックが捨てられる。 「あの人は、私の運命だったのに!」 「は?」 「一目見た瞬間に、この人だって思った!なのに、あんたみたいなうだつの上がらない冴えない男が、どうしてあの人の番なの!?」 ………左馬刻のことか。 「私の方が相応しいわ。綺麗で若いんだから、これから幾らだって子供も産んであげられる」 「っ………」 買い物袋から取り出されたゴミが、投げつけられる。紙ゴミや食べ物の容器、生ゴミも混ざっていた。 分かっている。独歩は、Ωであるのに、子供を産む器官がない。今日、まさに寂雷からその検査結果を聞かされたばかりだ。番が出来れば、もしかしたら、という期待があったのだ。けれど、その些細な可能性は打ち砕かれた。発情期は来るかもしれない。それでも子供は、望めない。 分かっていた。分かっていたことだ。それでも酷く落胆し、落ち込んだのは、左馬刻が選ばせてくれたからだ。選べと、言ってくれたのだ。 女の怒りを浴び、罵詈雑言を聞きながら、冷え切った頭が、冷え切った考えを捻る。 αは、自由に番を変更出来ると言う。まだ若い左馬刻には、きっとこれから多くの出会いがあるはずだ。その出会いの中には、必ずΩがいる。ならば、短い夢を見たのだと思って、断ち切ってしまえばいいだけだ。 常に下を向き、人と関わることを避け、孤独でいることをよしとしてきた独歩には、自分というものを強く持ち、常に堂々としている左馬刻は、眩しすぎた。 そうだ。自分に、そんな左馬刻はきっと勿体ない。今までだってそうだったのだ。これからだって変わらない。恋も愛もいらない、そう思って生きてきた。だから、これからもそれを求めなければいいだけのことだ。 求めるな。欲しがるな。あの存在は、自分が手に入れていいような存在じゃ、ない。 「ここまでされて何も言わないなんて、まるでこのゴミみたいね。あんたみたいなオッサン、消えちゃえばいいのに」 女は買い物袋をひっくり返すと、入っていたゴミを全て独歩の靴の上へばらまいて、エントランスを出て行った。 静かになった途端、雨の音が耳に届く。小雨だったはずの雨は、いつの間にか本降りになっていたらしい。 「片付け、ないと」 口から言葉は出ても、行動には移せない。 女の言葉が、頭の中で響く。 『消えちゃえばいい』 そうだ。ここにいると、左馬刻が来るかもしれない。昨日の今日だ。可能性は、ある。 そう考えた独歩は、マンションのエントランスを出て、雨の打ち付ける外へ歩き出し、その場から離れた。だが、行く当てがあるわけではない。傘も持っていない。 寒い、冬の夜だ。十二月の冷たい雨は、独歩の体温をどんどん奪っていく。それでも、女の言葉に突き動かされるように、足は前へと進み、道を勝手に歩いて行く。 ―今度、左馬刻に会ったら別れ話を………いや、そもそも恋人ではないし、付き合ってくれとも言われていないから、番の解消を申し出ればいい。そうすればきっと、左馬刻に相応しいΩが見つかるはずだ。そうしよう。 独歩は、見たことのある扉の前で座り込んで、いつ雨が止んだのだろう、と思った。 ![]() 恐らく。一二三が入ってきたことで。 独歩はソファから落ちたと思います。 2021/12/11初出 |