雨の予報にはなっていなかったので、病院の備品の傘を借り、深夜近くに勤務先を出た寂雷は、静まりかえった自宅マンションの扉の前に、人が座っていることに気がついた。 「独歩君?」 声をかけても、反応がない。両足を両腕で抱えるようにして顔を膝につけて下を向き、冷たいコンクリートの上に直に座り込んでいる。全身が濡れているのか、コンクリートには水溜まりが出来ていた。 下を向いていた顔を上げさせて額に触れると、酷く熱かった。 手袋をしていなかった寂雷の手が冷たかったのか、独歩の目がゆっくり開く。 「先、生」 「すぐに手当をしましょう」 寂雷の声を聞いた独歩は目を閉じ、そのまま意識を失った。 独歩の熱は、三十八度を超えていた。いつからあそこに座り込んでいたのか分からないが、相当長時間いたことは、確かだろう。 濡れそぼった服を脱がし、寂雷の服では大きすぎたが、他にないので着替えさせ、濡れた頭をドライヤーで乾かし、ベッドに寝かせて布団をかけ、部屋を暖めるためにエアコンをつけた。 幸いにも、肺炎は起こしていないようだった。市販薬だが、風邪薬はあったので飲ませたかったが、無理矢理起こすのも忍びなく、寝かせておくことにした。 同居人の一二三には、連絡しておくべきだろう。この時期は、クリスマスが近いため忙しいとは言っていたので、電話に出ない可能性はあったが。 「先、生」 「独歩君、気がつきましたか?」 電話を取りに行こうとしていた寂雷は、細い声に呼ばれて振り返った。呼吸が苦しそうな独歩が、体を起こそうとしていた。 「無理はいけません。寝ていてください」 布団から出ないように押しとどめ、顎の近くまで布団を上げてしまう。 「先生、番って、どうしたら、解消、できます、か?」 「え?」 「俺、けほっ………やっ、ぱり、ダメ、で」 「独歩君………今、君がするべきなのは、風邪を治すことです。全ては治ってから、考えましょう」 きっと、夕方話した検査結果を引きずっているのだろう。その上、風邪を引いていつも以上に意識が内側へ向き、考えがマイナスへと走っている可能性がある。 寂雷は、独歩に水を持ってくる旨を伝え、キッチンへ向かった。 その頃一二三は、まさにマンションのエントランスで、ばらまかれたゴミに遭遇し、そのすぐ側に、独歩の鞄が落ちているのを発見していた。 独歩の熱は一日では下がらなかった。それでも、これ以上迷惑はかけられないと、頑なな独歩に折れた寂雷は車を出し、独歩をマンションまで送った。 医者として許容できる事ではなかったが、どうにか三十七度二分まで熱が下がり、独歩が自力で歩けるようになっていたのが、車を出した理由だった。 「いいですか?明日は仕事へ行かないように。熱がまた上がったら、すぐに連絡をしてください。夜中でも構いませんから」 「はい。本当に、ご迷惑をおかけしました。服は、洗って返しますので」 「いつでもいいですよ。お大事に」 「はい」 サイズは合っていないが、寒くないようにと、袖が余るほどの厚手のコートにマフラーをぐるぐる巻きにしている独歩は、服に埋もれているように見えた。全て寂雷の物だが、昨夜独歩が着ていた服は汚れた上に雨に濡れたせいで、まだ乾いていなかったのだ。 迷惑をかけてしまった………まだ微熱の残る頭で、寂雷の乗る車が去って行くのを見送り、明日か明後日にでも服を引き取りに行かなくては、と考える。 自宅マンションを見上げ、強く拳を握る。気合いを入れなければ、エントランスを通る事が出来そうになかったからだ。 既に、夜の八時を回っている。一二三は既に出勤してるだろな、と思うのと同時に、独歩は、自分が自宅の鍵を持っていない事に気づいた。昨夜、鞄を落としたようで、財布も鍵も、何も持っていなかったのだ。 「しまった………どうしよう」 ホストクラブへ行って、一二三から鍵を預かってくるべきか。しかし、まだ完全に回復していない体で歩いて行くのは、骨が折れそうだった。 幸い、寂雷から借りたコートもマフラーも温かく、寒さは感じない。少しなら、玄関前で待っていても大丈夫だろう。 マンションにエレベーターがついていて良かったな、と思って、一歩を踏み出す。けれど、その一歩、また次の一歩が、重かった。 今日位は、郵便受けを確認しなくてもいいだろうか。一二三には悪いが、受け止める気力も、体力もない。もしも、エントランスにばらまかれたゴミが残っていても、回れ右してしまいそうだった。 だが、現実はいつだって非情で、鋭い棘のように、見たくないものを見せてくる。 エントランスに、左馬刻がいた。正直独歩は、会いたくなかった。 昨日の、どうしようもない自分の思考が、惨めで、情けなかったからだ。 けれど、更に追い打ちをかけるように、左馬刻の横には、昨夜の女がいた。昨日と同じように白いコートを着ているが、何故か今日は前を開け、胸元を強調するようなワンピースを見せ、左馬刻の腕を掴んでいる。自分をアピールしているのだろうか、豊満な胸を左馬刻の腕へ押しつけている。 ―求めるな。欲しがるな。手放せ。縛り付けていいわけが………どうして、嫌だと思うんだ。どうして、俺のものだとか、誰にも渡したくないとか思うんだ………嫌だ。嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ!もう、こんな、ぐちゃぐちゃな、わけのわからない思いは……… 折角下がった熱が上がりそうだったが、独歩は踵を返して走り出した。 昨夜は仕事の都合で来られず、連絡もつかずで、左馬刻は独歩をマンションのエントランスで待ち伏せていた。そこへ、一人の女が入って来たかと思うと、喜色満面の笑みで、唐突に左馬刻に抱きついてきた。 無理矢理剥がしても、訳の分からない戯言を並べて抱きついてくる。自分はΩだの、番だの、運命だの、もうとっくに間に合っているのに、何を勘違いしているのか、アピールしているつもりなのか、胸を腕に押しつけてくるが、香水が臭い上に化粧が濃い、としか左馬刻は思わなかった。 だから、独歩がエントランスに姿を現わした時に、見慣れない服を着ている事の方に気が向いて、女を引き剥がすのを忘れていた。 まさか、泣いて逃げ出すとは思わずに。 「あ、待って!」 「うるせぇ!てめぇなんざ知らねぇんだよ。とっとと失せろ!」 逃げた独歩を追いかけようと腕を振り払っても、女は掴んできた。 「嫌!だって、私の運命だもの!あんな男より、私の方が絶対に」 「ちょっと待て。まさか、てめぇが郵便受けの犯人か?」 「だって、あの男に付き纏われて困ってたでしょう?だから、追い払ってあげようと」 左馬刻は足を振り上げて、エントランスのガラスを一枚、蹴り割った。 「俺様は女に手は上げねぇ主義だ。だから、今回は見逃してやる。二度と俺の前にも、あいつの前にも現れるんじゃねぇぞ」 「私達は、運命で………」 「運命なんてもんに振り回される女なんて願い下げだ。そもそも、てめぇの匂いは臭くて仕方がねぇ。このガラスと同じ目に遭いたくなきゃ、今すぐ消えろ」 自分の顔のすぐ側のガラスが粉々に割れた事に怯えた女は、青ざめて転がるように走り出し、二度と姿を現わすことはなかった。 ![]() 絶賛後ろ向き中の独歩です。 風邪をひいた時はマイナス思考強め。 2022/1/15初出 |