郵便受けの件が解決したことを、一二三は喜んだ。だが、エントランスのガラスが割られていたこと、熱を出していたにも関わらずホテルへ連れこまれたこと、その両方が左馬刻に起因することを知るやいなや、一二三は「別れた方がいいって!」と言い出し、それに対して独歩が「そもそも付き合ってない」と返したことで左馬刻がキレ、一悶着所ではなかったのだが、とりあえず年末も近く、仕事納めまでは会わないことを決め、現在の独歩は、鋭意仕事に邁進中だった。と言うよりもやらなければ正月休みが潰れそうだった。 左馬刻にホテルに連れ込まれたせいで会社を無断欠勤してしまい、その分のツケが回ってきている状況だった。 年末の各所への挨拶回り、年内に済ませなければならない書類の処理、上司の無茶振りと下げなくていい頭を下げる謝罪、諸々を済ませ、晦日までずれ込んだ仕事納め。大晦日まで潰されなくて良かった、と心底安堵して帰宅の途につく独歩の足取りは、少しだけ軽かった。 独歩も一二三も、正月だから特別実家に帰る、と言う選択肢はない。毎年、二人で年末年始を過ごすことが多かった。だから、今度の年末年始もそうなるし、また一二三が気合いを入れて雑煮やお節を作るんだろうなぁ、などと呑気に考えながらマンションに辿り着いた独歩は、来客用の駐車スペースに、見覚えのある車が停まっている事に気づいた。 「あれ?先生?」 丁度、車から降りてくる寂雷が独歩に気づき、車を施錠して近づいてきた。 「こんばんは」 「こんばんは。どうしたんですか?」 「先程、一二三君から連絡がありまして。お節をお裾分けしてくれるそうで」 「一二三の奴………俺が届けに行ったのに」 「いえ、私が取りに行きますよ、と言ったんです。独歩君に渡す物もありましたし」 「渡す物、ですか?」 寂雷が、小さな袋を取り出して、独歩へと渡した。それは、薬袋だった。 「本当はもう少し早く渡したかったんですが」 「これ、抑制剤ですか?」 「ええ。先日精密検査をしたでしょう?その際、君に合う薬を探したんですが、なかったので作ってもらいました」 「え?作った?」 「ええ。独歩君は知らなかったのかもしれませんが、体質に合わない場合、個別に作って貰うことも可能なんですよ」 Ωは、α以上に人口比率が少ない、希少な性だ。その為、国はその性質に対応した保険制度を用意している。だが、これまで発情期そのものがなかった独歩は、知らなかった。 「ありがとうございます」 「いいえ。でも、あ」 珍しく寂雷が言葉を切ったので、袋の中を確認しようとしていた独歩は、顔を上げようとして、何故か体が後ろに傾いて驚いた。 「何やってんだ、先生?」 「こんばんは、左馬刻君」 にこやかな寂雷と、眉根を寄せている左馬刻が対照的で、独歩は不思議に思いながら、左馬刻に肩を掴まれて傾いた姿勢を直して、貰った抑制剤を鞄の中にしまった。 「先生、お金は」 「くすっ」 「え?え?」 「独歩君、左馬刻君が可哀想ですよ」 軽く吹き出した寂雷が、肩を震わせているので何かと思って振り返れば、左馬刻がいつもより少し凶悪な顔つきをしている。 「え?何が?」 「ふふっ。左馬刻君、大変ですね」 「面白がってるだろ」 「いいえ。微笑ましいな、と思っただけですよ。独歩君、一二三君には私から伝えておきますから、左馬刻君に付き合ってあげてください」 「いや、でも」 「左馬刻君、無茶は駄目ですよ。彼は、私の大事なチームメイトですからね」 「わぁってるよ。なら、こいつ借りてくわ」 「え?わ、ちょっ」 左馬刻に肩を掴まれ、独歩は姿勢を崩しながら、手を振る寂雷の姿が小さくなっていくのを見るしかなかった。 左馬刻に肩を掴まれたまま連れて行かれたのは、マンションから少し離れた路上。そこに路上駐車してあった左馬刻の車の助手席へと、独歩は押し込まれるように乗せられた。 左馬刻が運転席へ回り、乗ると鍵を閉めてしまう。 「あの、碧棺さ」 左馬刻の指が独歩のネクタイの結び目にかかり、軽く下げると、ワイシャツの襟元を寛げ、首筋に顔を寄せた。 「やっぱりな。匂いが強い」 「え?」 「この間も匂いがしたが、あんた、自覚ないのか?」 「自覚?発情期はきてませんよ?」 車という狭い空間に押し込めたことで、外で嗅いだ時よりも強く、濃く、匂いが漂う。最初もそうだったが、これで発情期がきていないというのはおかしい、と、左馬刻は目の前にある首筋を、そのまま軽く噛んだ。 途端、更に匂いが強くなる。 「ちっ………あんた、自力で発情期に入れないんじゃねぇか?」 「どういう、ことですか?」 最初に左馬刻が独歩の匂いに気づき、その後軽く独歩にちょっかいをかけた際、匂いが強くなった。その後は、元クラスメイトに薬を盛られた時。切欠はきっとその薬だろう。部屋の外へ漏れる程の匂いだったのだ。更には、番になった際。うなじを噛んだ時の匂いの強さは、それまでの比ではなかった。 どれも、外部からの刺激があって、だ。独歩自身は恐らく、無自覚。 発情期の間に強く発されるΩのフェロモンは、αを誘う。それは、確実に種を存続させるためだ。しかし、独歩にはその種を存続させるための生殖機能が、ない。だからなのだろうか、フェロモンをコントロールすることが出来ず、垂れ流しになる。 だが、何故かその匂いに気づいたのは、唯一左馬刻だけ。匂いに気づかなければ、αにとっても発情期はないのと同じになるのだろう。独歩自身、自分のフェロモンが出ているかどうかは分からない。生殖機能がないから発情期もない、と思い込んでいる。 しかし、発情期のないβであっても恋人同士で(恋人同士ではなくとも)性行為はするし、情欲が押さえられないことはある。 独歩はそれを、生殖機能がないと言う一点で全て、無視してきた。と言うよりも、気づかないまま生きてきた。だから、発情期がきていても気づかないし、外部からのスイッチが必要になる。ただ、それを自覚したから自力で発情期に入れるかどうかというのは、別の問題になるのだろうが。 「そんなこと、ありますか?」 「知らねぇよ。俺は医者じゃねぇんだ。今度先生にでも聞いてみろ」 「そう、ですね。そうします、って、ちょ、何普通に脱がそうとして」 「あぁ?この流れならヤルだろうが」 シャツのボタンに手をかけて外し始めている左馬刻の手首を掴んで、どかそうと試みるが、αの左馬刻の力に敵うはずもない。 「車は、そういうことする場所じゃ」 「ちっ!だったら、相応しい場所に行ってやるよ」 言うなり、左馬刻は独歩から手を離して車のエンジンをかけ、独歩がシートベルトを着けるよりも先に車を走らせ、ホテルが何軒も連なる、シンジュクの中では見慣れた、奇抜なネオンが瞬く界隈に辿り着いた。 その内の一軒に車を入れ、逃げないようにと、車から降りた独歩の腕を掴んだ。けれど前回とは違い、躊躇しているような素振りではあるが、嫌がりはしなかった。 (わかってねぇんだよな、こいつ) 左馬刻に向けられる匂いが、どれほど甘く強く、時間が経てば経つほど、濃くなっているのかを。それが、どれだけαで番である左馬刻を誘い、惑わすのか。 無自覚で、無防備な極上の獲物が、目の前に据え膳で置かれているようなものだ。 早く、噛みつきたかった。 ![]() 何か色々小難しいことを書きましたけど。 結論としては“分からない”です。 それっぽく書いてみたかっただけです。 2022/5/14初出 |