ふよふよと、天井へ向かって灰色の煙が上がっていく。その行方を何とはなしに視線で追った独歩は、今日こそはと意を決し、不機嫌そうな左馬刻の前へ、金の入った封筒を差し出した。だが、煙草を灰皿へ押しつけて消した左馬刻の手で、軽く返して寄越された。 「いらねぇって言ってんだろ」 「そういうわけにはいかないんです!」 突き返された封筒を、再び左馬刻の前へ滑らす。だが、またそれは返される。もう、何度目か分からないやりとりだ。 「あんたもしつけぇな」 「しつこくもなります。何で俺の薬代を碧棺さんが払うんですか。おかしいでしょう?」 年末に寂雷から渡された、抑制剤。その支払いをいつの間にか左馬刻がしていたと聞いた時の独歩の驚きと言ったら、なかった。 年越しをして、抑制剤の代金を支払っていない事に気づいた独歩が寂雷に連絡すると、左馬刻が既に支払いを済ませたと言うのだ。慌てた独歩が、同じだけの額を入れた封筒を用意して、今まで何度左馬刻に渡そうとしても、受け取ってもらえていない。 「あんた俺の番だろうが。だったら俺様が支払ったって何もおかしくねぇ」 「それをおかしいと思わない感覚がおかしいんですよ!」 左馬刻の金銭感覚は、会社勤めをしている独歩とは大幅にずれている。簡単に部下に何枚もの紙幣を渡すし、下手をすれば財布ごと投げてしまうこともある。独歩からすれば、それだけの金を稼ぐのにどんだけ俺が苦労してると思ってんだ!と、叫びたい気分だが、左馬刻にしてみれば、必要な時、必要な場所で金を出しているに過ぎないし、それ相応の仕事もこなしているので、文句を言われる筋合いはない。その上、今回の件に限って言えば、独歩は自分の番で、その番の発情期という生理現象をコントロールするための薬に金を出すのは、至極当然、と言う感覚だ。 俺のものに俺が金を出すのは当然だろう、と。だからこそ、それをおかしいと言われるのは腹が立つ。 「あぁ?んだと?」 「すごんだって駄目です!受け取って下さい」 ぐいぐいと、独歩が封筒を左馬刻の手に握らせる。譲りそうもない独歩に、押し問答に飽きた左馬刻は、深く溜息をつくと、封筒をテーブルの上に置いて、立ち上がった。 「風呂入ってくる」 「あ、じゃあ俺帰ります」 左馬刻の言葉につられるように、独歩が鞄を掴んで立ち上がろうとした。 「おい、ちょっと待て」 今の話の流れで何でそう言う言葉が出てくるんだ、と思った左馬刻は、立ち上がりかけた独歩の胸倉を掴み、互いの額をぶつけた。 「ひぇ」 「あんた、それだけのために来たのか?」 「そ、そうですけど。え?他に何かありましたっけ?」 本気で分かっていなさそうな独歩に、流石に呆れ果てた左馬刻は、胸倉から手を離し、今度は襟首を掴んで、力任せに独歩の体を引きずり、リビングから寝室へ入ると、ベッドの側へ、独歩の体を放り投げた。 「ここにいろ」 発情期以外を我慢する、と言う選択肢は、左馬刻にはない。寝室へ連れて来られたことで意味を理解したらしい独歩が、顔を赤くして動きを止めている。 「いいか?逃げんなよ?」 左馬刻の言葉に、小さく頷いた独歩に満足した左馬刻は、風呂場へ向かった。 風呂から上がり、冷蔵庫から冷えた炭酸水を取り出し、リビングのテーブルに置き去りにされたままの封筒からは視線を逸らして、左馬刻は寝室へ入り、溜息をついた。 床へ置いた鞄へ、畳まれたジャケットが少し乱暴に引っかけられている。それを着ていた当の本人はと言うと、左馬刻のベッドの上で、枕を抱きしめて眠っていた。 (この状況で寝るか?) 無防備と言ってもいい姿は、左馬刻の事を意識していないようで、癪に障った。 (何で、こいつなんだかな) 自分で選んで番にしたが、深く突き詰めて考えてみれば、これと言った特別な理由があるわけではない。せいぜい、匂いが気に入った、と言う程度だ。それで噛みつきたくなったのだから、本能というのは恐ろしい。 匂いが気に入った。それは事実で、手に入れたと思った後の満足感は強かった。だからこそ、番を解消してくれと言われた時は、後先を考えない程に怒りが膨れ上がったし、嫉妬の理由に気づかない事にも苛立った。 (ああ、そうか。拒まれたのは、初めてだったな) 今まで、Ωでもβでも関係なく、拒まれた事はない。一夜の相手を求めてきたβもいるし、番にしてくれと縋ってきたΩもいる。だから、拒まれた事が新鮮に感じたと言えば、そうなのだろう。 薬の代金にしてもそうだ。まさか、突き返してくるとは思わなかった。このままだと、延々このやりとりを続けなければいけなくなりそうで、正直うんざりしている。 (何でそこだけ頑固なんだよ。受け取れよ) 何だか段々苛ついてきて、左馬刻は独歩が抱きしめている枕を取り上げ、首元に緩くかかっているネクタイの結び目を解いた。 「ん………………え?」 「よう。起きたか?」 途端、独歩が腕を伸ばして、左馬刻の顎を上向くように押しどけた。 「おい、何だ、この手。どけろ」 「いや、いやいやいやいや、か、か」 「か?」 「か、かお、かおが、ち、近い」 「あぁ?ったりめぇだろうが。何の為にここにてめぇを連れてきたと思ってる」 解いたネクタイを抜いて放り投げ、独歩の手首を掴んで顎からどけさせる。すると、今度は独歩がそっぽを向いた。 「おい。こっち向け」 「いや、でも、あの、こ、心の準備が、出来てないって言うか」 「んなもん知るか。寝る余裕はあんだろ」 「色々考えてたら眠くなってきただけで寝ようとしたわけじゃなく、って、脱がすな!」 「脱がす間に準備しとけ」 ワイシャツのボタンを外す左馬刻の手を独歩が掴むが、独歩の力などものともせずに、左馬刻はどんどんボタンを外していき、そのままズボンのベルトに手がかかる。 「ちょ、ちょっと待って!碧棺さん!」 「うるせぇな。喚くな。萎えるわ」 「じゃなくて!碧棺さん、何か欲しいものありますか!?」 「………は?何だ、いきなり?」 流石に、ベルトを抜きかけた手を、左馬刻も止めた。すると、独歩が襟を広げて、首にかかったネックレスを見せる。 「これ!返そうとしたら怒ったじゃないですか。だから、何か欲しいものありますか?」 「別に欲しいものはねぇな」 「何でもいいです!俺が買えそうな物で!」 「何でもって急に言われてもな………………まじで何でもいいのか?」 「いいです!高すぎなければ」 「名前で呼べよ」 「へ?………………名前?碧棺さん?」 「ちっげぇわ。下の名前だ。簡単だろ?」 独歩が、左馬刻を名字以外で呼んだことはない。強制する事ではないし、呼び方等どうでもいいとは思うが、他人行儀だとも思う。 一歩を、踏み込んでみたかった。 「っ………でも、それ、物じゃないし」 「物はいらねぇよ。まじで思い浮かばねぇしな。ほら、早くしろよ」 独歩が鯉のように口を開閉している姿を見下ろしながら、左馬刻は意地悪く微笑んだ。 「っ………さ………………左馬刻、さん?」 (うわ!何だ、これ!?凄い恥ずかしい!) 名前で呼んだだけなのに、言い表せない羞恥に襲われた独歩は、顔を真っ赤にして両手で覆い、体を丸めようとした。 だが、閉じて折ろうとした膝の間に左馬刻が足を入れ、顔を覆う両手を外し、掴んだ。 「よし。気分がノった。ヤるぞ」 「何で!?」 一体どの辺が、と聞こうと開いた独歩の口は、左馬刻の口ですぐに塞がれてしまった。 ![]() 金銭感覚は合わないだろうな、が原点の話。 最終的に名前を呼ぶところまではいきましたが。 多分、この後は元に戻ると思います。 2022/8/13初出 |