左馬刻と番になってから、半年程が過ぎ、もうすぐ四月になろうかという、春。各社で人事異動が多く発表される時期であり、後何日かすれば新人も入社してくる季節だ。独歩の勤める会社でも、今年は珍しく新人が入って来るという。まあ、新人が入ってきたからと言って、独歩のいる部署に配属されるとは限らないし、それなりに人数のいる会社で、下手をすれば一年に一度も顔を合わせないことなどもざらにある。だから、特別どうと言うことはないのだが、そうしたことがある場合往々にして、飲み会が多く催されるのだ。 そしてその日は、他支店への異動が決まった同僚の、送別会だった。シンジュク・ディビジョン内の居酒屋で、二十人近くの老若男女が酒と食事を楽しんでいる。 そんな中にいて、独歩は正直全く楽しめなかった。理由の一つ目は、いつものごとく仕事が終わっていないからだが、二つ目は、何故か上機嫌な上司が横に座っているからだ。 怖い。何故上機嫌なのかが分からないから恐ろしい。何か一つ切掛があれば、簡単に独歩へ対して攻撃してくるのだろう。 下手な事を言わずに、曖昧な返事で頷いているに限る。それともいっそ、グラスが空になった瞬間に酌をし続けて、酔い潰してしまう方がいいだろうか。 そんなことを考えていると、不意に独歩の肩が叩かれた。振り返れば、同僚女性の一人が立っている。ちょっといいですか、と言われたので上司に断って立ち上がり、少しずつ酔いが回ってきている人々の間を縫うように歩き、テーブルから離れる。 「私、今回の幹事なんですけど」 「ああ、はい」 「お花屋さんに頼んでいたお花が届かなくて」 「え?」 異動する同僚へ渡す花だろう。それは、まずいのではないだろうか。 「でも、私シンジュクに詳しくなくて、観音坂さん、シンジュク在住ですよね?お花屋さんの場所とか、分かりますか?」 「頼んでいた花屋は?」 「八時までで、電話が繋がらないんです」 「今十時か………ちょっと待って貰っていいですか?」 「あ、はい」 携帯電話を取りだし、一番詳しいだろう相手を呼び出す。少しずつテーブルから離れ、喧噪を遠ざけようとした。 『あっれ〜独歩ちんが俺っちの勤務中にかけてくるなんて珍しいじゃん』 仕事中だというのに、ホストモードでない一二三が出るのが珍しく、驚いた独歩は返事が一拍遅れた。 「………今休憩中か?」 『今丁度お客さん送ったとこ〜何、何?』 「お前の店がいつも使ってる花屋って、この時間開いてたよな?」 『開いてるよ〜何、独歩ちん、左馬刻ちんに花束でも買うの?』 「っ違う。同僚の送別会の花が届かなくて、用意したい。場所教えてくれ」 『なぁんだ、そいうことか。いいよ〜ちょっち待ってね』 「メモ、とれますか?」 「あ、はい」 女性がスマートフォンの画面をタップし、メモ機能を呼び出している。 『言うよ〜お店の場所は』 一二三の言う住所を独歩が復唱し、女性がメモしていく。店名と何となくの位置を聞いて礼を言い、通話を切った。 「急ぎましょう。今からなら間に合う」 「え?」 「女性が一人で歩くのは、危ないです。特にこの時間帯のシンジュクは」 一軒、二軒とハシゴして、既にへべれけになって歩いている者が多い時間帯だ。不慣れな街ならば、尚のことだろう。それに、抜け出す丁度いい切掛にもなって、独歩としてはありがたかった。 女性を促して、独歩は店を出た。 独歩と女性が店に到着した時には、店主は心得てくれていた。一二三が連絡を入れてくれたのだという。 女性が予算の額を伝え、使って欲しい花を伝える。これは、独歩には分からない。花など何の違いがあるのか、細かくなればなるほど分からないし、きっと、女性ならではの感性や気遣いがあるのだろう。 出来上がった花束は、急な頼みにも関わらず立派な物で、アクシデントが解決したことに、女性は心底ほっとしたようだった。 「ありがとうございました」 「え?」 「花が届かなくて、どうしようってパニックになってたんです。そうしたら、観音坂さんがシンジュクに住んでるから、って他の人に聞いて、声をかけたんですけど、まさかお店までついてきてくれると思わなくて」 「いや、この時間は本当に危ないので」 シンジュク・ディビジョンは治安が良い、とは到底言えない。特に、飲み屋街が連なるこの辺りは、毎晩のように酔っ払いが地べたで寝て警察のお世話になったり、喧嘩が起きたりで騒々しいのだ。 「私、観音坂さんて、話しかけづらいかも、なんて思ってて」 「は、はは」 乾いた笑いしか、出てこない。営業成績は悪く、仕事の進みも遅く、下ばかり向いているのだ。そう言われても仕方がなかった。 「でも、きちんと話聞いてくれて、危ないからってついてきてくれて、本当に、ありがとうございました」 「いえ、大したことはしてないですから」 軽く手を振って否定し、他愛もない世間話をしつつ、ぶつかりそうな酔っ払いを避けながら、宴会の続く居酒屋へと戻った。 荒れているな、と、通話の相手に対して怒鳴り散らしている上司を横目で見て、男は周囲に聞こえないように小さく息を吐いた。 ここ数日、男の上司は荒れに荒れている。と言うのも、収入源である、流通を管理していた薬に関して、半年前、敵対勢力である火貂組に流通経路を潰され、その上、製造場所まで潰されたからだ。そろそろほとぼりも冷めただろうかと、何とか細々と製造を再開したが、流通経路を潰されたのは、痛い。新たな販路や場所、地域を開拓するのは、容易ではないだろう。 男が所属しているのは、決して大きな組織ではない。だが、ここ数年で力をつけてきている組織ではあった。勿論、怒鳴る上司を視界の端に捉えている男は、下っ端も下っ端、使いっ走りのような存在である。 職もなく、つてもなく、生きていくために仕方なく所属してはいるが、下っ端で抜けやすい内に、抜けておくべきなのだろうか、などと、恩義の欠片もないことを考える。 受話器を叩きつけた上司が、鍛えているのだと時折自慢する引き締まった体を、沈めるように椅子へ落とし、口に煙草を銜えた。それを見た男は慌てて近づき、取り出したライターの火を近づける。 火のついた煙草を一口吸い込み、煙を吐き出した上司が、椅子の背凭れへ預けていた上半身を起こした。 「火貂組の弱みを握るぞ」 「弱み、ですか?」 そんなもの、ヤクザにあるだろうか、と男はライターを懐へ仕舞いながら、思った。 「何でも良い。囲ってる女でも、金でも、過去でも何でも、強請のネタになりゃぁな」 「強請っすか?」 「このまんまにしておけるかよ。下っ端じゃ意味ねぇぞ。上の連中のを押さえろ」 「分かりました」 出来るかどうかは分からなくても、頷いておかなければ話は進まないし、先程までの剣幕を考えれば、出来ない、などとは、到底言い出せない雰囲気だった。 男は部屋を出て、別室で雀卓を囲んでいるチンピラ達へ、指示をそのまま伝えた。どこか億劫そうに、数人の男が外へと出て行く。曖昧な指示だ。どこから取りかかればいいか分からないのだろう。やっぱり早く抜けるべきだろうか、と考えながら男も外へ出て、その考えが間違っていなかったことを、一月と経たない内に知ることになる。 ![]() 最終章のつもりで書いています。 つもりというのは、所詮つもりだからです。 ギアスの際に最後と言いながらお話を書き続けたことがあるので(笑) 2022/11/12初出 |