* 海よりも深く、溺れるように V 11 *


 独歩は、目の前の光景に、一歩どころでなく、二歩、三歩と足を下げようとしたが、左馬刻に腕を掴まれていて、それは適わなかった。背後で、今乗ってきたばかりのエレベーターが、扉を閉める無情な音を立てる。
 その音に被せるように、廊下に居並んだ、ぱっと見でサラリーマンじゃないな、と言う風体の、屈強な、強面の人々が、一斉に頭を下げた。
「お疲れ様ですっ!」
 声の揃った挨拶が、廊下に響く。その挨拶に、短く一言、おぅ、と返した左馬刻は、慣れた様子で廊下を歩き始めた。
(ひぃいいい!何で俺ここにいるんだよ!)
 左馬刻についてこいと言われたからついてきたのだが、もう既に怖くて帰りたい。しかし、左馬刻に腕を掴まれているせいで、後退ることも出来ず、仕方なく足を前に出す。
(火貂組の事務所に行くなら行くって言ってくれればいいのに!何で言わないんだよ!言えよ!服だって借り物で居心地悪いのに!高そうで!)
 ボタンを切り飛ばされてボロボロになったワイシャツの代わりに、左馬刻のシャツを借りているのだが、独歩が普段着ている安物とは違って、肌触りが良すぎて逆に気持ち悪いし、落ち着かなかった。昨晩、左馬刻が洗濯機の中に突っ込んだ自分のスーツが、多少皺になっていても、何とか乾いて着ることが出来ているのが、せめてもの救いだ。
 と、廊下の突き当たり、重厚そうな扉の前で立ち止まった左馬刻が振り返り、独歩の肩を掴んで、同じように振り返らせた。
「おい、おめぇら、こいつの顔よく覚えとけよ。俺の番だ」
 一拍、沈黙がその場を支配し、顔を上げた男達の間に少しずつざわめきが広がってゆくのを、独歩の悲鳴のような声が遮った。
「はぁあああああ!?」
 突然の素っ頓狂な独歩の声に、流石の左馬刻も驚きを隠せなかったようで、目を丸くしている。
「何でてめぇが驚くんだ?」
「驚くだろ!何で………何考えてんだ!?」
「何でも何もねぇわ。この辺仕切ってんのはウチの組だ。今回みてぇな事がねぇように、顔だけ知っときゃ」
「そういう事じゃなくて!」
「何だよ?」
「っ………俺は………………」
 言いふらさないでくれとか、周りには内緒にしておいて欲しいとか、そういうことではないのだ。ないけれど、大々的に口にするような事ではないだろうし、大勢の前で発表するような事でもない。
 “子供を産めないΩ”と言う厳然たる事実に基づく、一生消えないであろう劣等感や、それを知った左馬刻の周辺にいる人々がどんな風に思うのか等、まだ起きてもいない事象に対する猜疑心のような感情が邪魔をして、左馬刻の横に堂々と立つことが出来ない。いや………きっと、今ここで自分を見ている人達は、お前は一体何でそこにいるんだと、不信と疑惑の眼差しを向けているに違いない。そう思えば思う程、顔を上げることが出来なくなって、言葉が余計に出てこなくなった独歩の視線は、床に縫い止められてしまった。
 小さな左馬刻の溜息に、独歩が拳を握るのと、左馬刻の手が伸びてきて、頬を鷲掴みにして顔を上向かせたのが、ほぼ同時だった。
「ぐるぐる考えてんじゃねぇよ。言いたいことは言えって」
 遠慮のない手を掴んで下ろし、横を向く。
「どう言っていいか、わかんないんですよ」
「何だそりゃ。ったく………とにかく、全員覚えとけよ。で、おい」
 左馬刻の呼びかけに、男が一人前に出てきた。昨夜、左馬刻の元へ駆けつけた男だ。
「こいつの鞄とかは?」
「保管してあります」
「後な、腕に覚えのある奴、5〜6人選んでおいてくれ。シンジュクに土地勘があれば尚いいな」
「わかりやした」
「碧棺さん?」
「あんたにな、護衛つけるわ」
「はい?」
「あんた喧嘩駄目そうだし、とりあえず」
「いや、そういうのいらないんですけど」
「あぁ!?」
 独歩の、間髪を入れない拒否の言葉に、左馬刻の眉尻が吊上がる。
「だって!どうせ俺家と会社の往復だし、会社は社員と関係者以外入れないし、家はオートロックだし、一二三もいるし」
「外回りとかあんだろうが!ホストが喧嘩の役に立つのかよ!?そもそも、家に入る前に昨日は攫われたんじゃねぇのか!?」
「そ、れはそう、だけど!あんなこと人生でそう何度もあってたまるか!」
「ありえるんだよ!俺の番だぞ!?」
「例えありえるにしても、まず俺に話通すのが先じゃないのか!勝手に話を進めるな!」
「………クソッ。正論言いやがって」
 気まずくなった左馬刻は、煙草を取り出して口に咥え、火を点けた。
「あの、口を挟んで申し訳ないんですが、若頭の言う通り、護衛は必要だと思います」
 左馬刻の援護射撃をするべく、男は意を決し、口を開いた。昨晩、左馬刻の頭に拳を振り下ろした目の前の人物を、見た目通りに判断していい訳がないからだ。
 ラップバトルで頂点に立ったチームに所属している上、昨夜から今日ここまでの些細な時間ではあるが、二人のやり取りを見ている限り、一方的に左馬刻に守られ、囲われるようなタイプの人物ではなさそうに思えた。その場合、簡単に言いくるめられてはくれなさそうだ。
「火貂組は、ヨコハマ以外にも一応名の知れた組織です。その若頭の番となれば、狙われる確率は高いですし、予期せぬ事件や事故に巻き込まれないとは言えません」
「いや、でも、護衛なんて大袈裟ですよ」
「いえ。組長や若頭のご家族であれば、護衛は常日頃つくのが通常です。若頭の番となれば、家族同然の扱いになりますし、離れて暮らしているのであれば尚のこと、守りは固めにしておくべきかと」
 部下のまともで最もな言い分に、左馬刻は心の中で、もっと言ってやれ、と思っていた。何気に頑固で融通の利かない独歩を納得させるのは、それなりに骨が折れるのだ。
「いやいやいや!困りますよ!俺、所詮サラリーマンですよ?一会社員にそんな護衛なんてついたら、周囲に何を言われるか!」
 会社や近所で噂になったりしても困る!と言う一心で、独歩は首を横に振った。
「だったら、せめて今回の件の片がつくまでだったらどうだ?」
「え?」
「昨日の今日で、まだサツもごたごたしてるし、薬ばらまいてた連中の本丸がこれで完全に叩けたかどうかはわかんねぇしな。用心するに越したことはねぇ。その程度なら、あんたも我慢できんだろ?」
「いや、あの、そもそも論で申し訳ないんですけど、俺、何に巻き込まれたんですか?」
 え?今そこ?と、左馬刻の部下の心が一つになっても、独歩は質問を止めない。
「それに、今日ここに連れてこられた理由って、何ですか?荷物返してもらったら、帰っていいってことですよね、俺?」
 え?この人、ヤクザの事務所に荷物とりに来ただけ?と言う至極当然な疑問符を浮かべた左馬刻の部下達の心の中で『実は凄い大物なんじゃないか?精神的に』と言う、勝手な憶測が出来上がっていく。
「え?若頭、説明してないんですか?今回の件に関して?」
「あ〜してねぇな。忘れてた」
「だったら、手っ取り早いじゃないっすか。説明すれば護衛の件も納得して貰えるんじゃないっすか?」
「まあ、こいつ納得させるにはそれしかねぇか。じゃあ、頼むわ。俺は面倒くせぇ」
「丸投げ!?」
 丸投げされた部下は、独歩に対して今回のゴタゴタの顛末を大雑把に説明してくれた。
 そして、その内容を聞き進めた独歩は、相手が火貂組のようなヤクザな上に、火貂組とは違い薬物に手を出すことを躊躇わない組織だと知り、渋々ながら、本当に渋々ながら、期間限定で護衛をつけることに、首を縦に振らざるを得なかった。







左馬刻の部下達の独歩に対する認識は。
“若頭に怒鳴れるやべぇ人”です。
バトルの映像見て更に“やべぇ人”に拍車がかかります。
きっと、皆受け入れてくれると思います。




2024/4/28初出