* 海よりも深く、溺れるように V 12 *


 土曜日の内に仕事を終わらせ、日曜日にはゆっくり眠りたい、と言う独歩の願いは、金曜日の夜の内に灰燼に帰した。その代わりと言っては何だが、土曜日に左馬刻の家でそれなりにゆっくり出来たので、良しとしようかとも思ったが、終わりの見えない資料作成の作業に、溜息しか出てこない。
(大体、この作業俺の仕事じゃないだろ!自分の仕事は自分でやれよ、ハゲ上司!上から目線で踏ん反り返るだけが上司の仕事じゃないだろ!自分の言葉一つで部下が右往左往すると思ったら大間違いだからな!)
 正に今右往左往しつつも、心の中で只管悪態をつきながら、パソコンの画面と睨めっこを続ける。
 資料作成から取引先とのアポイントメント取りまで、細かい作業は多岐に渡る。ミスのないようにと、急ぎつつも最新の注意を払って仕事をしていけば、時間はどんどん過ぎていく。気づけば、窓の外は真っ暗だった。
「おわっ、たぁ〜!」
 資料の最後の一部をホチキス止めし、まとめて上司の机の上に置けば、完了だ。これでようやく帰れる、と時計を見て、絶望する。
「8時、過ぎてる………」
(どうせ俺は仕事の出来ない、無能な社畜だよ。でもな、大して残業代もつかないのに土日にまで出社して仕事してる人間に対する労いの言葉とか、いや、そんなこと上司から突然言われても気持ち悪いだけだからいらないけども)
「どわっ!」
 ぐるぐると思考していた独歩は、胸元で震えた携帯電話に驚き、慌てて取り出した。
「はいっ!」
『いつまで仕事してんだ。とっとと降りてこいや』
「碧棺さん?」
『あんたの会社の前にいんだよ』
「え?ちょ、すぐ行きます!」
 通話を切り、パソコンの電源を落とし、机の上に散乱した荷物を慌てて鞄の中へ突っ込んで、スーツの上着を羽織った。


 会社の前の道路に、黒塗りの車が停車し、その車体に寄りかかるようにして左馬刻が腕を組んでいる。
「昨日の今日で、どうしたんですか?」
「話があってな。乗れ。家まで送る」
 後部座席を示されて乗り込むと、運転席には左馬刻の部下らしき男がいる。と言う事は左馬刻が運転しないと言うことで、左馬刻も後部座席に乗り込んできた。
「出していいぞ」
「うっす」
 男が頷いて、車はゆっくりと滑り出した。
「とりあえず、ネックレスは一ヶ月位で直るらしい」
「本当ですか?直るんですか?」
「ああ。新しいの買わなくていいのか?」
「え?あれがいいです。碧棺さんに初めてもらった物だし」
「………そうかよ。後な、あんたに渡す物がある。手ぇ出せ」
 言われて独歩が手を出すと、そこに、重厚感のある物が乗せられた。
「鍵?三つありますけど?」
「俺の部屋の鍵。これがエントランスの鍵で、こっちが駐車場から入る裏口、んで、これが部屋の鍵な」
 少しずつ形の違う鍵が何処の鍵かを淡々と説明されて、独歩は慌てた。
「えっと………何で?」
「あ?もうすぐ発情期があんだろ?」
「そう、ですね」
「やばいと思ったら来い。事前に連絡だけは寄越せよ」
「預かって、いいんですか?」
「預かるとは違うだろ。それはきっちりあんたのもんだ」
「でも、俺は部屋の鍵渡せないですよ?」
「それは期待してねぇわ。ホストもいる部屋にずかずか入ってく気はねぇよ」
 番が発情期に入ったからと言って、すぐに体を空けられるとは限らない。比較的時間に融通の利く勤務体系(?)ではあるが、左馬刻にだってどうしても外せない用事という物はある。それは、独歩もそうだろう。むしろ休日出勤するほど社畜を極めている独歩の方が、都合良く休めない可能性は高い。だからといって、遠慮して我慢して、発情期に気づけず体調不良、と言う事になっても困る。独歩が何かを強く要求するような性格ではないことは、半年程も付き合えば理解出来た。
「えっと、発情期以外でも、使って大丈夫ですか?」
 ぐっと鍵を握った独歩が、窺うように尋ねて来たことに驚きつつ、左馬刻は頷いた。
「好きにしろ。でも、さっきも言ったが連絡だけは寄越せ。あんた、その辺すっ飛ばしそうだわ」
 遠慮ばかりでは面白くない。我慢ばかりされてもつまらない。だからと言って我が儘を言えというわけではない。けれど、もっと左馬刻を頼り、自分自身の希望するところを口にすればいい、と左馬刻は考えていた。
 そうでなければ、折角番になったのに、ただのセフレと変わらなくなってしまう。
 マンションが見えて来た所で、独歩は、受け取った鍵を鞄の中へ仕舞った。
(それ用のキーケースを買おう)
 折角もらったのだからなくすなど以ての外だし、傷も出来る限りつけたくない。となれば、自然とキーケースは必要になってくる。
「送ってもらってありがとうございました」
 折角会えたけど明日も仕事だし、と独歩が扉を開けて車から降りる直前、左馬刻が少し厚みのある封筒を出してきた。
「時間のある時にでも見とけ」
「何ですか、これ?」
「セカンドハウスの物件選び」
「セカンドハウス?」
「前々からな、今の部屋以外にも一部屋か二部屋、安全面を上げる為に借りるつもりでいたんだよ。で、折角だからあんたの意見も取り入れとこうかと思ってな」
 今回の事件は、この話を一歩進めるのに十分過ぎる理由になった。部下達からも強く勧められているし、出来れば早々に決めてしまいたい所だった。
「あんたの好みの部屋があれば言え」
「分かりました。早めに目を通します」
「おう。じゃあな」
「はい。おやすみなさい」
 独歩が車を降り、エントランスに入ったのを確認してから、左馬刻は部下に車を発進させた。
(さて、どういう反応が来るかな)
 ちょっとした仕掛けをしてあるのだが、それにいつ独歩が気づくのか………と左馬刻が意地悪く笑んでいると、横浜に入る頃、電話が鳴った。
『あの、碧棺さん、さっき受け取った封筒の中身、間取りや写真はあるんですけど、どの部屋も家賃が載っていないんですが?』
「消させた」
『消させた!?何で?』
「あんた、高い家賃だと気にすんだろ?間取りと写真だけで純粋に気に入った部屋を決めろよ」
『えぇえええ!?困りますよ!』
 楽しみにしてるぜ、とだけ返し、左馬刻は通話を切った。今頃頭抱えてんだろうな、と思うと、面白かった。
 勿論、その頃独歩は、一二三の用意してくれていた夕飯を温める事も忘れ、受け取った封筒の中に入っていた物件情報の紙をテーブルの上に並べて、頭を抱えていた。
(ヨコハマの相場を調べた方がいいよな?あれ?でも、これ住所も載ってないよな?え?まさか、それも消されてる?何となくの地域名もないんだが?じゃあ、本当に純粋に間取りやデザインだけで決めろって事か?)
 インターネットで調べれば、似たような物件や、或いは全く同じ物件が出てくるだろう事を思いつかず、独歩は、受け取った紙を照明に透かしてみたりして、どこかに消し損ねがないかを、必死に探した。
 そんな事とは知らない左馬刻から、数日後に選んだかどうかを聞かれ、独歩は何とか気に入った間取りの部屋を(出来る限り小さめの部屋だが、そもそもの物件情報が広い部屋が多い)二部屋選ぶのだが、その家賃を左馬刻が教えてくれることは、今後も一切ない。







左馬刻様は独歩をからかって遊んでいる節があります。
自分の言葉で独歩が右往左往するのが楽しい。
そして、この後鍵がどんどん増えていってキーケースじゃ入りきらなくなる。





2024/5/25初出