* 海よりも深く、溺れるように V after〜side 独歩〜 *


 最初に気がついたのは、一二三だった。
「それさぁ、発情期なんじゃん?」
「え?」
 数日続けて、食事の箸が進まない独歩の様子を見て、一二三も最初は風邪なのではないかと思った。独歩自身も、年度末と年度始めの忙しさで、疲れが出ているのだと思っていた。けれど、咳は出ないし、鼻がぐずる様子もない。微熱は多少あったけれど、疲れている時などそんなものだろうと、無視していたのだ。それが、段々と体がだるくなり、ぼんやりとする事が増えて、変だよなぁ、と思っていた矢先に、一二三が指摘した。
「絶対そうだって!何で言わないの?」
「いや、疲れてるんだなぁ、って」
「あのさぁ、独歩ちんは毎日疲れてるしくたびれてっからね?」
「くたびれてるって、お前酷いな」
「もぉ〜ちゃっちゃと左馬刻ちんに電話しなよ。迎えに来てもらったら?」
「いや、仕事行く」
「社畜過ぎるよ!」
「抑制剤飲んで様子見てみる」
「発情期の休暇申請は出来るっしょ?」
「出来るけど、抑制剤飲んで体調が変われば確実にそうだって分かるから、確認してから………後、もう何日かでゴールデンウィークだろ?そこなら、周りに迷惑かけずに休める可能性が高いから」
「あ、そか。毎年独歩ちんが勝手に出社してるだけで、本来休みなんだっけ?」
「どうせ俺はゴールデンウィークに合わせて仕事の調整も出来ない万年無能な社畜だよ」
「ネガティブ禁止!いい?今日中に一度は左馬刻ちんに連絡入れなよ?」
 語尾を食い気味に一二三に言われ、曖昧に返事をしつつ、独歩は進まない箸を動かし、それでも茶碗の中の米を半分程は食べた。


 家を出る前に飲んだ抑制剤は、会社に到着する頃には効いてきた。全身が重く怠かった感覚は薄れ、靄のかかったような思考も、幾らかクリアになっていた。
(これなら、何とか仕事出来るかな)
 抑制剤を飲んだのは初めてで、どの程度の効き目か、何時間位保つのか、副作用が出たりしないのか、分からない事だらけで、正直な所を言えば、左馬刻に連絡する事よりも、抑制剤の効果を知っておきたかった。
(後で怒られそうな気もするけど)
 同僚と挨拶を交わして自分の席に座り、開いていた携帯電話を折り畳んで、ポケットに仕舞いこみ、パソコンの電源を入れる。
(今は、仕事に集中しないと)
 そのまま仕事に忙殺され、昼食もゼリー飲料で済ませ、夕方が近づいて来る頃に、体が怠く、頭が重くなってきた。
(あ〜薬が切れてきたのか)
 そこで、ようやく発情期に入ったのではないかと、朝、一二三に指摘された事を思い出した。だからといって、そこですぐに行動に移さないのが独歩の悪い所で、そのまま薬を追加で飲むこともせず、切りのいい所まで、と仕事を続け、パソコンの電源をオフしたのは、終電間際。
(碧棺さんに連絡………は、もう遅いし、明日でいいか)
 重い体に力を入れて立ち上がり、鈍い頭でそんなことを考えた独歩は、翌日も同じ事を繰り返した。


 薬が切れてきた事を自覚しつつ、独歩は携帯電話でメールの文面を打ちながら、駅へ向かって歩いていた。
≪発情期に入ったみたいなので、今から伺っていいですか?≫
 結局、今日は金曜日だ。明日土曜日から、世間はゴールデンウィークに突入する。普段であれば、ゴールデンウィークの独歩は仕事をしている。けれど、今回は発情期と重なった。と言うよりも、抑制剤で無理矢理そこへ合わせ、仕事は全て終わらせてきた。
 退社する前に薬が切れてきた事を自覚したので追加で飲んでは来たが、まだ効いてはこない。電車で移動している最中に体調が悪くなっても困る、等と思いながら到着した駅の改札を通った所で、メールの返信が届いた。
≪すぐには帰れねぇから、部屋で待っとけ。駅に迎えの車やっとくから≫
 慌てて鞄の中を覗き込み、貰った鍵がきちんと入っている事を確認する。
≪わかりました≫
 簡潔に返信し、ホームに滑り込んできた電車に乗り込むと、珍しく電車内には空席があり、どうにか座ることが出来た。二十分程揺られていると、薬が効いてきたのか、体の怠さがましになってきた。
 左馬刻から、迎えの車と言われたが、どこの出口かを聞かなかったし、改札もどこへ出ればいいかを聞かなかった。とりあえず、中央改札へ行けば何とかなるか、と、到着したヨコハマ駅で人の流れに乗って改札を抜けると、男が一人近づいてきて、頭を下げた。
「若頭から言われてお迎えに上がりました」
「お手数おかけします」
 ぺこぺこと何度も頭を下げて、独歩は男についてロータリーへ向かった。
(いつもいつも高級車なんだよなぁ)
 ロータリーに停まっていた車の後部座席のドアを男が開けてくれたので、再度頭を下げて礼を言いながら、関係ない事を考える。
 座席に腰を下ろし、ほっと一息ついた瞬間に、違和感があった。
(あれ?この匂いって?)
 ふんわりと、覚えのある香りが漂った様な気がしたのと、体温が上がった様な気がしたのが、ほぼ同時だった。
「あの」
「はい?」
 運転席に座った男に声をかける。
「碧棺さん、最近この車に乗りましたか?」
「え?ああ、昨日乗ってましたね」
 そうですか、と答えた独歩は、エンジンがかかる瞬間の車の揺れに合わせて、ヘッドレストへ頭を預けた。
 混んでいるヨコハマの道をゆっくりと進んで、独歩が一眠りする前に、停車した。
「着きました」
 男の声に目を開けて、携帯電話の時刻を見れば、二十分経ったか経たないか、と言った所で、マンションの地下駐車場にいた。
「ありがとうございました」
 礼を言って鞄を持ち、男が降りてこようとする前に自分でドアを開け、降りようとした独歩は、額をドア枠にぶつけた。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫です。すみません」
 痛む額を押えて、何とか車から降りた独歩は、鞄の中から鍵を取りだして、居住者用の裏口にふらふらと近づいた。
(まずい………熱が上がってきた)
 まるで風邪をひいた時のような倦怠感が全身に広がり、怠さが増す。それでもどうにか裏口の扉を開けて、目の前に見えたエレベーターのボタンを押す。大して待たずに来たエレベーターに乗り込んで、左馬刻の部屋がある階のボタンを押し、壁にもたれかかった。上昇していく時の浮遊感すら不愉快で、早く到着しろ、と思う。
 停まったエレベーターから降りて、人気のない廊下を歩き、部屋の前に辿り着いて鍵を鍵穴に差す。既にその時点で、独歩の思考は大分鈍くなっていた。
 車内で気づいた左馬刻の匂いに触発され、飲んだばかりの抑制剤の効果は消えてしまった。体の熱が上がり、思考はままならず、足下がふらつく。その状態で部屋まで自力で辿り着いたのは、外で倒れる訳にはいかない、と言う無駄な根性だった。
 ドアを開いて、室内に入った途端、車内とは比べ物にならない匂いの強さに、独歩は倒れかけ、壁に手をついてやり過ごした。
(駄目だ………玄関で倒れちゃ………ああ、でも、凄い、いい匂い………体、熱い………けど、ここよりもっと、いい匂いが………)
 よたよたと、壁伝いに廊下を歩いて、寝室に辿り着き、ドアを開ける。
(ここだ………でももっと………足りない)
 寝室の中を歩き回り、見つけたドアを開けて、独歩は無意識のまま腕を伸ばした。
(ああ。ここが、一番落ち着く………碧棺さん、早く帰って来ないかな)
 ごろりと横になった独歩は、目を閉じた。







このお話の続き、左馬刻サイドがあります。
薬を飲めば仕事が出来る、は社畜かな、と思いましてこんな展開です。
独歩は長期休暇とか取らなさそうだよなぁ〜と。
最初は自分で発情期に気づけないけど、その内気づけるといいな、と思います。






2024/11/17初出