* 海よりも深く、溺れるように V after〜side 左馬刻〜 *


 スマートフォンが、メールの着信を知らせる。車を降りようとしていた左馬刻は、降りかけの姿勢のまま、メールを開いた。
≪発情期に入ったみたいなので、今から伺っていいですか?≫
「若頭?どうかしましたか?」
 扉を開けて左馬刻が降りるのを待っていた部下が、動きが止まった事を不審に思ったのか、声をかけた。
「………帰る」
「ちょ、若頭!駄目っすよ!今日は組長も出席される会合っすよ!」
 部下の言葉に、軽く髪をかき混ぜて、左馬刻は舌打ちをした。
「ちっ………おい、車一台駅に向かわせろ」
 先日の、薬をばらまいていた連中の大本の組織との手打ちが済んだので、その報告も兼ねた食事会なのだ。流石に、出席しないわけにはいかない。
「どなたかいらっしゃるんで?」
「アイツが来るから部屋まで送っとけ」
 左馬刻の言う“アイツ”が誰なのかに気づいた部下は、左馬刻が降りて歩き出したのを確認して、車のドアを閉め、事務所に詰めている部下に電話をかけた。
 後方で車の手配をしている部下の言葉を耳に入れながら、左馬刻はメールを送った。
≪すぐには帰れねぇから、部屋で待っとけ。駅に迎えの車やっとくから≫
 五分と経たない内に、素っ気ない≪わかりました≫と言う返事が届き、左馬刻は煙草を取り出して口に咥えた。
 カレンダー通りの休日進行で日々を過ごしていない左馬刻は、その日が金曜日で、翌日から世間がゴールデンウィークと呼ばれる長期休暇に入る事を、忘れていた。
 そして、独歩が我慢に我慢を重ねる性格であることも。


 部下から、無事に独歩を部屋まで送り届けたという報告を聞いてから、左馬刻が自宅へ帰り着くまで、数時間を要した。時計を見れば、もう少しで日付が変わりそうな時刻で、自然と舌打ちを零しつつ、車を降りる。
 会合は、散々だった。最初こそまともな報告会の体を成していたが、段々とその様子が崩れ、酒も入ってくれば、後は無礼講とばかりに、左馬刻に追求の手が伸びた。
 番を早く紹介しろ、いつになったら会わせてくれるんだ、出会いはどこだ、祝言はいつ挙げるんだ、等々………遠慮のない質問は四方から飛んだ。特に組長は口うるさく、ようやく年貢の納め時だと言って喜び、左馬刻に酒を勧めた。
 程々で切り上げて帰るつもりが、結局、番が発情期に入ってるから帰らせろ、と言った事でようやく解放されたのだ。舌打ちの一つや二つ、零したっていいだろう。
 部下には、最長一週間顔を出せない事を伝えてある。何かあったら何とかしろ、とも。乱暴ではあるが、やってやれない連中ではないことを知っている。
 駐車場と繋がっている、居住者しか使用できない裏口の辺りから、微かではあるが、甘い香りが漂っている。裏口を開け、エレベーターに乗り込むと、先程より更に香りが強くなった。そして、その香りの強さは、部屋のある階に到着しても続き、そのまま部屋まで続いていた。
(まるで、足跡残してるみてぇだな)
 そう思いながら鍵を取り出し、鍵穴へ差し込んで回そうとした瞬間、違和感を覚えて、鍵を回すことなく引き抜いた。そして、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回した。
 鍵が、かかっていなかった。
(かけ忘れやがったな、あのボケ!)
 以前、一二三が独歩に対し不用心だと言っていた事があったが、不用心にも程があるだろ!と勢いよくドアを開き、鍵をかけろと怒鳴りたかった気持ちは、溢れるように、零れるように流れてきた甘い香りで、押し流されてしまった。
 急いでドアを閉め、鍵をかける。
「ク、ソッ!何だ、この匂い!」
 眩暈を起こしそうな程の香りの奔流に、体が包まれる。エレベーターや廊下に残っていた香りとは、段違いの強さだった。
(この匂いの濃さ、昨日今日発情期に入ったわけじゃねぇな!?いつからだ!)
 靴を脱いで部屋へ上がろうとした所で、独歩の靴が乱雑に脱ぎ散らかしてあることに気づく。サラリーマンをしているせいなのか、何だかんだでマナーが身についているらしい独歩は、靴は比較的揃えて脱ぐことが多い。こんな風に、靴の先が左右で明後日の方向へ向いている事は、ない。
(何ですぐ発情期に入ったって言ってこねぇんだ、アイツは!)
 苛つきながら視線を動かすと、靴を脱いで上がったすぐの壁際に、鞄が落ちている。室内灯を点けて見れば、寝室へと続く廊下に点々と、スーツのジャケット、いつも提げている社員証の入ったカードケース、ネクタイに靴下、と落ちている。
 まるで、行く先を示すかのように。
「脱皮かよ」
 呆れながらも、左馬刻は大股で廊下を歩いて寝室に辿り着き、半開きになっていたドアを全開にし、明かりを点けた。
 だが、室内に独歩の姿がない。
「どこ行きやがった!?」
 別の部屋を探そうとした左馬刻は、視界の端で、ズボンのベルトが床に落ちている事を捉えた。そして、部屋の奥にあるウォークインクローゼットの扉が、半開きになっている事に気づいた。
 普段から、日の光が入らないようにクローゼットの扉は閉めて出かける。それは、衣装持ちの左馬刻のこだわりだった。
 まさか、と思い、クローゼットの扉を開いて明かりを点ければ、床に独歩が寝ていた。
 寝るならベッドで寝ろよ、と思いながら手を伸ばそうとして、気づいた。
「これ、巣作りか?」
 巣作りは、Ωからαへの求愛行動だと言われている。αの香りのする物を集め、アピールする行為だと。
 独歩は、クローゼット内にあった左馬刻の冬のジャケットを羽織り、冬物のボトムを抱きしめていた。それ以外にも、独歩の周りには、冬の間左馬刻が頻繁に着ていた服が散らばっている。
 宙に浮いたままになっていた手を伸ばし、ふわふわとした髪から汗の浮く額にかけて軽く触れて、そのまま手の甲で頬を叩いた。
「おい、起きろ。ベッド行くぞ」
 何度か軽く叩くと、ようやく瞼が押し開かれた。
「ん………………あお、ひつ、ぎ、さん?」
「起きたな?立てるか?」
 寝起きでぼんやりした瞳が、しばらく左馬刻を見ていたかと思うと、何度か瞬きして細められ、腕が伸びてきた。
「!?あっ、ぶね!おい!」
 伸ばされた独歩の腕が左馬刻の首の後ろへ回り、力強く引き寄せられたのだ。予想外の腕の強さに驚き、慌てて両手を床へつかなければ、独歩を押し潰していたかもしれない。
「………おかえりなさい、碧棺さん」
 耳元で小さく囁かれた言葉を聞いた左馬刻は、一気に体内の熱が上昇していくのを感じて、その衝動のまま独歩の腕を軽く払うと、左馬刻の服を羽織ったままの独歩の体を横抱きに抱え上げ、ベッドへ向かい、静かに下ろした。
 自宅で誰かが待っていて、出迎えてくれるのなど、どれくらいぶりだろうか。
 独歩のワイシャツのボタンを外しながら、頬や額、唇に軽くキスをし、額を合わせる。
「もう一回言え」
「もう一回?………おかえりなさい?」
「おう。ただいま」
 気の抜けた様な顔をしていた独歩が、左馬刻の返事を聞くと、心の底から幸せそうに微笑んだ。
(ああ、くそっ…どうすりゃこいつを大事に出来る?)
 優しく触りたい気持ちと、頭から食い尽くして腹の中へ収めたい気持ちが、左馬刻の中で渦巻く。暴力や言葉でねじ伏せ、支配する以外の方法で、独歩を手に入れたかった。
 けれど、それがすぐには分からなくて、結局左馬刻は、痛がるうなじから少し外して、独歩の首筋に強く噛みついた。







妹の合歓ちゃんが家を出て行った後。
左馬刻に「おかえり」を言ってくれる人はいなかったんじゃないか、と。
部下の野郎共の野太い声の「おかえり」は癒やされない気が(笑)
独歩が、左馬刻にとっての何てことない日常の一端を担えればいいな、と考えています。
大事にする、優しくする、の方法がいまいち分からない左馬刻が。
少しずつ独歩に対してそれを実践できればいいな、とも思っています。
うなじを外したのはそんな左馬刻の欲と優しさのぎりぎりのラインです。
何だかんだで一生いちゃついてればいい。




2024/12/14初出