煙草の煙が、室内に充満している。扉を開けて入って来た者が、一瞬はその煙に眉根を寄せるような量だ。だが、その煙を量産している本人は気にした様子もなく、短くなった煙草を、手元にある灰皿に押しつけた。そしてそのまま、滑るように次の一本を吸おうと言うのか、机上に置いてあった煙草ケースを手に取ると、中を見てくしゃりと丸めた。 「若頭」 小さく一つ咳払いをして男が呼べば、自分よりも若い上司が、丸めた煙草のソフトケースを、ゴミ箱へと投げ捨てた。 「あんだよ?」 「失礼を承知で言いますが、吸い過ぎかと」 「んなこたぁ分かってんだよ!」 苛立ちを表すように立ち上がると、自分が煙草ケースを捨てたゴミ箱を蹴る。勿論、ゴミ箱は倒れて中身は少しばかり零れた。 男は、溜息をつかないように近づいて、飛び出した幾つかのゴミを戻した。 半年程前、ヨコハマ・ディビジョン内で奇妙な薬が流行った。それは、麻薬とは違うと言う触れ込みで若い男女の間で売買され、それなりの量が流通した。だが、麻薬とは違っても、違法薬物に変わりない。しかも、製造し、流通させているのがヤクザだった。最初は静観していたが、どう言った経緯なのか、詳しい事情は知らないが、男の上司の逆鱗に触れる事になった。火貂組若頭である碧棺左馬刻の逆鱗に触れると言う事は、火貂組そのものを敵に回すと言う事と、ほぼ同義だ。しかも、火貂組は薬に関するシノギを一切禁じている。シマ内で、他所の組の薬のシノギを黙認したとあっては、火貂組の名が廃る。結果、製造工場及び流通経路を、一気に叩く事になった。その際、警察の手を借りることも多少はあったのだが、まあ、それなりに丸く収まったのだ。 しかし、その薬物が、どうも再び出回っているらしい、と言う話が出てきた。組員が実物を直に確認したわけではないが、火貂組と懇意にしている店の一部から、それらしい物を見かけた、と言う話が出てきたのだ。 前回、製造工場と流通経路は叩けたが、仕切っていた組織を潰せた訳ではなかった。相手は、元々ヨコハマに根を張った組織ではなく、関西以西で勢力を誇る組織のようで、そのせいか、事務所などがまだ見つからない。製造工場と販路を叩く事は出来ても、トカゲの尻尾切りで、末端の連中は何も知らない。工場で働いていた連中に聞くと、アルバイトで雇われたのだと言う。知らなくて当然だろう。指示を出していた連中はどこへ消えたのか、影も形もない。 薬の再流通が発覚してから、一月程。姿の見えない相手に、上司の苛立ちも理解出来るが、それにしても、この煙草の量は、いただけない。男は意を決し、ゴミ箱を所定の位置に戻して立ち上がった。 「若頭」 「今度は何だ?」 「その、番の方の所へ行かれては?」 「は?何だ、突然?」 「いえ、確か、番が側にいると落ち着く、と言う話をどこかで聞いたことがあるもので。煙草の量も少しは減るのでは?」 こんなにも毎日、一箱では収まらない量の煙草を吸っていては、いざマイクを握ってもラップが出来ないのでは、と男は心配した。 武器の使用が禁止されているこの国で、唯一正統に使える武器と言っても差し支えないのが、中王区の開発した特殊なマイクだ。左馬刻は、部下を置き去りにして単独行動することも多い。敵対勢力と相対する事になった際声が出ませんでした、では、何が起きるか分からない。煙草を控えて欲しいが、その代替案があるかと問われると、男にはその位しか思いつかなかったのだ。左馬刻の第二性がαであるのは周知の事実だったが、最近番が出来たというのは、組の中でも、両手で数えられる程の人数しか知らない事だった。 しばらくの沈黙の後、音を立てて椅子に腰掛けた左馬刻が、財布を取り出し、男の方へと投げて寄越した。 「いいや、この件が片付くまでは会わねぇ。悪ぃが、煙草買ってきてくれ、カートンで。ゆっくりでいいぞ」 言いながら、左馬刻がスマートフォンを取り出す。男は、我慢できずに溜息をつき、受け取った財布を持って、部屋の扉を開けた。 「よぉ。今いいか?」 左馬刻の声を背中で聞きながら、ゆっくりでいいと言う事は、時間を潰してこい、と言う事だと理解し、煙の充満した部屋を出た。 主役の同僚は頬を赤くしているが、足取りが危ういわけでもない。飲み足りない、と言う者達が十人程度集まって、二次会へ行くらしく、居酒屋前で次の店を検討している。 そんな輪から少し外れて、独歩は巻き込まれないように、帰ろうとしていた。 しかし、足を自宅方向へ向けようとした瞬間、携帯電話が鳴った。周囲に気づかれる前に出ようと、画面を確認せずに、通話ボタンを押した。 「はい」 『よぉ。今いいか?』 耳元から響いてきた低音に、独歩は慌てて一度、携帯電話を耳から離した。 (声!声が、近い!) 携帯電話だから当たり前なのだが、何ともこそばゆくて、体が反射的に反応したのだ。 『おい』 「あ、はい、すみません」 離した携帯電話から、怒りを込めた様な、更に低く発せられる声が響いてきて、急いで耳を近づける。 『何だ、外にいんのか?』 「ええ。ちょっと今、飲み会の後で」 「観音坂さ、っと、すみません、電話中?」 「あ、ちょっと待って下さい。はい?」 左馬刻に断りを入れて送話口を塞ぎ、振り返ると、先程の幹事の女性が立っていた。 「すみません。観音坂さん、二次会どうされますか?参加します?」 「あ〜俺は、遠慮しておきます」 「分かりました。じゃあ、月曜日に会社で」 「はい。お疲れ様です」 頭を下げて、女性が二次会へ行くグループの輪に戻っていく。無事に、店は決まったらしい。何人か足取りが危うそうだが、大丈夫なのだろうか、と思いつつ、独歩は帰り道へ足を向け、左馬刻との会話を再開した。 「すみません。お待たせしました」 『いいのかよ?参加しなくて?』 「元々、帰るつもりでしたから。明日も仕事なので、これ以上飲むのは、ちょっと」 『ふ〜ん。まあ、いいや。あんたに一つ、忠告しておこうと思ってな』 「忠告、ですか?」 『ああ。しばらく、ヨコハマには来ない方がいい』 「………何か、ありましたか?」 『ちっとゴタゴタしててな。片付く目処がたたねぇ』 左馬刻の職業は、理解している。だからこそ、今までそこには足を踏み入れないよう、関わらないようにしてきた。左馬刻も、独歩が関わることを喜ばなかったし、話もしようとはしなかった。しかし、あえてそれを言ってきたと言う事は、注意喚起をするべき状況にある、と言う事なのだろう。 「碧棺さんは、大丈夫なんですか?」 『俺様はな。ただ、しばらく騒がしくなりそうなんでな』 「そうですか。わかりました。あの」 『あんだよ?』 「気をつけて下さい」 独歩の言葉に、左馬刻が息を呑んだかのような音がし、笑うように息が吐き出された。 『はっ………あんたもな。じゃあな』 「はい。おやすみなさい」 電話だというのに、反射的に頭を下げて通話を切った独歩は、しばらく携帯電話の画面を眺めてから、二つ折りの電話を畳んだ。 通話を切ったスマートフォンの画面を暫く眺め、左馬刻は、椅子の背もたれへ頭を預けて、小さく舌打ちをした。 電話の向こうが、あまりにも“普通”で。 (引きずり込みたくねぇな、アイツ) 煙草を取り出そうとして、買いに行かせたのだったと、今度は溜息を吐き出した。 ![]() 独歩には左馬刻の声を好きでいて欲しいな、と。 そういう願望を反映させた形にしました。 後、特別ルビを振りませんでしたが。 若頭(かしら)と読んでください。 2022/12/17初出 |