仕事ではなく、患者として寂雷の元を訪れた独歩は、診察後、珍しく、深々とした寂雷の溜息を聞いた。 「独歩君」 「は、はい」 どこか、悪かったのだろうか?特別心身に不調をきたしているわけではなく、定期検診で訪れただけだったのだが、しかし、前回の定期検診を忘れてしまって、今日は申し訳なさと共に診察室へ足を運んだ事は事実で、もしかしなくても、予定していた診察へ時間通りに来ることも出来ないのかと、呆れられたのでは!?と、ぐるぐると独歩が考えている内に、机上のパソコン画面から視線を外した寂雷が椅子を回転させて、独歩の方へ向く。 「うなじの噛み痕なんですが」 「か、噛み痕?」 「あまりプライベートな事を聞くのもどうかと思うのですが、その、左馬刻君は、噛み癖でもあるんですか?」 「へ?」 一瞬、独歩は何を言われたのか分からず、ゆっくり、じっくり、言われた言葉を噛みしめて、慌ててうなじへ手を当てた。 「前回診察した時よりも、範囲が広くなっているのと、痕が深い、と言うか、痛くありませんか?」 αとΩが番になる際、αがΩのうなじを噛む行為が必要となる。噛む必要があるのは、番になるその一度だけで、番となってしまえば、噛む行為は不要となるのだが……… 「時折、そういった患者さんがいないわけではないんですが、あまり噛みすぎるのは、化膿する可能性も皆無ではないので」 番に対するαの執着は、強い。大なり小なり差はあれど、それは何かしらの形を持って表されることが多い。言葉か態度か、贈り物か、あるいは今の独歩のように、噛み痕で。 けれど、寂雷が見てきた患者の中でも、独歩程の噛み痕の深さと多さは、稀だ。噛む行為は番を得るために必須ではあるが、噛んだ事で満足するαも多いのだが……… そこまで考えて、ふと寂雷は気づいた。 「もしかすると」 「え?」 「これは仮説というよりも、私の想像でしかないので医学的根拠はないのですが………αは、確実に子孫を残すために、Ωを番にします。その理由の一つは、β性がαを生むことが出来ないからです。Ω性が生むのは、αかΩが多い。けれど独歩君は子供が産めませんから、その代償行為として、噛む行為がエスカレートしているのかもしれません。執着、と言うよりも、独占欲でしょうか」 独歩は、触れていたうなじから手を離し、視線を床へ落とした。 「子が生まれる事で、αは落ち着くことが多いんです。大抵のαは子孫を残すために、性欲が強い傾向がありますから」 左馬刻は、子供はいらないと言った。でもきっとそれは、独歩を安心させる為の方便だろう。子孫を欲しがらないαは、いない。 「すみません。軽率でした。不安にさせてしまいましたね」 「いいえ」 「まあ、単純に、これは俺のだぞ、と見せつけるための行為かもしれませんね」 先天的に生殖機能のないΩは、ほとんどいない。と言うよりも、寂雷も医者をしてからこちら、独歩が初めてなのだ。正直、分からない事が多い。想像がついたからと言って、簡単に言葉にすべきではなかったと反省しつつ、キーボードをうって処方箋を作った。 「処方箋を出しますから、薬局へ寄ってから帰って下さい」 「分かりました」 「独歩君」 「はい?」 「噛み痕は、αからΩへの求愛です。自分と一生を添い遂げてくれ、と言う。自信を持って下さいね」 「自信、ですか?」 「私が知る限りでも数人、左馬刻君はΩから番になって欲しいと言われているはずです。恐らく、その前後を含めれば相当数」 「モテるんですね、碧棺さん」 左馬刻は、強いαなのだろう。Ωであるのに、αのフェロモンに今まで気づいた事のない独歩にも、何となくそれは分かる。子供も産めない、番になった後でようやく左馬刻のフェロモンが何となく分かる、そんな程度のΩなのだと、自己嫌悪に陥る。 「その左馬刻君が、君を選んだんですよ」 「え?」 「彼の性格を考えれば、例えそれが本能で惹かれた相手でも、嫌ならば本能をねじ伏せてでも突っぱねるでしょう。彼は、意思が強いですから。けれど、彼は君を番にした。独歩君はもう少し、自信を持っていいんですよ」 「自信………持、てるように、頑張ります」 穏やかな寂雷の笑顔と言葉に、例え、それが気休めだったとしても嬉しくて、独歩は、軽く口角を上げたまま、診察室を出た。 独歩にヨコハマへ来るなと伝えた数日後、左馬刻は事務所で、部下からの報告を受けていた。相変わらず、手元には山となった煙草の吸い殻を乗せた灰皿がある。 「先日、連中の工場から引き上げた荷物は、やはり薬の原料でした。出本を調べてみたのですが、辿れませんでした」 「サツは?」 薬が本格的に再流通するのを防ぐべく、微かな情報から工場の在処を突き止め、一カ所潰すことに成功した。だが、やはり半年前と同様、働いていた連中は何も知らされていなかった。指示を出していた連中も、消えた。 火貂組と同じタイミングで、警察も少なからず動いている事は情報が入っているが、恐らく状況は、然程変わらないのだろう。 「向こうも同じですね。ただ、えーと、昨日ですか、シンジュク内にあった工場を一つ潰したという情報が入っています」 「シンジュク?」 「ええ。どうもヨコハマだけでなく、幾つか工場を点在させてるようで。ただ、今の所流通はヨコハマでだけの確認みたいですね」 「他の工場の場所は?」 「場所までは探れませんでした」 煙草を口に咥え、火を点ける。一吸いして煙を吐き出し、左馬刻は椅子の背もたれに預けていた背中を起こした。 「原料の出本を調べて徹底的に叩け」 「叩く、ですか?」 「原料がなけりゃ薬は作れねぇ。作れなくなれば尻尾を出すかもしれねぇだろ」 「わかりやした。すぐかかります」 部下が出て行ったのを確認して、スマートフォンを取り出す。ブラックアウトしたままの画面に、着信を知らせる表示は何もない。 徐々に短くなってきた煙草を灰皿の上で押しつぶし、火を消す。そろそろ、山になった吸い殻が崩れそうだった。 来るなと言ったのは左馬刻だ。が、連絡の一つ位はあるものだと思っていた。なのに、電話もなければメールもないのは、一体全体何でだ、とも思っている。 期待しているわけではない。ないが、それでも一応番なのだし、セフレ疑惑も払拭したはずだ。だが、よく考えてみると……… 「言ってねぇな」 恋人になってくれとか、付き合ってくれとか言う甘ったるい言葉を、左馬刻が口にしたことはない。独歩からは言わずもがな。 しかし、この半年で独歩の鈍さが天然記念物級だと言うことは、理解出来ている。はっきりと言葉で言わなければ、分からないのだろう。だが、どうしても、言わなくても分かるだろうが、と言う気持ちがある。 煙草を吸おうとケースを掴み、一本引き出そうとした時、スマートフォンが震えた。 部下から、シマ内の店で、薬のやりとりをしている現場を押さえたと言う連絡だった。 「クソがっ!」 後で報告に来い、とだけ連絡したのとほぼ同時に、再びスマートフォンが震える。 「今度は何だっ!」 ≪お疲れ様です。あまり無理はしないで下さい。おやすみなさい≫ 簡潔な文章だ。業務連絡のような。それでも、左馬刻の中で膨らんだイライラとした気持ちが、急速に萎んでいくのが分かった。 引き出そうとしていた煙草をケースの中へ戻し、手を離した。 ![]() 踏み込みすぎない寂雷先生。 先生には二人を見守るポジションにいて欲しい。 後、左馬刻が噛むのは単純に独占欲だと思う。 2023/1/29初出 |