自信、と言うものは、一朝一夕に身につくものではないし、自信になった、自信がついた、と思ってもその数秒後に、消えてなくなることもある。自信を継続させるのは難しいのだと、独歩は知っていた。 「送ってしまった………」 薬局で、処方箋通りの傷薬や大判の絆創膏などを受け取った後、公園のベンチに座って散々迷った挙げ句、どうにかこうにか左馬刻へ送ったメールを読み返して、独歩は頭を抱えていた。 (どう考えても業務連絡だろ、これ。何でもう少し気の利いた言葉とか、気遣う言葉とかを言えないんだ、俺は。しかも、もしかしたらまだ仕事中かもしれないし、お疲れ様のタイミングももう少し考えて………) まさか、その業務連絡染みたメールが、左馬刻の憤りを沈静化させていることなど知る由もない独歩は、送ってしまったメールの取り消しが出来ない事に、絶望を感じていた。 しかし、もう、どうしようもない。送り間違えましたと言うのもおかしいし、不審がられるだろう。反応があるかどうかは分からないが、なかったらなかったで、気にしなかったんだろうな、と思えばいいだろう。 そう結論づけて、よし、と気合いを入れて立ち上がり、携帯電話と共に、薬類の入った白いビニール袋を鞄の中へ突っ込んで持ち上げた時、どこからか、カメラのシャッター音のような、夜の街中ではあまり聞かない音を聞いたような気がした。 独歩のいる公園は、あまり大きくない。遊具も、滑り台とブランコがある程度で、砂場すらないのだ。ベンチも、独歩の座っていた一脚だけだ。他に、人は見当たらない。 公園の外、遠くにシンジュクの夜の街のネオンが輝いているのが見える。そうだ。ここはシンジュクだ。多少不自然な音が聞こえたとしても、不自然ではないこともある街だ。そう自分を納得させた独歩は、家のある方角へと、足を向けた。 まさか、自分を尾行している人物がいるとは気づかずに。 ヨコハマに置いていた工場が火貂組に潰され、シンジュクに置いていた工場が警察に潰され、怒りが頂点に達した上司は、昨晩酷く暴れた。何故置いてあるのか分からない事務所内の観葉植物を投げ、鉢を割る程度には。 そのせいで、男は逃げるように事務所を出てきた。あんなに怒り狂っている人間の側には、いられるものではない。幾ら仕事がうまくいかないとはいえ、物に当たるのはどうなのだろうか、と、ヤクザの下っ端をしているとは思えない程、男の思考は穏やかだった。 だが、外へ出てきたからと言って、することと言えば、上司の指示である“火貂組の弱み”を探る事だ。勿論、そんなものは簡単に見つかるものではないし、皆苦戦している。 その中で、一人、有益ではないかと思われる情報を得てきた男がいた。 組織の上層部や経営者と言う責任ある立場にいる者は、第二性がαである場合が多い。勿論、全員が全員そうではないし、βでもΩでも、優秀であればその地位にいる者はいるのだが、火貂組若頭の碧棺左馬刻がαであると言うのは、ヨコハマ界隈では、知る人ぞ知る噂、と言うより事実だったらしい。 その碧棺左馬刻に、番が出来たのではないか、と言う噂があるのだという。容姿に金回り、言動や振る舞いからファンは多く、チームを組んでラップバトルに参加している為、どうしたって目立つのだろう。最初に噂が出たのは、夜の女達の間だった。 曰く、声がかからなくなった、と。α性故なのか、女からも男からも慕われ、誘われればそれなりに相手もしていたらしい人物が、一切夜の街で遊ばなくなった。いや、遊びはするが、女達が誘っても、酒を飲んで終わるのだそうだ。 噂は噂を呼び、広がり、果ては勝手に番がどういう人物かを想像するに至っているらしいが、そこの真偽を見極めて、弱みになるようなら握らなければいけないのが、今の男の仕事だった。 (まさか、こいつがぁ?) 少し離れた場所を、ゆっくりと歩いて行く猫背の男。どこかで見たことがあるように思えたが、よくよく考えれば、ラップバトルに参加している上、頂点に立ったチームに所属している男だ。道理で見たことがある訳だ、と納得しつつも、病院から出てくる所を見つけて尾行しているが、Ωらしさがなく、不安が募っていく。 世間一般的に、Ωは中性的な容姿を持つ者が多い。華奢で小柄であることも多いと言われるが、前を行く男はそれなりの身長があるし、細くは見えるが、華奢には見えない。 (まあ、顔だって普通だよなぁ) 人の容姿をどうこう言える容姿を自分がしていないのは百も承知で、男はそう思った。 しかし、夜の街で働く、一人のΩの女からの密告もあった。 『碧棺左馬刻から匂いがしない』と言う。 αとΩは、お互いにフェロモンを出している。βの男には全く分からないが、そのフェロモンが匂いとして分かるのだと。匂いが分からなくなるのは、番を作ったからなのだろうと、そういうことだ。 αは番を作っても、フェロモンを発するとされているが、運命の番を得た場合は、その限りではないらしい。それだって、医学的に解明されている訳ではないし、一般的にそうされているというだけのことだが、男は、女の勘、と言うものはそれなりに信じていた。 (嫉妬に狂った女ってのは、怖いからなぁ) 軽く身震いをして、何度か男女の修羅場を見た経験のある男は、尾行している相手との開いてしまった距離を、小走りに詰めた。 持っていたスマートフォンのカメラを起動して、横顔を撮る。先程、公園で一度振り返られた時には少しびくついたが、シャッター音を消していなかったのが原因だった。今度はしっかりと消音して、撮影した。 シンジュクの街は明るい。おかげで、それなりの光度で撮影できている。 男が、自宅らしきマンションへと入っていく。ここまで追跡出来れば成果としては上々だろうと、建物の影に身を潜めて、撮影した写真の何枚かを確認した。 正面からだけはどうしても撮れなかったけれど(正面へ回り込む勇気はなかった)、枚数は稼いだからいいだろう、と何枚かの写真をピンチアウトしていて、気がついた。 (これ、もしかして、噛み痕か?) 髪で隠れたうなじの辺りに、傷のような、怪我のような痕が幾つも見受けられる。最初は影かと思ったが、そうではないらしい。 (こいつ、マジで大当たりなんじゃね?) この情報を持ってきた人間は、男の尾行なんて面白くない、と仕事を降りたのだ。今は別の人物を追っているが、どうせ空振りに終わるだろう、むしろ終われ、と思っている。 女の密告があったにしろ、番だとされる人物へ辿り着くには、それなりの苦労があったのだ。何せ、情報がない。火貂組のシマ内にある店の店員は口が堅いし、あるのは噂だけで、件の番を見たことがあるという人物は、一人もいなかったのだ。 だが、人の口に戸を立てるのは難しい。噂や話を聞いている内に、半年程前から時々見かける人物がいる、と言う話が出てきた。それが、見事に、碧棺左馬刻の夜遊びの仕方が変わった時期とぶつかったのだ。 これは、火貂組にとって、最大級の弱みになるのではないか。何と言っても、若頭のイロ、それもただのイロではない、番を見つけたのだから。 男は、浮かれた気持ちで、ヨコハマにある事務所へ戻るべく、駅へ向かった。 その頃、自宅のソファへと疲れた体を沈めるように座り込んだ独歩は、着信を知らせる音を響かせた携帯電話の画面を見て、再度頭を抱えていた。 何故なら、≪もうちょい色気のあるメール送ってこい≫と言う、左馬刻からの駄目出しが届いたからだ。 色気!?色気って何だ!?え?メールに色気って必要なのか?などと考え、左馬刻からの返事に対し、返信メールの作成ボタンを押してはみたものの、思考が停止し、独歩の動きはそこから中々進まなかった。 ![]() 色気のあるメールって何ですかね。 独歩は恐らく自分の噛み痕には無頓着です。 痛いな、とは思っていると思いますが、隠す気がない。 自分では見えないからそれでいい、みたいな感じです。 2023/2/25初出 |