花の金曜日。世間ではそう言うのだろう。けれど、独歩にとっては花でも何でもない。休めると思っていたはずの土曜日は、上司の無茶振りのおかげで見事に潰れた。結局、上司の機嫌が良かったのは飲み会の時だけ、その後は通常運転の無茶振り三昧、毎日毎日押しつけられるだけ仕事を押しつけて自分だけ帰りやがって、労働環境改善しろ!二週間ぶりの休みを返せ!と、悪態をつく気力すらなく、足取りは重い。今から自宅へ帰るのだって、シャワーを浴びて着替えるだけだ。せめて日曜日は泥に沈むように眠りたいから、何が何でも土曜日の内に仕事を終えようと決意した独歩の視界に、ようやくマンションの一部が見えてきた。 一日中外回りをしていたせいで、春先とは言え汗をかいている。本当はゆっくり湯船に浸かりたいが、そんな時間もないだろうし、湯船に浸かったら最後、気持ちよさでそのまま眠ってしまいそうで、怖い。風呂に入ったまま寝てお湯が冷めて風邪ひきました、なんて事になったら、笑うに笑えない。もれなく仕事にも影響が出るだろう。 溜息をつきつつ、エントランスで郵便ポストを開ける。流石にもうゴミは入っていなくて、安心して開けられることに感謝しつつ、入っていたDMを数通取り出した。 「すみません」 後から声をかけられて振り返ると、男が一人立っていた。染めてから大分経っているのか、根元が黒くなってきている、くすんだ金髪をした男だ。 「観音坂独歩さんですよね?」 「そうですけど、どちら様ですか?」 見知らぬ男だ。マンションの住人でも顔を見たことがない人間はいるが、何となくチンピラ感のある風体で、この場と空気感に似つかわしくなかった。 (何だろう………何か、嫌な予感がする) 嫌な予感、と言うものは当たりやすい。外れてくれ、と思うこと程、当たりやすかったりするものだ。 男が少し、にやついているからだろうか。立ち方や首の傾げ方が気に障るのだろうか?いや、そんなことではない………もっと、本能的な何か、第六感とでも言うような………そう思いながら、独歩は自然と半歩、片足を後へずらした。 すると、距離を詰めるように、男が一歩、前へ出た。 「悪いんですが、ちょっと付き合ってもらっていいですかね?」 いつの間に握られていたのか、男の手の中にあるナイフの切っ先が、独歩の脇腹に当てられていた。 相変わらず事務所の中には煙草の煙が充満し、その煙を自分で量産している事が分かっていても、左馬刻は喫煙を止めなかった。 薬の原料を止めた成果はまだ出てきていないが、シマ内の店には、薬の特徴などと、もしも見かけたら連絡をするように伝えたおかげか、流通そのものは沈静化しつつあった。だが、工場を何ヶ所も持っていた連中だ。どこでどう息を吹き返すか、分かったものではない。一番いいのは、取り仕切っている頭を潰す事だが、その頭の居場所が掴めない。恐らく、組織の一部分だけをヨコハマへ置いている程度の、出先機関でしかないのだろう。 「若頭」 「あン?」 左馬刻の前に、A4サイズの茶封筒が置かれる。表書きは、何もない。 「少し前にお話ししていた不動産の件です。何軒か好みに合いそうな場所をピックアップして貰ったので、気分転換にどうぞ」 封を開ければ、中からは、間取りや写真を掲載した不動産情報が出てきた。 薬の再流通の件が発覚するより少し前、今借りている部屋とは別に、もう一部屋借りる心づもりで、懇意にしている不動産屋に話を通しておいたのだが、ここ数日の慌ただしさで、左馬刻はすっかり忘れていた。 今、左馬刻は部屋を一室借りているが、職業柄や立場上、本当はもう一部屋か二部屋程借りたいと、常々考えていた。本腰を入れて探し始めたのは、独歩を番にしたからだ。 共に暮らしている訳でも、側にいるわけでもなく、取り巻きや護衛がいるわけでもない独歩の立場は、酷く危うい。知っている者はまだ少数で留まっているが、いつか、独歩が左馬刻の番であるという事実は、知られていくだろう。知られた時に、どうなるか。 “火貂組若頭の番”という単語が、左馬刻の、独歩の思惑を大きく超えた場所で、悪い方向へ一人歩きする可能性だって、ある。 そう考えた時、セカンドハウス、或いは、セーフハウスとでも呼べそうな、第二、第三の部屋があれば、金はかかるが、安全面は多少上がる筈だと、左馬刻は考えた。 一枚、二枚と紙を捲っていき、ふと視線を上げると、封筒を持ってきた部下の口元が、にやついていた。 「何笑ってやがんだ?」 「え?笑ってますか?」 「笑ってンだろうがよ」 「いや、その、番の方を、大事にしているんだなぁ、と」 「大事かどうかは知らねぇよ。ただ、こっちの世界に関わらせたくねぇだけだ」 「それです。その、関わらせたくないって言葉、今までの相手に使ったことないでしょう?」 部下の言う“今までの相手”が、恋人にも番にもなれなかった、ただの性欲処理相手を指しているのは、容易に分かった。それはそうだろう。長く続く特定の相手を作った事はなかったし、大抵の相手は、堅気の世界から半分転がり落ちそうな連中が多かった。その方が、後腐れがなかったからだ。 だが、独歩は違う。堅気で、番だ。 「チッ」 舌打ちをして、封筒の中へ用紙を戻し、封筒を引き出しへ仕舞い込んだ。こいつの前で見るのは癪に障る、と言う単純な理由だ。 と、机上にある左馬刻のスマートフォンが鳴った。短くなった煙草を灰皿へ押しつけて消し、部下が一歩下がったのを見て、スマートフォンを取って通話ボタンを押した。 「おう。何だ、珍し」 『碧棺左馬刻だな?』 一度耳を離し、液晶に表示されている名前を確認し、名前と全く違う声が響いてきた事に、左馬刻の眉間はみるみる険しくなった。 「誰だ、てめぇ?」 発した声と共に、立ち上がった左馬刻の纏う空気が一瞬で剣呑で物騒なものへと変わった事に気づいた部下は、更に一歩後退した。 聞こえて来るのは、野太い男の抑えたような笑い声。 『名乗る義理はねぇよ。用件は一つだ。俺らが捕まえたこいつと、あんたが俺らから奪ったモンを、交換してぇと思ってなぁ』 「交換だと?」 『心当たりあんだろ?最近、あんたが手に入れたモンだよ』 「例えあったとしても、どこの誰ともわからねぇ野郎にくれてやる理由はねぇよ!」 『おいおい。強気だなぁ。いいのかよ?あんたの返答次第で、この電話の持ち主は、幾らでも俺らの好きに出来るんだ。火貂組若頭の番なら、さぞかしモノがいいんだろうぜ』 「ふざけんじゃねぇ!一人残らずブッ殺す!」 『ははっ、怖ぇなぁ。まあいいさ。後で、交換場所を連絡する。その間、こいつが俺らのオモチャにならないことを祈るんだな』 ぶつり、と通話が切れた。腹の奥底から、沸々と湧き上がってくる怒りを抑えきれず、それでも何とかスマートフォンを投げ飛ばさなかったのは、通話終了の画面に表示されていた、独歩の名前を見たからだ。 「若頭、一体、何が?」 赤い瞳をぎらつかせた左馬刻の纏う怒りの空気が尋常ではなかったが、それでも、何か言葉をかけて状況を把握しなければ、と考えた部下は、声を振り絞った。 「………番が、ラチられた」 「っ!兵隊集めてきます」 怒りの籠もった左馬刻の低い声を聞き、弾かれたように部下が部屋を飛び出していく。 それを見送った左馬刻は、座っていた椅子を蹴り飛ばし、血が滲みそうな程拳を握りしめ、その拳を机に叩きつけた。 (傷一つでもつけてみろ!ぜってぇ殺す!) ![]() 左馬刻は、一度懐に入れたら滅茶苦茶大事にしそうだな、と。 お金も時間もしっかりかけてくれそうだよな、と。 ただし、独歩は鈍いのでそれに気づくまで時間がかかりそう。 2023/4/15初出 |