* 海よりも深く、溺れるように V 6 *


 ナイフを突きつけられたまま、独歩が促されたのは、白いワゴン車に乗ることだった。後部座席へ押し込められるように乗せられる間も、常に背中にナイフの切っ先が当てられていた。座った途端に、両手を後ろ手に縄で縛られ、布で目元を隠された。そのすぐ後、薬品のような匂いのする布を口元に当てられて、すぐに意識を失った。
 目が覚めた時には、冷たいコンクリートの上に放り出されていた。しかも、腕だけでなく、足も縛られて。目元の布だけは外されていたが、ここがどこで、今自分がどんな状態に置かれているのか、状況の把握が即座には出来ず、周囲に視線を向ける。
「目ぇ覚めたか?」
 突然降ってきた声に、独歩はコンクリートから頭を少し上げた。
 目の前に、髪型を刈り上げにした、茶髪の男が立っている。男は、独歩が持っていたはずの鞄を放り投げてきた。コンクリートの上で滑り、口が開いたままの鞄から、携帯電話や財布がこぼれ落ちそうだった。
「あんたの携帯電話、勝手に借りたぜ。まさか、今時ガラケーとか古すぎんだろ。使い方忘れてて焦ったぜ」
 馬鹿にするように男は笑い、起き上がらない独歩を見下ろしてくる。
「今なぁ、困ってんだよ。俺らの仕事に、火貂組が横やりを入れて来やがってな」
 未だ状況の把握が出来ていない独歩の、困惑や動揺などどうでもいいとばかりに、男は唐突に話し出す。
「薬が御法度だとか言う大層な流儀を持ってるらしいが、んなこたぁ俺らに関係ないわけだ。俺らは俺らの流儀で仕事をする。だってのに、奴らは、俺らの商売道具を掻っ攫いやがった。シマを荒らしたわけでもねぇのに」
 左馬刻はヤクザだ。けれど、その仕事内容が何なのか、独歩は聞いたこともない。何となく想像で、それらしい仕事をしているのだろうな、とは思っていた。薬が御法度なヤクザもいるんだ、と、今初めて知った位だ。
 そう。独歩は何も知らない。それでも、知らなくても、左馬刻が部下を、チームの仲間を、家族を大事にしている事は、分かる。その大事にしている部分にきっと、縄張りなども含まれるのだろうし、その場所で生活している人々も、含まれるのだろう。ならば、シマを荒らされてはいなくとも、それに近しい事が起これば、左馬刻は動くはずだ。
 それを、目の前の男は横やりを入れられたと言う。それは、そうされるだけの何かを、男の所属する組織か男が、火貂組のシマ内でしでかしたという事に違いない。
「俺はな、火貂組に盗られた商売道具を取り返したい。そこで、あんただ」
「俺?」
「あんたはな、火貂組に盗られた商売道具を取り戻すための、人質だ。碧棺左馬刻をおびき寄せる、餌なんだよ」
 人質だと、餌だと明確に言葉にされて、自分が今、この上なく左馬刻の足枷になっていることを、独歩は自覚した。
 左馬刻は、優しいのだ。人から見てどうなのかは知らない。ただ、独歩から見た時に、乱暴な口調やぶっきらぼうな態度が、一見そうとは分からないだけで、根底に優しさが潜んでいることは、よく分かる。態度が態度だから、わかりにくいだけだ。
「俺なんかのために、あの人が動くもんか」
 だから独歩は、精一杯の強がりを示した。どこかで、通用しない事が分かっていても。
「いいや、動くね」
 男は独歩に近づくと、無造作に髪を鷲掴みにして、顔を床から上げさせた。
「あんた、あいつの番だろ?うなじの噛み痕は確認した」
「俺の番かどうかなんてわかるわけ、っ!」
 鷲掴みにされた髪を、更に強く引かれて、喉が仰け反った。
 うなじの噛み痕は、所詮、Ωであることの確認と、番がいるかどうかの確認程度でしかない。その噛み痕をつけたのが誰なのかまでは、他人に推し量ることなど出来はしない。
 けれど、男には何か確信があるのか、口角を歪めて笑った。
「分かるさ。あんたのことは、それなりにヨコハマじゃあ噂になってた。知らないのは自分達だけだろ?それにな、あの野郎は、あんたに何かあったら俺らを殺すとさ」
 大事にされてんなぁ、と、半ば馬鹿にするかのように笑いながら男が言い、髪を掴んでいた手を離すと、自然と支えを失った頭が床へと落ち、コンクリートの冷たさに、身震いをする。
「にしても、あんた本当にΩか?」
「え?」
「別に綺麗なわけでも可愛いわけでもない、どこにでもいそうなオッサンじゃねぇか。むしろくたびれてるっつーか。碧棺左馬刻は、どこがよくてあんたなんかを番にしたんだ?」
(そんなこと、俺が一番知りたい………)
 自信を持てと、寂雷には言われた。でも、こんなにも簡単に、何の関係もない赤の他人からの軽い言葉で自信は失われるし、繰り返し、本当に自分が左馬刻の番でいいのかと、考えあぐねる。
 きっと、左馬刻にはもっと良い相手がいるだろう。綺麗で、可愛くて、仕事も家事も確り出来て、左馬刻を支えられるような人が。こんなにも簡単に左馬刻の足を引っ張る自分が、側にいていいのだろうか、と。
(ダメだ。ダメだダメだダメだ!今はそんな事考えてる場合じゃない!この状況を何とかすべきだろ!足を引っ張って迷惑かけてばかりでどうするんだよ!)
 人質だという事は、簡単に殺されるような事はないだろう。ならば、何とか自力でここから逃げ出す手段を考えなくてはならない。とは言っても、今目の前にいる男一人が、独歩を見張る相手だという訳でもなさそうで、相手の人数が分からない。きっと、独歩が乗せられた車にだって、乗っていたのは一人や二人ではなかったのだろう。
「ああ、あれか。顔じゃなくて体か」
「………………は?」
「まあ、野郎が来るまで時間はあるしな。無傷で返すとは一言も言ってねぇし、それまでてめぇで遊ぶか」
 男が振り返りながら、おい、と誰かに声をかける。扉の開く音がして、くすんだ金髪の男が現れた。独歩に、ナイフを突きつけた男だ。刈り上げ茶髪男と比べると、全体的に細くて貧相だ。その時初めて、独歩は自分のいる場所が、広い空間なのだと気がついた。
 天井は、一般的なビルと変わらない高さだが、ガランとした空間は、所々床材が剥がされていて、独歩が寝かされているのは、まさにその床材が剥がされてコンクリートが剥き出しになった部分で、隅の方に剥がされた床材が積み上げられている。他にも、運び出すのを忘れたのか、それとも途中なのか、原型の分からない廃材の様な物が転がっている。
(せめて、この拘束が解ければ………)
 後ろ手に縛られている手首に、縄っぽい感触がある。手首を動かしても、腕を動かしても、結び目が何処にあるかが分からない。恐らく、見えないけれど、足首も同じように縄で縛られているはずだ。
 指示を出されたらしい金髪男が、一度部屋を出て行く。刈り上げ茶髪男は、ポケットの中から、透明な袋を取りだして、独歩の前で軽く振って見せた。
「火貂組若頭が熱を上げるΩの体がどんなもんか、確かめさせて貰おうか」
「何を、言って………」
「あんたΩだろ?わかんねぇかな?まあ、わかんなくてもいいわ。Ωを発情させる方法なんざ、幾らもあるからな」
 扉を開けて、金髪男が水の入ったペットボトルを何本か持って入ってきた。その一本を刈り上げ茶髪男に渡し、何事かを囁くと、受け取った男は、にやりと笑った。
「火貂組に動きがあった。碧棺左馬刻が組事務所を出て、こっちに向かってる」
(何で…どうしてそうなるんだよ!俺の事なんか放っとけよ!後回しでいいだろ!俺のせいで碧棺さんに何かあったら、そっちの方が立ち直れなくなる………)
 男の腕が伸びてきて独歩の胸倉を掴むと、顔を上げさせた。
「っつーわけで、こっちはこっちで楽しもうぜ、オッサン」
 男は、持っていた透明の袋の中から、錠剤と思しき物を摘まんで取りだした。







独歩はリーマンだし体力なさそうだな。
と言う所から、喧嘩は弱そうだと思っています。
ハマの面子と比べたら確実に弱いと思う(苦笑)






2023/6/17初出