一度だけ、独歩に聞いたことがある。 『あんた、俺の仕事の中身聞かねぇよな?』 と。それを聞いた独歩は、一瞬不思議そうな顔をして、少し困ったように笑った。 『聞いていい話なら聞きますけど、言えない話もあるでしょう?俺だって仕事上の守秘義務的な事はあるし。だから、別に聞かなくてもいいかなぁ、って。怪我しそうな事さえしなければ、いいんじゃないですかね?』 それを聞いた時、根拠も何もなく、(ああ、やっぱりこいつだな)と思ったのだ。 銜えていた煙草が短くなり、灰皿へ押しつけて火を消すのと、車がゆっくりと減速し、停車したのが同時だった。 「若頭、着きやした」 「おう」 左馬刻が扉を開けようとするより先に、舎弟の一人が外から扉を開ける。 「おめぇらはここで待て」 「しかし」 「向こうさんは、一人で来いって指名してきたからな。おめぇらは、保険で持ってきた荷物を守っとけ。盗られんなよ?」 「うっす!」 人通りのないひっそりとした街中、区画整理で解体予定のビルが、何棟か建っている。工事用の白いバリケードで区切られており、夜中に人の出入りなどない場所だ。 通話が切れた後、十分と経たない内にメールが届き、この場所を指定してきたのだ。ご丁寧に、気を失っているらしい独歩の写真を添えて。 人目につくのを避けるには、いい場所だ。 力を加えてバリケードの一枚をどけて中へ入ると、解体が始まっていないビルの入り口前に、チンピラよろしく腰を下ろしている男が、五人いた。 下卑た笑いのようなものを張り付かせて立ち上がった内の、一人の男の腹部へと、有無を言わさず左馬刻は拳を叩き込んだ。 錠剤を摘まんだ男の手が口元に伸びてきたので、独歩は思い切り噛みついた。 明らかに怪しいと思われる薬を、そんな簡単に飲み込んでたまるものか、と思ったからだ。だが、そうして噛みついた後に襲ってきたのは、強烈な痛みだった。 「やってくれるじゃねぇか」 男が、容赦なく独歩の左頬を拳で殴ったのだ。殴られた反動で上体が倒れ、独歩の体はすぐ側にあった鞄の上に乗り上げる形になった。その衝撃で、何かがぐしゃりと潰れる音がしたが、気にかけている余裕はなかった。 何故なら、男がズボンのポケットから、折りたたみ式のナイフを取り出したからだ。 「威勢のいい奴は嫌いじゃねぇが、この状況でよく逆らえんな、あんた」 折り畳まれていたナイフの刃を出し、その切っ先を、独歩の殴られた頬へ当てる。 「安心しな。殺しはしねぇよ。殺したら人質の意味がねぇからな。まあでも、傷が一つ二つ出来たって構わねぇってことだろ?な?」 男は、ナイフの刃先を移動させると、独歩のワイシャツの、だらしなく開けられた襟元から真っ直ぐに、ナイフを下ろした。 ボタンが全て弾け飛び、露わになった肌の上を、ゆっくりとナイフの刃先が滑り、臍の辺りから鎖骨までを移動したかと思うと、その切っ先が、首に掛かっていた物に引っかかり、そして、弾くように、切った。 左馬刻から、初めて貰った物だ。一度は返そうとしたけれど、嬉しくなかったわけがない。それが、切れて、壊れて、床に落ちた。 「………………な」 「あ?何だよ?」 「ふざけんな!」 怒りが膨れ上がった独歩は叫び、手に掴んだ物のスイッチを入れた。すると、即座に頭上にスピーカーが現れる。それを見た男は、独歩から距離を取るように一歩、下がった。 鞄の上に乗ってしまった時に、手を突っ込んでマイクを探していたのだ。基本的に持ち歩いているし、掴んでスイッチさえ入れてしまえば、形は普段から使い慣れている携帯電話型だ。肩と顔で挟めば、手で握らなくても何とかなる、と思ったからだ。 「そうか、てめぇ、シンジュクの………歌わせるかよ!」 「うるせぇ!」 スイッチを入れたマイクを床に置き、独歩はありったけの声でマイクに向けて叫んだ。歌う必要はない。まずは、音量で相手を怯ませて隙を作らなければ、どうにもならない。 案の定、男は両耳を手で押さえるようにして、更に数歩下がった。部屋の入り口付近でぼうっと立っていた金髪男も、両耳を押さえている。 その、金髪男の後ろの扉が開き、人が入って来たかと思うと、間髪入れずに金髪男は殴られて、床に昏倒した。その音に驚いた刈り上げ茶髪男が振り返るのと、入室してきた人物が振り上げた拳が男の懐に入り、くの字に曲げられた体の頭上から更にもう一発拳が見舞われ、床に倒れかかった男の体を、長い足が蹴り飛ばした。 「クソ共がっ!」 悪態をついた左馬刻が、転がった男の方へ唾を吐き出して振り返った。その顔を見て、独歩は転がったまま、慌てた。 「あ、あ、あお、碧棺さん、か、顔!」 左馬刻の綺麗な顔が、左頬が、赤くなっている。ぱっと見て、殴られたのだろうと分かる痕だ。 「あぁ?一発食らっただけだ。んなことよりマイクのスイッチ切れよ」 左馬刻に言われ、独歩は慌ててマイクのスイッチを切った。スピーカーが消えていく。 左馬刻は、自身の傷をそれ程気にした風でもなく、独歩の前にしゃがみ込むと、スマートフォンを取り出した。 「おう。俺だ。表の連中縛っとけ。裏口にもいるようなら始末して、銃兎に連絡しとけ。ここの後始末させっからな」 言うだけ言って通話を切った左馬刻が、スマートフォンを仕舞いながら、反対の手で独歩の顔に、手を伸ばした。 「腫れてんじゃねぇか」 「え?あ、いやぁ、殴られまして」 噛みついたから殴られた、とは何となく言えず、へらりと笑ってしまう。 独歩の言葉を聞いた左馬刻の眉が、何となく動いた気がしたが、無言で立ち上がった左馬刻は、床へ転がる独歩の背後へ回った。 「がっちり縛ってやがる」 舌打ちした左馬刻が、独歩の手首を縛る縄を解き、次いで、足首を縛る縄も解いた。 ようやく手足が自由になった独歩は、肘をついて上半身を起こし、ほうっ、と息を吐いて、縛られていた手首を摩りながら立ち上がろうとすると、左馬刻に左手を掴まれた。 「おい、これ」 「え?ああ、無理に縄を外そうとしたので」 捲れた袖口から覗く手首に、赤く擦った痕があった。無理に外そうともがいたせいで、皮膚が擦れたのだろう。 「たいしたことないですから」 多少ヒリつく程度で、痛みはどちらかというと、殴られた頬の方が強いのだ。 「じゃあ、これはどうした?」 左馬刻の手が、ボタンを失ったワイシャツの襟に触れる。ナイフで裂かれたのだと説明すると、左馬刻の眉間に皺が寄っていく。 けれど、独歩は床の上に落ちたネックレスの方が気がかりで、そちらへ手を伸ばした。 繋ぎ目ではない部分で切れてしまったネックレスは、直るのだろうか。嬉しかった気持ちと、大事にしたいと言う気持ちも一緒に壊された気がして、左馬刻の目を見ることが出来なかった。 「あのなぁ、あんた」 「若頭!無事ですか!?」 男が一人、飛び込んできた。何か言おうとしたらしい左馬刻が、口を噤んで立ち上がるのにつられるように、独歩も立ち上がった。 「表と裏にいた連中は全員この後サツに渡します。入間さんにも連絡つきました」 「そうか」 左馬刻が独歩へ背中を向けて、煙草を取り出して口に咥え、火をつけた。 そうだ、押し潰してしまった鞄を拾わなければ、と視線を動かした独歩の視界に、ゆらりと立ち上がる人の姿が入った。 殴られて気を失っていたはずの刈り上げ茶髪男が、ナイフを振りかぶっていた。 ![]() 独歩は左馬刻の仕事に興味がないわけじゃなく。 大人なので、足を踏み入れていいかどうかを。 しっかりはかれているんだろうな、と思います。 程よい距離感は大切です。 2023/7/22初出 |