* 海よりも深く、溺れるように V 8 *


 そこからは、まるでスローモーションのように、独歩の視界には映った。
 左馬刻の左手が、火の点いた煙草を摘まんで軽く振っている。煙草の灰が落ちるのと、左馬刻の正面にいる部下らしき人物が、驚いたように目を見開くのが同時だった。
 ああ、助けないと………そう考えた独歩の体は自然と動き、男の振りかぶったナイフが振り下ろされるより先に、目の前にある左馬刻の背中を、力一杯、突き飛ばしていた。
 ゆったりとした時間の経過の中で、銀色のナイフの刃が、自分の手を傷つけていくところが、しっかりと見えた。
「いっ、つぅ」
 自分の声で、スローモーションの様に見えていた独歩の世界は、通常の速度に戻った。
 突然の衝撃によろけた左馬刻が、部下の肩を掴んで留まり、振り返った。
 殴って気絶させたはずの男が、いつの間にか立ち上がって背後にいた。しかも、その手にはナイフが握られている。
 痛みを堪えるような独歩の小さな声と、左手の甲から流れる血。その血を見た瞬間、怒髪天を衝いた左馬刻は、持っていた煙草を男の額へ押しつけ、足払いをかけて男を転ばせると馬乗りになり、容赦なく目の前にある顔面を、殴りつけた。
「大丈夫ですか!?」
「だ、大丈夫、です、けど、痛い………」
 左馬刻の部下が、慌てたように独歩の傷を見てポケットの中を探り、叫んだ。
「血止めを………ハンカチとか持ってねぇ!」
 ハンカチを持ち歩くヤクザなんて何か嫌だなぁ、と思いながら独歩は、ズボンのポケットから、帰宅する際に外して突っ込んだままだったネクタイを取り出した。
「あの、すいません。これ、巻いて貰っていいですか?」
 ネクタイを受け取った左馬刻の部下が、傷を中心にネクタイを巻き、きつく縛ってくれて、とりあえずは血止めの代わりになった。
 だが、そのすぐ側で、左馬刻はずっと、独歩を傷つけた男を殴り続けていた。もう、男は握っていたナイフを持つ力もないのか、その手からナイフは落ちている。
「若頭!止まって下さい!殺したら話が聞けなくなります!」
 部下の制止の声も届かないのか、男の瞼も頬も腫れ上がり、顔の輪郭が崩れてきているにもかかわらず、左馬刻の手は止まらない。
 ―誰のモンを傷つけたと思ってる?傷つけていいと思ってんのか?ふざけんなよ。ぶっ殺してやる………そう思って降り続ける拳は到底、止まらなかった。
 それを止めたのは、予想外の方向から落ちてきた重い拳だった。
「なっ………何しやがんだ!」
 ナイフを握っていた男を殴り続けていた左馬刻の手が止まり、振り返って威嚇するように声を荒げたが、左馬刻の頭上へ拳を落とした張本人は、傷つけられたはずの独歩で、左馬刻に負けじと、声を荒げた。
「いい加減にしろ!殺人犯にでもなる気かあんた!」
「………あ?」
「それにっ!心配して来てくれた部下に迷惑をかけるなっ!こんなのはかすり傷だ!」
「えぇ〜」
 左馬刻の部下が、間違ってないけど間違ってそうな独歩の言葉に口を挟んだ。けれど、それで独歩の口が止まることはなかった。
「大体、何でもかんでも拳で解決しようとするな!殴りゃいいってもんじゃない!蹴ればいいってもんじゃないんだよ!馬鹿野郎っ!」
 今正に殴ったのは貴方ですけど、と思ったが、部下は口を挟むのを止めた。
「馬鹿野郎だぁ?」
 馬鹿野郎と言われた左馬刻が、殴られ続けて気を失った男から手を離して立ち上がり、独歩の右手を掴んだ。
 その時、ようやく独歩は、自分が口を滑らせたことに気づいた。
「俺様に怒鳴りつけるたぁ、ホントいい度胸してんなぁ、あんた」
「え?や、あの、何て言うか、今のは、言葉の綾って言うか、え〜と、そのぉ」
 どう言葉を濁そうかと考えている独歩の前に左馬刻がしゃがんだかと思うと、突然独歩の膝裏に手を回し、肩へと担ぎ上げた。
「うぉわっ!」
「おい、車一台借りるぞ。後の始末はてめぇに任せる。一人も逃がすな。後、ブツは銃兎に渡しとけ」
「うっす!」
「ちょっ、ちょっと、碧棺さん!」
「黙ってろ!家着くまで口開くんじゃねぇ!」
「や、でも、待って!俺の鞄!マイク!」
 遠くに転がっている鞄とマイクを取り戻したかったが、左馬刻の部下がそれを拾い上げるより先に、左馬刻が歩き出した。
「それに、ネックレスも!」
 左馬刻を助ける為に突き飛ばした際、手を広げたせいで、握っていたネックレスを落としたのだ。拾うタイミングなど、どこにもなかった。
 ネックレス、と言う単語に反応した左馬刻は一度立ち止まったが、すぐに歩き出してしまった。
「黙ってろっつってんだろ!」
「いやいやいや、家行くならちゃんと着いていくんで降ろして欲し」
「黙れ!」
 左馬刻の剣幕に、肩へ担がれた独歩は足をばたつかせるのを止め、口を閉じた。
 その様子を遠くから眺めていた部下は、独歩の物と思われる鞄とマイクを拾い、独歩の手から落ちたネックレスを拾って、事務所できっちり保管しておこう、と思った。


 何となく黴臭い様に感じた建物の中から外へ出ると、初春の夜の空気は肌寒かったが、それでも解放された気分になって、独歩は一つ、深呼吸をした。
 だが、すぐに自分が左馬刻の肩に担がれていることを思い出し、人の目のある場所でこんな姿を見られるのは、と周囲に視線を向けると、黒い高級車が何台も止まっているし、その周囲にはどう見ても堅気とは思えない雰囲気の方々が居並んでいるし、何事が起きているのかと、まさか、自分が攫われた事が、左馬刻の部下を全員巻き込む程の大事になっていた事など知る由もない独歩は、状況が飲み込めずに、けれど左馬刻に声をかけることも出来ず、担がれているしかなかった。
「若頭」
「車一台寄越せ。鍵」
「どうぞ」
 駆け寄ってきた男が一人、左馬刻の短い言葉に鍵を差し出し、運転席の扉を開けようとするが、左馬刻は後部座席を開けるように言い、開かれた扉から独歩を押し込めた。
「あ………!」
 名前を呼ぼうとして一文字発しただけで、左馬刻に睨まれてしまい、仕方なく座席に収まる。
 鍵を受け取った左馬刻が何事かを男に指示していたが、小さい声をよく聞き取れず、すぐに左馬刻が運転席に乗り込んで、エンジンをかけた。
 なめらかに滑り出した車を、居並ぶ男達が頭を下げて見送っている。(こ、怖い………)という感想しか出てこない独歩は、無言のまま車を走らせる左馬刻の後ろ姿を、後部座席から眺めた。
 左馬刻は、怒りを間髪入れずに表すことが多い。言葉を発さずに、腹の奥で怒りを沸騰させているような姿は、あまり見ない。だからこそ、車内に満ちる沈黙が怖かった。
 攫われた上に、助けに来てくれた左馬刻を殴ったのだ。頭にきても当然だろう。迷惑をかけてしまったのだから、まずは謝らなくては………いや、でも、そもそも何で俺攫われたんだ?ああ、何かと交換したいって言っていたな、あの男………等と、こうなった原因を熟々と考える。いや、考えることしか出来なかった。沈黙から逃避するために。
 じわじわと、傷口に巻いたネクタイに赤黒い血が染みていく。それに伴って、段々と痛みも増しているような気分になって、自然と血に濡れていない部分を、撫で摩っていた。
 ぼんやりと、視線を自分の膝の辺りに落とし、ゆっくりと傷のある手を撫で摩る独歩の姿を、左馬刻はバックミラー越しに、時折眺めていた。







独歩は案外口滑らせそうだよな、と思ってます。
でも、左馬刻を叱れそうだな、とも思っています。
必要な時にはきちんと怒れる人だろうな、と。





2023/8/26初出