鍵を開ける音が、沈黙の中で響く。とっぷりと夜も更けた時刻、マンションの中に物音などなかった。 マンションに到着するなり、左馬刻が独歩の腕を引いて連れて行ったのは自室の風呂場で、服を着たままの独歩を洗い場へと立たせると、左手の傷の、血止めの為に巻き付けて汚れたネクタイを外した。傷口はそれ程深くなさそうだったが、それでもまだ、流れ出る血は止まっていない。 暫く、左手甲の傷口を見ていた左馬刻は、おもむろにシャワーを掴み、湯のスイッチを入れて出した水を、傷口へと当てた。 「つめたっ!いし、痛いっ!いきなりっ」 「いいから黙って当ててろ」 切り傷は、まず水で流す。左馬刻としてはその手順を踏んでいるに過ぎない。例え、やり方が少し強引だとしても。 だが、独歩にしてみれば、突然抱え上げられて黙っていろとまで言われ、車に押し込まれたかと思えば、到着した左馬刻の家で突然シャワーの水をかけられて………正直、一連の流れが意味不明なのだ。 「な………何なんだ、さっきから!」 じくじくと痛んでいた傷口の痛みが増していく事に耐えきれなくなった独歩は、流石に頭にきて、水から湯へ切り替わったシャワーから左手をどかし、右手でシャワーヘッドを弾いて、左馬刻を睨みつけた。 「そりゃ、簡単に捕まって迷惑かけて足手纏いになったかもしれないけど、来てくれたからお礼言おうと思ってたのに言うタイミングわかんなくなるし、と思ったら何か凄い怒ってるし怒らせるようなことした覚えないし、いや、殴ったのと馬鹿って言ったのは悪いけど、でも、むしろ俺被害者で何に巻き込まれたのかとか全然わかんなくて、怒りたいのはこっちだ!言いたいことがあるならはっきり言え!無言で怒るな!」 息を継ぐ間もなく捲し立てた独歩の声は風呂場に反響し、数秒の、沈黙が流れた。 と、突然、左馬刻がシャワーヘッドを床へと叩きつけた。壊れる事はなかったが、勢いでホースが床を滑り、湯を明後日の方向へと流し続けている。 音に驚いて、一瞬肩を竦めた独歩が見た左馬刻の顔は、怒りと悔しさを綯い交ぜにしたような表情で、次の瞬間、左馬刻が怒りを爆発させるように、声を荒げた。 「あんたは、そこがずれてんだよ!」 「そ、こ?とは?」 「冬もそうだったけどな、迷惑だとか、足手纏いだとか思ってることが間違ってんだよ!へらへら笑いやがって。人の顔の傷心配する前に、てめぇの心配しろや!ラチられて縛られて、俺が間に合わなかったらどうするつもりだった!?一人で何とか出来る状況でも、笑って済ませる状況でもねぇんだよ!挙げ句迷惑だと?心配の間違いだ!ボケ!」 「え?心配、してくれたんですか?」 心底意外だとでも言うように、独歩が眼を丸くする。その反応に、左馬刻は更に苛立ちを募らせ、力任せに風呂場の壁を殴る。 「俺を何だと思ってる!?番がラチられて心配一つしないクズだと思ってんのか!?」 「そんなつもりじゃ」 「俺様が行くまで大人しくしてろよ。ああ、それともあれか?ヤクザは信用出来ねぇか?」 「そんなことないっ!」 「だったら待てよ!見てみろ、この腕!」 左馬刻が、独歩の左手を掴んで、わざと手首を擦る。無理に縄を解こうともがいたせいで、血を滲ませた部分だった。 「痛っ!痛いから、離して下さい」 擦られたことで痛みが増し、独歩は手を引こうとするが、左馬刻が離さない。 へらへらといつもと変わらずに笑い、まず左馬刻の殴られた顔を心配した独歩に、怒りを覚えた。眠らされ、拘束され、頬は殴られた。左馬刻が間に合っていなければ連中がどうするつもりだったのかは、よく分かる。連中は、独歩をΩだと知っていた。どこからどう知られたかは分からないが、左馬刻と頻繁に共にいる事を知り、独歩のうなじにある噛み痕に気がついていたのならば、どう扱えば尊厳を踏みにじることが出来るかは明白だ。 怒りの何割かは独歩へ向かっているが、それ以上に、自分へ向けている割合が多い。 巻き込んだ、と言う事実だ。もっと早く、確実に連中を処理していれば、独歩が巻き込まれることは多分、なかっただろう。 「クソがっ」 この“普通”を、自分の都合でこちら側へ引きずり込みたくはない。一歩離れた場所で笑っている方が、良かった。 掴んでいる細い手首が、赤い。こんな怪我を負わせるつもりなど、毛頭なかった。 「碧棺さん!?」 一歩前へ出た左馬刻が、掴んでいた手首の擦過傷を、舐めた。 縄で擦った、手首をほぼ一巡りする赤い痕を、左馬刻の赤い舌が撫でていく。水を当てられた手の甲の傷にも舌が這わされ、流れ出ていた血を、舐め取られた。 独歩は手を引こうとしたが、先に掴んだ左手が終わると、左馬刻を止めようと宙に浮いた右手も掴まれて、同じように手首回りの擦過傷を舐められた。 「他は?」 「へ?他?」 「他に怪我はねぇのか、って聞いてんだよ」 「な、ない。ないです。大丈夫」 傷を舐められて痛いはずなのに、舐められた場所から熱が全身に広がっていくようで、独歩は左馬刻の手を振り払おうとした。けれど、その前に左馬刻の手が離れ、更に一歩前へ出ると、独歩を完全に壁まで追い詰め、一度離した手で、独歩の顎を鷲掴みにした。 「口開けろ」 「何で?!嫌ですよ!」 「殴られてただろ」 「もう痛くないし、平気で」 「いいから開けろ。傷がねぇか確認するだけだ。それとも、開けるまで顔にシャワーかけ続けるか?」 左馬刻の視線が、床に投げ出されてお湯を出しっ放しのシャワーヘッドへ向けられて、独歩は、シャワーを当てられるよりは、と小さく口を開いた。そこへ、左馬刻の右人差し指と親指が遠慮なしに突っ込まれ、無理矢理縦に大きく口を開かせたかと思うと、そのまま頬の内側を、確認するように撫でていく。 「おい。切れてんじゃねぇか」 左馬刻が眉根を寄せて舌打ちし、左頬から右頬の内側を撫でて行く。傷の確認ならもう終わりか、と思った独歩の期待は裏切られ、歯茎や舌まで触られる。閉じたいのに閉じられない口の端から、自然と唾液が零れた。 (だめだ………立ってられない………) いつの間にか上向くように開けていた口から左馬刻の指が引き抜かれると、ゆっくりと壁に沿ってずり落ちた体は、完全に床へと座る形になってしまった。 じわじわと、床へ流れっぱなしのシャワーのお湯が、ズボンの中へと染み入ってくる。それが嫌で、どうにか立ち上がろうとした独歩の前に、左馬刻が膝をついてしゃがんだ。 「次は足か」 「へっ?」 左馬刻は、中腰になりかけていた独歩の右足を掴むと、靴下を脱がせてしまう。 「待って!そこは何にもされてない!」 「あぁ?縛られてただろうが」 縄を解いたのは左馬刻だ。それなりの強さで縛られていたことは分かっている。靴下を履いていたから怪我をしていない、とは限らない。右足首を撫で、次に左足を掴んで靴下を脱がせて、同じように足首を撫でる。怪我も傷も、なさそうだった。 けれど、攫われた際に怪我をさせられていないとも限らない。左馬刻は、足首の検分を終えると、独歩の裂かれたワイシャツを脱がせようと手をかけたのだが、独歩がその手を掴んで拒否を示した。 「何だよ?抵抗すんな」 「何でっ?!そこは、関係ないっ」 「関係あんだよ。あんたは全部、俺様のもんだ。普段と違う傷があったら、許さねぇぞ」 「そんなの、怪我したくて、したわけじゃ」 「だから確認すんだろうが。意識失ってる間に何されてるか、分かったもんじゃねぇ」 息を呑んだ独歩の頬から額辺りを撫で、濡れ始めた赤い髪とうなじを撫で摩る。 「大人しくしてろ。そうすりゃ、痛くも酷くもしねぇよ。怪我の確認だけだ」 ![]() 対等に喧嘩を出来る関係であれ。 と思って出来たお話です。 後、左馬刻様は自分の“もの”に傷をつけられるのは。 許せないだろうし許さないと思っています。 2023/9/16初出 |