* EX 11 *


 世間に、甘い空気と香りが漂っている。時折すれ違う女性達は、手に可愛らしい紙袋を幾つか持っているし、数分の休憩が欲しくて立ち寄ったコンビニエンスストアの入口すぐの目立つ場所には、チョコレートの特設コーナーが設けられている。
 そう。もうすぐ世間は、バレンタインデーなのだ。観音坂独歩という男にとって、今までこの上なく無関係で無意味な行事でしかなかったバレンタインデーというものが、突如矢鱈と視界に入ってくるようになったのは、碧棺左馬刻という番を得たからに他ならない。
 いや、正直、バレンタインデーだから何なんだ、と言う話ではある。所詮、毎年社内の女性陣達が、超義理らしい一口サイズのチョコレートを一粒、男性社員の机の上に配り歩いたり、若い男女が恋愛に一喜一憂するための行事でしかないだろ、と今でも独歩は考えている。
(そもそも、聖人の処刑日だろ?何でチョコレートなんだよ。それだって製菓業界の陰謀とかじゃないのか?チョコレート売りたいだけだろ?だったら飴でもクッキーでもマシュマロでも何でもいいだろ。いっそ酒にしろよ)
 世間の甘ったるい空気に、心の中で毒を吐きながらも、気にならない訳ではない、と言うのも、同居人である一二三のせいだ。
「え?独歩、まじで左馬刻ちんに何もあげないわけ?」
「は?何で?」
「え〜?だってさ、そこはこう、イベント事とかって網羅してくもんじゃないの?」
「恋人じゃあるまいし」
「いや、恋人っしょ?」
「番だ」
「一緒じゃん」
「違う」
「何でそこだけそんなに頑ななの?難しく考えすぎだって〜」
「別に難しく考えてる訳じゃないし、バレンタインでチョコとか、安易だろ?」
「安易でいいじゃん。ノリで渡しちゃいなよ」
「そもそも、俺みたいなのがチョコレート買ってる姿とか気持ち悪いだろ」
「別に、今時女性から渡すのがバレンタイン、って決まってる訳じゃないじゃん?逆チョコみたいのもありだし、それこそ、αとΩの番同士でチョコ交換してるのとか、俺っち見たことあるよ?」
「とにかく、俺はそう言う行事は興味ない」
「ふ〜ん。ま、独歩がいいならいいけどさぁ〜でも、左馬刻ちん色んな所で貰いそうだよね、チョコ」
「まあ、モテる人だからな」
「なのに、本命の独歩から貰えないとか、寂しくね?」
「………俺以外から沢山貰うなら、俺からのなんていらないだろ」
「だぁかぁらぁ、何でそうネガティブなの?駄目だって!前向き、前向き!」
 等という会話が朝から繰り広げられたせいで、擦れ違う人々の持っている袋にも、つい注目してしまう。
(一二三め、余計な事を!)
 あんな会話がなければ、チョコレートを気にすることなどなかったのに………と考えながら、独歩は次の営業先へ向かうべく、駅へと歩き出した。


(それで、何で俺は百貨店にいるんだよ!!)
 何とか仕事を終え、閉店一時間前の百貨店に滑り込み、催事場で開かれているチョコレートの祭典に足を踏み入れたが、右を見ても左を見ても、人だらけだった。バレンタインというものが、ここまで耳目を集める催事である事を知らなかった独歩にとって、この人の多さは、眩暈を起こす程だった。
(この人波を抜けられる気がしない…帰ろう)
 踵を返し、催事場から抜けようとしたが、人波に逆らう事が難しく、徐々に出入り口から遠ざかっていく。
(何でだよ!?俺は帰りたいのに!)
 人波に流されながら、時折視界に入ってくるショーケースの商品見本には、既にSOLD-OUTの文字が幾つか貼られている。そんなに売れるのか!?と思いつつも、それが何の商品なのか確認する術がない。
 流されて辿り着いた、少し人の少ない場所で一息ついて見渡すと、多くの人々が手に手に紙袋を持っている。可愛らしい物からシックな物まで、人によっては五つも六つも袋を持っているから驚きだ。
 この中で買い物が出来る器用さが自分にはない、と判断した独歩は、催事場を出て行くべく一歩を踏み出したが、その時視界に入ったショーケースの一つに、目が奪われた。
 黒を基調にしたシンプルなデザインの外装で、中に入っているチョコレートもデコレーションがほぼなく、値段も手頃に思えた。
「あの、この商品なんですが………」
 店員に話しかけると、丁寧に商品の説明をしつつ、試食までさせて貰えた。
 結果、独歩はその中の一つを購入した。


 目の前に置いた黒い紙袋。中には帰りがけに買ったチョコレートが入っている。だが、問題はこれをどうするのか、だ。これが一二三だったら、気負うことなく簡単に渡せるのだろうが、何せ独歩である。あれこれと不要なシミュレーションまでした挙げ句諦める、と言う顛末を迎えそうになっていた。
(賞味期限もあるんだよな。せめてそれまでには渡したいけど、バレンタインだからってわざわざ会いに行くのもどう)
 その瞬間、胸元で携帯電話が震えた。取り出して画面を見ると、左馬刻からだった。
「はい?」
『あんた、明日か明後日空いてねぇか?』
 挨拶もなしに、左馬刻が切り出す。
「明日は仕事です。明後日は…微妙です」
『休めよ。あんた、蟹食うか?』
「蟹?何故急に?」
『知り合いから結構な量が送られて来てな。捌ききれねぇ』
 話を聞きながら立ち上がった独歩は、キッチンに向かって冷凍庫を開けた。
「あ。冷凍庫入りそうです」
『んじゃ明後日持ってくわ。休め、家にいろ』
「わ、分かりました。努力します」
(明後日が強制的に休みになった。一二三に蟹の事言っておかないと)
 努めて黒い紙袋を見ないように、独歩は視線を逸らせて仕事の段取りを考え始めた。


 左馬刻が持ってきたのは立派な蟹で、まさか二杯も三杯も持ってくるとは思わず、流石に冷凍庫に入りきらなかったので、内一杯を一二三が寂雷の所に届けに行った。
「蟹なんて何年ぶりですかね」
「なあ」
「はい?」
「俺に渡すもんがあんだろ?」
「………………エスパーですか?!」
「ちっげぇわ。昨日ホストが電話してきたんだよ」
『独歩の部屋でチョコ発見したから、左馬刻ちん、取り来てあげてよ。絶対独歩ぐるぐる考えてると思うしさぁ』
「蟹持ってくるついでがあって良かったわ」
「うぅぅぅ………持ってきます」
 渋々と言った体で、独歩は自室に行って、机の上に置きっ放しになっていた袋を掴んでリビングに戻って来た。
「あの、口に合わないようなら捨ててくれていいので」
「いいから、さっさと寄越せよ」
 おずおずと差し出された袋を受け取ると、左馬刻は間髪入れずに中身を取り出し、包み紙を剥がし始めた。
「へぇ。コーヒー味か」
「色々な地域のコーヒーを使っているそうです。碧棺さん、コーヒー好きだったなぁ、と」
「ふ〜ん………………まぁまぁだな」
 蓋を開け、中身を一つ口の中へ放り込んだ左馬刻が、簡潔な感想を述べる。いらないと言われなくて良かった、と独歩が胸を撫で下ろすと、左馬刻がにやりと笑った。
「ホワイトデー、期待してていいぞ」
「………ああ!そんなのもありましたね!?」
「いや、そこはセットだろ。忘れんなよ」
 呆れながらも、左馬刻は箱の中の二つ目のチョコレートを摘まんで、口に入れた。







左馬刻は気にせず包み紙的な物をビリビリに破りそうだな、と思いました。
一二三のアシストがないと独歩はチョコすら買わないだろうな、と思いました。
その結果がこのお話です。イベント事とか独歩は気にしなさそうだな、と。
一二三は職業柄むしろ気にしそうなので、アシストしてもらいました。
コーヒーを使用したチョコレートは現実にあるので、コーヒー好きの左馬刻にはそれかな、と。
バレンタインイベントは人が多いので、独歩は人波に流されそうな気がする(苦笑)




2026/2/14初出