* EX 13《前編》 *


 長く続く土塀の先は、見えない。目の前には、観音開きの重厚な木製扉がある。
「あの………」
 独歩の小さな呟きに、男は肩を震わせて頭を下げた。
「すんません。俺は連れてこいって言われただけなんす!こっから先は、観音坂さん一人でお願いしますっ!」
 言うなり、男は独歩を乗せてきた車の運転席に乗り込むと、さっさと車を発進させて、どこかへ行ってしまった。
 連れてこられたのは、ヨコハマの知らない土地。連れてきたのは、左馬刻の部下だ。いつもならば、左馬刻の部屋に連れて行ってくれるので、途中、見たことのない道を走っているな、とは思っていたのだが、流石に、置き去りにされるとは………と、独歩は、目の前の扉と土塀にもう一度目をやって、呆然とした。きっと、火貂組に関わりのある場所なのだろう。けれど、門扉の横にあるインターホンを押していいのかどうか、躊躇われる。
 不審者よろしく独歩が暫く突っ立っていると、突然内側から扉が開いた。出てきたのは黒いスーツを着た細い男で、サラリーマンのような風体だった。
「観音坂独歩様ですね?中へどうぞ」
「え、と………」
「若頭にはこちらから連絡を入れますので、ご安心ください」
 土地勘のない場所で、初めて来た家の前に車から降ろされ置き去りにされ、自力で帰れる体力がある程、独歩は若くなかった。連絡を入れてくれると言うのだから、何か無体な事をされるということはないだろう、と腹をくくる。
 それに、扉の脇に掲げられていた表札には【火貂】と書かれていた。それをもう一度確認して、独歩は一歩、扉の内側へと足を踏み出した。


 通されたのは六畳一間程の和室だが、絨毯が敷かれた上に、重そうなソファーと大きな一枚板で作られた木机が乗せられており、あまり和室の雰囲気がない。私的な客間と言った雰囲気で、飾り気がなかった。
 部屋へ通されるまでの廊下は長く、家自体が大きいようで、人の気配があまりない。途中で庭らしきものも垣間見えたが、石灯籠のような物が置いてあったので、そこも広いのだろう。
 案内してきた男は、茶を出すとそのまま退室してしまい、すでに五分は経過している。視線をどこへ向けていいかも分からず、独歩がそわそわと立ったり座ったり、室内を歩いていると、障子が開いた。
「待たせて悪かったな」
 入ってきたのは矍鑠とした老人で、たっぷりと蓄えた白い顎髭に肩程までの白髪、羽織を纏った着流し姿は威厳十分で、独歩を一瞥すると、「座ってくれ」と言ってきた。
 促されて、「失礼します」と一言断りを入れて独歩が座ると、老人は正面のソファーにどっかりと腰を下ろした。
「突然呼び出してすまなかったな、えぇと、観音坂独歩さんだったか。けったいな名前だなぁ」
 いきなり名前をディスられて、独歩の口から、はぁ、と言う気の抜けた返事が零れた。
「俺は、火貂組の組長してる火貂退紅ってもんだ」
 人の好さそうな表情で笑う老人の自己紹介を聞いても、独歩の中には特別恐怖のようなものは湧き上がってこなかった。ヤクザの組長などと言われれば、大抵の場合は驚いたり恐れたりするものなのだろうが、左馬刻と一緒にいるおかげで耐性が出来たのか、慣れたのか、怖さは感じなかった。
 そうか、この人が碧棺さんの上司に当たるのか、と言うか、名前のけったいさで言えばお互い様では?等と感想を抱く。
「今回、こっちの不手際で怪我させたみたいで悪かったな」
 老人の視線が、独歩の左手甲へ注がれる。そこにはまだ、包帯が巻かれていた。
「え?いえ、大した怪我じゃないので」
 出血は止まったが、傷口がしっかり塞がった訳ではないし、営業先で傷口を見せてお客様に不快な思いをさせても申し訳ないので、まだ左手には包帯を巻いたままにしている。それは、決して誰かのせいというわけでもないのだが………あえて言うのであれば、不可抗力だろうと独歩は考えている。
「本来なら治療費だ何だもこっちで出すんだが、あんた、いらないって言ったそうだな?」
「あ、はい。碧棺さんが出そうとしてたので断りました」
 確かに、怪我をしたきっかけは左馬刻かもしれないが、だからと言って治療費を出してもらう言われはない。実はその件で少し揉めたりはしたのだが、護衛をつけると左馬刻が押し切ったので、治療費の件に関しては、独歩が押し切ったのだ。
 ゆったりとした動作で腕を組んだ退紅の視線が、鋭く独歩を見据えたかと思うと、聞こえるように溜息をつかれた。
「俺はこういうのが苦手なんだが、まあ、うだうだ前置きすんのも面倒だ。単刀直入に言わせてもらうが、左馬刻と別れてくんねぇか」
「………………は?」
 突然の言葉に独歩の思考が一瞬停止した。何を言われたのかが、分からなかったのだ。
 別れる?碧棺さんと?何で?と言う至極最もな疑問が浮かぶ。
「あいつのプライベートに踏み込む気はねぇんだが、俺はな、今ってわけじゃねぇが、将来的に左馬刻に組を継がせてぇと思ってる」
 左馬刻は若頭なのだ。そういう事もいずれはあるだろう。それと今の話に何の関係が?という独歩の疑問を見透かしたように、退紅がにやりと笑う。
「俺はな、子供がいねぇ。だから、次継がせる人間選ぶのも苦労すんだ。血筋ってのはこの世界じゃ強い。だが、その血筋があっても後継者選びは難儀する。特に左馬刻はまだ若い。周りから反対の声もあるし、今は時期尚早だ。だが、いずれは………って話が出た時に、次の組長にも子供がいねぇってのは、マイナスになるだろうな」
「っ………」
「蛇の道は蛇、ってな。悪いが、あんたの事は少し調べさせて貰った。あんた、Ωだけど子供産めねぇそうじゃねぇか」
「それは………」
 どこでどうやって調べたのか、と言う謎はあるが、今の問題点はそこではない。他者に知られてしまった、と言う事実だ。隠していた事、知られたくなかった事だ。自然と、握る拳には変に力がこもって汗をかき、視線が下へと向いていく。
「αはΩに執着する。それが番ともなれば猶更だ。俺はβだからその辺の感情がいまいちわからねぇが、左馬刻からあんたに別れを切り出す、ってぇことは今後もねぇだろうな」
 苦笑しながら放たれる言葉が、じくじくと独歩の弱い部分を引きずり出していく。
「だから、あんたから三行半を突き付けてもらいてぇんだよ。左馬刻に、別れを切り出してくんねぇかな」
 退紅の言葉は、到底冗談には聞こえなかった。多少乱暴でも声が柔らかいのは、独歩が堅気だからなのだろう。やろうと思えば、暴力でも何でも使って、独歩の意思など無関係に従わせる事も出来るはずだ。それをしないのは、せめてもの慈悲か。
 独歩が何も言わずに下を向いたままでいると、退紅が懐に手を入れ、分厚い茶封筒を取り出した。
「ここに、とりあえず五百万ある。勿論、足りねぇってんなら、幾らでもあんたのいい値で上乗せするぜ」
「………手切れ金、ってことですか?」
「まあ、そういうこったな」
 退紅が、持っていた茶封筒を机の上で滑らせて、独歩の眼前に置いた。
 じくじくと痛んでいたはずの部分は、いつの間にか沸々とした怒りで満たされている。この年寄りは何を言っているのだ?突然連れてこられて話をされたと思ったら、左馬刻と別れろという。その理屈も、よくよく考えればこの年寄りの我儘と言ってもいい部類だろう。しかも、手切れ金?五百万?金で簡単に買収されると思っているという事か?
 沸いてきた怒りに突き動かされるように、独歩は腰を上げた。







時間軸としては、『海より〜3』のafterのちょっと前、です。
まだ独歩の怪我が完全に完治してない位の時期ですね。
組長さんをいつかは一度出したいと思っていたので。
元々一話で完結させるつもりだったのですが。
どうやっても文章量が入りきらなかったので前後編になりました。





2026/4/19初出