* EX 13 《後編》*


 独歩は、目の前に置かれた茶封筒に手を伸ばし、机の上で滑らせると、そのまま退紅の方へと突き返した。
「ふざけるな」
「ん?」
「あの人が俺を選んで、俺に選ばせてくれたんだ。その選択を蔑ろにするようなこと、するもんか。しかも、金で簡単に買収されるような人間だと俺の事思ってるってことか?そういうつもりなら、絶対に別れてなんかやるもんか。サラリーマンをなめるなよ!」
 独歩の手が離れた、突き返された茶封筒に退紅が視線を落とし、数秒、重苦しい沈黙が流れたかと思うと、ふぅ、と溜息をついた。
「おい!」
 退紅が外へ向かって声を張ると、独歩をここへ案内して来た男が「失礼します」と言って障子を開けて入室し、退紅の側へ寄ると、何やら指示を受けている。退紅の言葉を聞いた男が退室して、しばらくすると、何故かグラスを二つと一升瓶を持って戻ってきた。
 それを受け取った退紅が、グラスを一つ独歩の前に置き、一つを自分の前に置いた。
「お前さん、酒は飲めるだろ?」
「………飲め、ますけど………え?」
 先程までの張りつめた空気はどこへいったのか、退紅が砕けた物言いで話を進める。
「いやぁ、いい啖呵だったぜ。悪かったな、試すような真似してよ」
「た、試す?」
「あいつの番が堅気のサラリーマンだって言うからよ、一度会っておきたくてなぁ。いつまで経っても紹介してこねぇから」
「え?いや、あの、別れろって話は?」
 開けた一升瓶を傾け、それぞれのグラスに酒を注いだ退紅が破顔し、声を上げた。
「はっはっはっ!ありゃぁ、あんたが簡単に金に転ぶような奴かどうかを見たくてな。子供云々は気にすんな。血の繋がらねぇ奴に継がせるなんざよくあることだしな」
 言うなり、退紅は自分のグラスに注いだ一杯を早速飲み干してしまう。
 浮かせていた腰を下ろすと、独歩は、一気に全身から音を立てて血の気が引いていくのを感じていた。
 自分は、何を言った?それも、ヤクザの組長相手に。結構声を張った気がするんだが、え、大丈夫か?
 等と、自分の行動を独歩が振り返っていたその時、遠くから荒い足音が響き、障子が勢いよく開け放たれた。
「オヤジ!あんた何してんだ!」
「おお、左馬刻。遅かったなぁ」
 呑気な退紅を無視した左馬刻が、座ったままの独歩の腕を掴んで引き上げようとした。
「帰るぞ」
「や、あの、碧棺さん、その………」
「何だよ?」
 腕を引いても立ち上がろうとしない独歩に、左馬刻が怪訝そうな視線を向ける。
「その、腰が、抜けて………」
「はぁ?」
 珍しく間が抜けたような表情をした左馬刻に、まさか、左馬刻の顔を見たら安心して、全身から力が抜けてしまったのだとは言い難く、独歩は俯いてしまった。
「はっはっはっはっ!あんだけの啖呵切っといて腰が抜けたのか?面白ぇ人だなぁ。おい左馬刻。この酒持ってけ」
 二杯目を注いだ退紅が瓶に蓋をし、左馬刻に突き出す。独歩から手を離した左馬刻が、机越しに瓶を受け取ってラベルを見た。
「これ、あんたの秘蔵の酒じゃねぇか」
「良い事があった日に開けるって決めてたんだよ」
 グラスを傾けて注いだ酒を揺らし、二杯目を飲み干した退紅が、空いた手で左馬刻のシャツを掴んで引いた。
「いいか?俺らの世界に堅気を引きずり込むんだ。護衛はちゃんとつけとけ。二度とこっちの都合で怪我させるんじゃねぇぞ」
「ちっ………わぁってるよ」
 独歩には聞こえぬように小声で話し、シャツから手を離すと、退紅は、未だに立てずにいる独歩に視線を向けた。
「ま、バカな息子だが、末永く頼むぜ」
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします?」
「そこは言い切れよ。何でだよ」
 絶妙に語尾が上がった独歩に突っ込んだ左馬刻が、再度腕を掴んで引き上げ、独歩を立たせようとしたが、独歩の足にはまだ力が入らなかった。
「む、無理です、まだ立てない」
「ちっ………車回させるからちっと待ってろ」
 退紅から渡された酒瓶を持って、左馬刻が部屋を出ていく。まさか、再び退紅と二人にされると思っていなかった独歩は、大いに戸惑った。え?この状況で置いてくのか?と。
「なあ、観音坂さんよ」
「はい?」
「あんた、うちの組に入る気はねぇか?」
「あ、ないです」
「即答かい」
 苦笑する退紅に、どう答えようか少し考えてから、独歩は困ったように笑った。
「だって、俺が好きなのは碧棺さんで、火貂組が好きなわけじゃないですから」
「ほ〜言い切るねぇ」
「それに、今の仕事嫌いじゃないので」
 上司はクソだけど、と心の中でしっかりと付け加えつつ、ふと、酒の注がれたグラスが視界に入った。
「あの、これ、頂いていいんですか?」
「おう。飲め飲め」
 グラスに手を伸ばし、いただきます、と小さく声に出して、軽く口をつけた。
「っ………結構、強い」
「でも、旨いだろ?」
「はい。美味しいです」
 退紅はかなり勢いよく飲んでいたが、独歩は少しずつ飲んだ。グラスは然程大きいサイズではなかったが、それでもそれなりに量は入っていたからだ。一気に飲み干したりすれば、喉が焼けてしまいそうだった。
「呑気に酒飲んでんじゃねぇよ」
「あ、碧棺さん」
 車を回させると言って出て行った左馬刻が、手ぶらで戻ってきた。酒瓶は置いてきたのだろう。
「いいじゃねぇか。そのままにしといたら酒がダメになっちまうからな」
「酒が飲めるって事は、立てるんだろ?」
 言われて、独歩はゆっくり立ち上がった。すると、左馬刻の手が伸びてきてグラスを取り上げ、叩きつけるように机上へ置いた。
「いいか?二度と勝手にこいつ呼びつけたりすんなよ、オヤジ」
「どうだかなぁ」
 にやにやと笑う退紅を見て、左馬刻の眉間に皺が寄った。
「ちっ!帰るぞ」
「あ、あの、お邪魔しました!」
 左馬刻に腕を掴まれつつ、独歩は何とか軽く頭を下げた。
「おう。また来ていいぞ」
「来させねぇよ!」
 叫びながらどんどん歩いていく左馬刻の荒い足音を聞きながら、退紅は、いい女房役を見つけたじゃねぇか、と、喉の奥で笑った。


 車の後部座席、隣に座った左馬刻から、独歩は怒られていた。
「あんたは何でそう警戒心がないんだよ!?もっと警戒しろよ!!」
「いや、だって、表札に“火貂”って書いてあったので、大丈夫かなぁ、って」
「大丈夫じゃねぇだろ!?何でそう呑気なんだ!火貂組がヤクザだってこと忘れてんじゃねぇだろうな!?」
「忘れてないですよ。大丈夫です」
「だから、その大丈夫の根拠がどこにあんだよ!?それに、てめぇもてめぇだ!何してくれてんだ!」
 言いながら、左馬刻は目の前にある運転席を何度も蹴った。
「すんません!すんません!組長補佐から連絡が来て、断れなかったんす!!」
「断れよ、ボケが!」
「ちょっ、碧棺さん、あんまり乱暴にすると可哀相ですよ」
「可哀相もクソもねぇわ!とっとと出発しろや!」
 運転席が揺れる程強く蹴られて、男は小さく悲鳴を上げながらアクセルに足を置いた。







独歩は理不尽に対しては怒れる人だと思っています。
なので、組長さんに対しても一歩も引かないよ!を書きました。
でも、警戒心なさ過ぎてこの後も左馬刻に怒られる。
下手をするとこれがきっかけで護衛が増やされる(笑)
何だかんだで組長さんに気に入られたはずなので。
年に一回位唐突に食事に誘われて拉致られます(苦笑)




2026/5/16初出