* EX 8 *


 眼下に広がるのは、緑豊かな山の景色。遠くに見える標高の高い山の頂上には、薄らと雪が積もっている。窓を開ければ、冷たい冬の空気が入り込んできた。
「おい。さみぃから窓閉めろ」
「すみません。つい」
 部屋の入り口を入った所で、左馬刻が上着を脱ぎだしていた。
 会社と自宅の往復しかしない、独歩の日々のルーティンに、時折左馬刻の家に向かう事が加わってから一年が過ぎ、もうすぐ、二度目の冬が来ようとしている。
 そんな秋の終わりに、数週間連絡が取れなかった左馬刻から連絡が来たと思ったら、突然『温泉行くぞ』と言われたのだ。
 曰く。仕事で休みがなかった左馬刻に、部下や上司から休みを取れの大合唱があったらしい。仕事で休みがなかったのは、色々とヨコハマ内でごたつくことがあったらしいのだが(詳細を独歩は聞いていない)、それがようやく一段落したらしいのだ。
 温泉と言われて心が動かない訳ではなかったが、独歩の問題は、左馬刻に合わせて休みが取れるのか、と言う一点に尽きた。
 まず、秋の最中に大型連休がないという物理的問題、そして、発情期が来たわけでもないのに休暇申請を出すというのはどうなのだろうか、と言う心情的問題だ。
 そもそも、一般的に与えられている有給休暇というものは、その休みの内容如何に関わらず好きに休んでいいものであるし、内容を申告する必要性もないのだが、今までまともに有給休暇申請を出した事のない独歩には、気後れしてしまうものでもあった。
 だが、温泉に行くのなど、もしかしたら二十歳前後で家族とした旅行以来ではないか?と言う事に気づき、また、左馬刻と旅行という、初めての出来事に少々浮かれてしまい、休みを取れるかどうかも分からないのに『行きます』と答えてしてしまい、休暇を申請するために死に物狂いで仕事をこなしたのは、左馬刻には言っていない。
「お食事は十九時頃に御準備させていただきますが」
「ああ、頼む」
「承知しました。ごゆっくり」
 部屋まで案内をしてくれた仲居が、静かに部屋を出て行く。楚々とした仕草は美しく、旅館の質の高さを思わせた。
 旅館の玄関、もとい駐車場辺りから部屋に至るまでの細部に、きめ細かな配慮が成されていたのが分かる。他の宿泊客と顔を合わせない動線は勿論の事、所々に飾られた季節の花や掛け軸は目を楽しませるし、窓の外に見える景色ですら、まるで一枚の絵画だった。恐らく、その景観ですら計算し尽くされて、宿が建てられているのだろう。
「凄くいい景色ですね、ここ」
「風呂からの景色はもっといいぞ」
「そうなんですか?」
「部屋付きの露天風呂だからな」
「露天風呂………」
「日が落ちると景色は全く見えなくなるし、すぐ行くか?」
 左馬刻の提案に、独歩は大きく頷いた。


 不機嫌そうに濡れた髪を掻き上げる左馬刻の視線から逃げるように、檜風呂の隅で、独歩は視線を逸らした。
「おい」
「な、何でしょうか?」
「何でそんな遠いんだよ?」
 それなりに身長のある男が二人で入っても悠々とした広い檜風呂は、独歩が左馬刻から逃げるには十分の広さだった。
(一緒に入るとは聞いてないし、後から入ってくるとも思ってないし、大体何なんだよ!色々目のやり場に困るんだよ!何か色々もう俺がいっぱいいっぱいだよ!景色が綺麗なのは分かるんだけど、素直に楽しめない!)
 普段と違う環境、雰囲気、景色の中で改めて見ると、正直、左馬刻は格好いい。いや、改めなくても格好いいのだが。
 左馬刻から距離を取り、ほぼほぼ対角線上にいるのだが、じわりじわりと、左馬刻が近寄ってくる。その都度、じわりじわりと、独歩は逃げ続けた。
「いい加減にしろよ、てめぇ」
「いえ、あの、俺の事はお気になさらず」
「気になってしょうがねぇわ」
 派手な湯音を立てて左馬刻が立ち上がり、大股で独歩に近づくと、腕を掴んで立たせ、景色が見やすい、部屋を背にする形で座る位置へと座らせ、自身も隣に座った。
「何にもしねぇよ」
「本当に?」
「信用ねぇな」
 左馬刻の“何もしない”を信じて近寄り、気づいたらあちこち触られてなし崩し的に………と言う事が今まで多く、どうしても独歩は警戒してしまう。
「明日はどうする?」
「明日、ですか?」
「正直、歩き回る気分じゃねぇんだよな」
「そうですね………お土産とかは最終日に軽く見られればいいかな、と思ってるんですけど、俺もしばらくまともな休みがなかったので、ゆっくり出来るとありがたいです」
「なら、だらだらしようぜ。そう言う日がたまにはあってもいいだろ」
 ゆっくりと息を吐き出し、遠くの山並みを見つめる左馬刻は、どこか、疲れているように見えた。
 落ちていく夕日に照らされる山の緑色が、刻々とその色味を変えていく。露天風呂から眺める景色は、確かに、いい景色だった。
「あの、碧棺さん」
「あ?」
「今回は、誘ってくれてありがとうございました」
「おう」
 少し照れたようにも思える左馬刻の表情と声に、独歩は静かに微笑んだ。


 甘みはあるがさっぱりと飲める、フルーツの様な香り高い食前酒から始まった夕食は、和食を中心とした物だった。一つ一つの皿の中身のどれもが、箸をつけて崩していいのかどうか迷うほど、丁寧に盛り付けられているし、どれから食べるか迷った独歩は、結局最初、小皿に載った香の物に手をつけた。
(まあ、野菜から食べるのはいいってどこかで聞いたしな)
 地元のブランド牛を使用したすき焼きも、小ぶりだが身のふっくらとした焼き魚も、松茸の入ったお吸い物も………一品ずつ上げていたら切りがないが、舌鼓を打つとはこういうことか、と思う程、どれも美味しかった。
(贅沢だなぁ)
 ゆっくりと流れる時間、美味しい料理、他愛もない会話、そのどれもが、独歩にとっては贅沢なものだった。
 仕事に追われ、日々の生活に疲弊し、その鬱憤を晴らすために、ラップバトルに参加しているような所がなくはない。崇高な目的や辿り着きたい目標、手に入れたい、取り戻したい何かがあるわけでもない。ただ、左馬刻と番になってから、この人と同じ舞台に立っているのが、おかしいと思われない人間にはなりたい、と思えるようになった。
 ただ、その左馬刻はあまり、食事が進んでいないように見えたが。
「碧棺さん、大丈夫ですか?」
「あ?………ねみぃ。くそ、風呂入ったら一気に眠気が来た」
 食事をしている部屋の隣が寝室だと聞いていたので、独歩は箸を置いて立ち上がり、襖を開けた。そこには、和モダンとでも言うのだろう、落ち着いた雰囲気の寝室があった。
「先に寝ちゃいますか?」
 食事を諦めたらしい左馬刻が立ち上がり、そのまま寝室に向かおうとしたので、独歩は止めた。
「駄目ですよ。歯磨きしましょう」
「あぁ?んなもんどうでも」
「よくないです」
 左馬刻の背を押して洗面所へ連れて行き、今にも舟を漕ぎ出しそうな手に歯ブラシを握らせ、どうにかこうにか歯磨きをさせて寝室へ向かわせると、早々に布団の中へ潜り込んだ左馬刻から、すぐに寝息が聞こえてきた。
 本当に疲れていたんだな、と思いつつ、独歩は食事を再開することにした。







左馬刻お誕生日小説です。
温泉でゆっくりしたい私の願望の代わりに二人に温泉に行ってもらいました。
前後編なのでもう一話あります。独歩の誕生日も二話構成でしたので。
しかし、ヤクザの若頭に歯磨きさせる独歩は中々胆力があると思っています。
独歩ってそういうずれた部分があると思っています。





2025/11/10初出