その日も、ジノはいつも通り町をぶらつき、定宿にしている宿へと帰ってきた。ルルーシュの所へ赴くまでは時間があるし、昼寝でもしようかと、宿の主に帰ったことを伝えて素通りしようとすると、止められた。 「あんたに手紙だよ」 無愛想な女性が、机の引き出しから一通の手紙を取り出して、滑らせてくる。 自分が此処にいることを知っている人間など、そういないはずだけれど………と訝しく思いながら、手紙を裏返し、ジノの表情が険しくなった。 「わざわざありがとう」 一応礼を伝えて、足早に部屋へと戻る。 備え付けのベッド程度しかない簡易宿だ。荷物のない室内はがらんとしていて、ジノは窓を閉め、部屋の扉へ鍵をかけて、渡された手紙の封蝋を見る。 赤い、封蝋。そこに記されている印は、よく見慣れたものだ。ペーパーナイフなど持ち合わせていないため、乱暴に指先で、封筒の口を切る。 中から出てきたのは、一枚の手紙。貴族らしい流麗な文字で、簡潔に、必要事項だけが書かれている。 それに一通り目を通して、ジノは、便箋を封筒の中へとしまいこみ、鞄代わりにしている布袋の中へと突っ込んだ。 「今更、何だって言うんだ」 そのまま、靴も脱がずにベッドの上へ寝転がり、不貞寝をするように、瞼を下ろした。 夕刻から広がり始めた雨雲。雨が降りそうな気配や匂いはしなかったが、宿を出てしばらくしてから、ぽつぽつと降り始め、やがて本降りになってきた。引き返すことも考えたが、引き返して雨具を取り、再び向かうとなると、ルルーシュの屋敷へ到着する頃には、確実に深夜を回るだろうと、ジノは引き返さなかった。 あの嵐の夜のように、リュートには雨を避けるために、何枚かの袋を掛けてある。だが、自分自身はずぶ濡れだった。 このまま木登りをして、ルルーシュが気づいて窓を開けてくれるとは限らないが、百日間通い詰めると決めたのだから、雨が降ろうと、向かわなければならなかった。 まさか、来るとは思わなかった。 と言うルルーシュの言葉に出迎えられたジノは、勿論、頭から爪先まで濡れ鼠で、静かに、ルルーシュの部屋のバルコニーを、下から見上げていた。 ずぶ濡れの状態で木登りをするのは難しい。かといって、無言でそこに立っていて気づかれることはないだろう。申し訳ないとは思ったが、ジノは、ルルーシュの名前を呼んだ。強い雨音にかき消されてしまいそうなほど、微かな声で。 大げさに呼ぶのは、憚られた。 自分は卑しい楽師で、彼女は貴族の少女。本来ならば、親しげに名前を呼ぶなど以ての外だ。 けれど、ジノは、気づかれずに日数を換算されないのが嫌だったのだ。やり遂げると決めた以上は、必ずやらなければ気が済まない。 裏へ回れ、とルルーシュに言われ、大きな屋敷をぐるりと回ると、裏手に、使用人達が使っていると思しき粗末な扉があった。それは、表の絢爛さとは似ても似つかない、素朴なものだ。 それが、内側から開けられる。 「さっさと入れ」 「え?」 「この雨の中に放り出すほど、私は非情ではない。言っただろう?死体に転がられるのは迷惑だ、と」 「確かに」 苦笑して、もう何十日も前に聞いた言葉を思い出す。確かに、彼女は嵐に見舞われたジノを助けた理由を『屋敷の門の外に死体に転がられても迷惑なだけだ』と言った。 「このぐらいの雨に降られたくらいでは、どうともなりません。それなりに、頑丈ですから」 苦笑するジノを、それでもルルーシュは中へと入れ、白く柔らかいタオルを差し出した。 「これは?」 「屋敷の中へずぶ濡れのまま入るつもりか?」 「いえ。お借りします。………………柔らかいですね、凄く」 「だろう?私の自慢だ」 「と、言いますと?」 「私は綿の畑の所有者でな。それはそこで作らせている最高級の綿だけを使用したタオルだ。貴族達の間で話題沸騰中だ」 ジノが褒めたことが嬉しいのか、ルルーシュが得意気に胸を張る。以前、彼女が忙しい、といっていたのは、経営者だからだったのか………と納得がいくと同時に、女性の経営者と言うのは珍しいと、ジノは感心した。 「しかし、まさかこんな雨の中でも来るとは思わなかった」 「来ます。そう言う約束ですから。明日も、明後日も、百日経つまで必ず通います」 「そうか」 「あ、これ、洗って返します」 頭を拭き、顔を拭き、肩を拭いてびしょ濡れになってしまったタオルを示して言えば、ルルーシュが首を左右に振る。 「持って行け」 「え?」 「使うといい。一枚くらいなら、構わない」 「いや、でも、これ、高いでしょう?」 「まあ、そこそこに値段は張るが、一枚くらい人に渡したくらいで揺らぐほど、甘い経営はしていないから、大丈夫だ」 「凄いですね」 「ん?」 「女性の経営者と言うのは珍しいと思うのですが………」 「そうだな。珍しいのだろうが、私にはそれが向いているんだ。家に篭っているよりも」 「そうなんですか」 「ああ。兄に、そうすすめられて、な」 「お兄さんが?」 「何人かいるが、二番目の兄にそうすすめられた」 「一体、何人兄弟なんですか?」 「さあ?あの父親が何人の愛人を囲っているのか、私は知らないからな」 ふ、と翳ったルルーシュの表情に、寂しさや悲しみ、憤りにも似たような呆れのようなものも混じっているように見えて、胸をつかれた。 ![]() 2011/3/5初出 |