*Knight of night-[-*


 今日で、百日目。指折り数えたその日がやってきたことに、ジノは達成感よりも、安堵を覚えていた。
 これで、ようやく一歩だ、と。ここからが、始まりなのだと。
 だと言うのに、一体これは何の冗談だと、突然、今日で引き払う予定でいた、宿の部屋に押し入ってきた数人の男を見返す。
「お手紙は届きましたか?」
「ああ」
「では、お屋敷へお戻り下さい」
「嫌だと、言ったら?」
「力ずくでも、お戻りいただきます」
「まだ、手紙に書かれていた日には猶予があると思っていたけどな」
「予定が早まったのです。今すぐに、お戻りを」
 頑なな物言いに、呆れて溜息をつき、鞄とリュートを手に取った。入ってきた男達は、それでジノが大人しく従ってくれるものだと、思ったのだろう。
 だが、ジノは男達の方へ一歩を踏み出すと見せかけ、踵を返して、窓枠に手をかけた。
「父上と母上に伝えておけ。勘当した息子を今更連れ戻すような無様な真似はするな、とな」
 そう言うや否や、ジノは窓から飛び出し、下方に見える地面へと着地した。
 突然上から降ってきたジノに、通行人の女性が驚いて眼を丸くしているのに謝罪しながら、ジノは走り出した。
 今日、捕まるわけにはいかなかった。


 辿り着いたルルーシュの屋敷は、静まり返っていた。当然だろう。既に、深夜を回っている。追ってくる男達を撒いていたら、こんなに遅くになってしまったのだ。
 男達についてこられるわけには、いかなかった。それは、この屋敷に、ひいてはルルーシュに迷惑をかけることになるからだ。自分の問題に、無関係な人間を巻き込むわけにはいかなかった。
 いつもの通りに木を伝い、屋敷の中へと入り込む。そして、そのまま真っ直ぐにルルーシュの部屋へと向かった。
「遅かったな」
 上から降ってきた声に見上げれば、テラスにルルーシュの姿が見えた。
「申し訳ありません。野暮用がありまして」
「………まあ、いい。上がれ」
「はい」
 わずかな沈黙に、怒りのようなものが含まれている気がして、ジノは急いで木を登った。
 夜の空気は冷え、肌寒い。なのに、ルルーシュは薄い夜着だけで、薄い肩へ何もかけていなかった。
「あの、お風邪を召されますよ?」
「風邪などひかない。それよりも、お前に聞きたいことがある」
「何でしょう?」
 数瞬の沈黙の後、一つ溜息をついたルルーシュが、口を開く。
「お前、名前は何と言う?」
「ジノ、ですが?」
「フルネームだ」
「………捨てました。必要ないものなので」
 各地を遍歴して歌い続けるジノにとって、家名などと言うものはわずらわしく、そして重荷でしかなかった。だから、捨てたのだ。
「今日、ヴァインベルグ家の者がやってきた」
「っ!?」
「先日、跡継ぎであった次男が、戦死したと言うことだった」
「それは………」
「ついては、行方知れずになっている三人目の息子の行方を捜している。この屋敷に出入していると言う噂を聞いたが、本当か、とな」
「それで、何と?」
「ヴァインベルグ家の者が出入りしている事実はない、と答えた。一応な」
 ルルーシュの答えに、ジノは安堵すると同時に、これは決して逃げられないと、覚悟を決めた。
「ヴァインベルグ家は長男が病死している。そして次男が戦死。三男がいたとは知らなかったが、順当にいけばこの者が跡継ぎ、と言うことになる。お前は、知っているな?」
「………………私です」
「やっぱりな」
 呆れたようなルルーシュの溜息が、ジノの胸に突き刺さる。騙していたわけではない。ただ、黙っていただけだ。必要のない過去を、持ち出したくなかっただけだ。
 今のジノは、一介の吟遊詩人。いつどこで果てるとも知れない命に、ヴァインベルグなどと言う貴族の名を冠するのは無意味だと、そう思っていた。
「どうりで、所作が貴族らしいわけだ」
「それは………」
「幼い頃から見についた所作は、そう簡単に消えるものではない。どれだけそれらしく振舞おうとも、な」
「私は、詩人です。吟遊詩人です。ただの、ジノだ」
「だが、お前は望まれている。跡継ぎに、と」
「私は、望んでいない。既に、家も名前も捨てました。二度と戻らない覚悟を決めて、家を出、名を捨てたのです」
「だが、あちらはそう思っていない」
「ルルーシュ様」
「本来であれば、お前が私をそう呼ぶのもおかしなことだな」
 苦笑したルルーシュが、一歩前に出て、腕を上げる。
「帰れ」
「え?」
「お前のいるべき場所へ帰るがいい」
「でも!」
「既に、日付は変更されている。百日、と言う約束を、お前は果たせなかった。契約不履行だ。帰れ」
 ルルーシュの指が、正門を指している。それは、吟遊詩人としてのジノではなく、貴族としてのジノに、帰れと言うことか………と、手を伸ばそうとした。
 だが、ルルーシュが一歩、後へと引く。
「お前は、私を騙した。私に黙っていた。やはり、吟遊詩人など信じるのでは、なかった」
 背中を向けたルルーシュが部屋の中へと戻り、窓を閉めて鍵をかけ、カーテンを閉めてしまう。
 カーテンの向こう側にその姿が消える瞬間、見えたルルーシュの瞼に、雫が光っているのが見えた気がした。
 けれど、ジノは、何も、出来なかった。












2011/5/30初出