*十四*


 冷たく聳える岩壁。半ば崩れかかったそれを、再び使用しようと、手を触れる。だが、妙な違和感に、眉根を顰める。
「何だ?」
 それは、胸騒ぎにも似た、焦燥。だが、その正体は漠として掴めない。
「あちらで、何か起きているのか?」
 まさか、そんなはずはないと思いながらも、決して計る事はできない“Cの世界”の秩序に不安を覚え、岩壁に刻まれた文様を撫ぜるようにして、中への侵入を試みる。
 次の瞬間、赤く瞬く光に包まれたと思うと、黄金色の空間に投げ出されていた。
「これは………」
 右も、左も、上も、左も、全てが黄金色に染まった空間。足をつけるべき地面はなく、体は空に投げ出されている状態だ。
 ただ、唯一上下を知る手立てになるといえば、蠢いている靄のような物体だ。下から上へと、上から下へと流れているように見えるそれだけが、その場所で唯一、彼女以外に存在するものだった。
「まさか………暴走、しているのか?」
 繋ぎとめていた鎖が、贄が消え、それは行き場所を失ったかのように、蠢いていた。
 そして、空間が大きく揺らぐ。黄金色の空間が徐々に色を喪失し、蠢いていた靄が、形を成していく。それはまるで、周囲の色を吸収して、己を確固たるものにしようとしているかのようだった。
 そして、靄は、抜き身の剣となる。人の手で扱える大きさの、諸刃の剣に。人を、斬るための道具に。
「人類を殺したいのか、神よ」
 憤っているのか。我を忘れているのか。いずれにせよ、剣の切っ先は紛うことなく、彼女へと向いていた。だが、彼女は琥珀色の双眸を鋭く細めて、剣を見やり、挑発する。
「私は、願いを叶えてもらった。今度は、あいつの願いを叶えてやると決めている」
 色彩の失せた空間で、黄金色の柄の剣が飛翔する。白刃が煌めいて、腕を掠めていくが、怪我の一つも負いはしない。
「神よ、“人”を侮るな。人の想いは、願いは、夢は、決して潰えることがないのだから」
 一人の少女が、彼女にそれを教えてくれた。嘘をつき続け、人を欺き続け、殺し、騙し、騙されて、傷つきながらも決して歩みを止めることのなかった、少女が。
 飛来する剣をやり過ごし、体を反転させて、柄を掴む。手に馴染むそれを手に掴んだ瞬間、色彩のなかった空間は、見慣れた風景へと変わる。
 何百、何万と言う冊数の本が納められた本棚、美術品の飾られた空間へと。
 手にある剣へと、“神”へと、語りかける。
「人並みの幸せ………願っても、決して叶うことはなかったそれを、望むなとは言えない。私だからこそ、な」
 さあ、早く、来い。


 揺れる地面。周囲からは悲鳴があがり、屋台の屋根が崩れ、祭りの場は騒然となった。
 それでも、星刻は地面へと座り込み、転んだ人々の間を掻き分けて、前へ進んでいた。
 長い揺れが続く、その間。輝く光が、町の中にはあった。その光に気づいたものが、どれほどいただろうか。己が身の安全を確保するのに必死な人々が、気づいたとは思えない。ただ、すぐ傍にいた少女達は、気づいていたようだった。
 地面に膝をつき、長い黒髪に砂埃がつくのも厭わぬように、胸元を押さえて蹲る女性。その手が押さえる胸元から、赤に近い色の光が漏れている。
 ようやく辿り着いたその時には、揺れが止み、周囲の人々は怪我がないかを確認しあい、崩れた屋台を起すべく立ち上がり、余震に備えるように、散っていく。
「星刻」
 小さな声に振り返れば、主たる天子が、カレンや神楽耶の腕の中で震えていた。どうやら、二人が一番幼い天子を守ってくれたらしい。
「天子様、一旦戻りましょう。いつまた揺れるかわかりません」
 祭りを楽しみにしていた天子には申し訳ないが、自然の驚異に勝てる道理がない。ここは、人ごみの中にいるよりも、朱禁城へ戻るのが得策だった。
「う、うん」
 天子が、悲しげに頷いたのを確認した頃、ようやく藤堂と千葉がやってきて、神楽耶とカレンに声をかける。それに大丈夫だと返事をした神楽耶が、星刻へ視線を向けた。
「黎殿、その方は…今の、光は………」
 地面の土を握り締めでもするかのように、拳を握り締めて伏せている体を抱き起こすと、かけていたサングラスが落ちる。露になったその面に、星刻とアーニャ以外の五人が、息を呑む。
「その、顔、まさか………いえ、でも………女、性?」
 神楽耶が、途切れ途切れに言葉を発する。
 こんな道の往来では、誰に知れるともわからない。早く、ここから去らねばと、意識を失っている体を抱き上げた時、すぐ側で足音がした。
 振り向けば、そこには、漆黒の姿。黒色のマントを翻し、特徴的なフォルムの仮面をつけた、世界の英雄が立っていた。
「“ゼロ”?」
「“ゼロ”様?」
 いつの間に立っていたのか、気配もなくそこに立っていた“ゼロ”の手が、ゆっくりと町の路地を示す。
「あちらへ」
 周囲の騒がしさは変わらないが、先ほどの揺れで、人の数は減ってきている。道の往来で座り込んでいれば、怪我でもしたのではないかと、目立つだろう。
 路地へと入り、“ゼロ”の行く先には、大型のトラック。荷台の中へと乗り込めば、そこにはベッドや椅子と言った設備が整っている。
「彼女をそこへ」
 言われて、星刻が抱き上げていた細い体をベッドへ下ろすと、“ゼロ”はついてきた天子、神楽耶、カレン、藤堂、千葉、アーニャへ座るように促す。
「出してください」
 “ゼロ”の声に、運転席から顔を出したのは、以前“黒の騎士団”に所属していた、篠崎咲世子だった。
 エンジンがかかり、トラックが動き出す。“ゼロ”は、膝をついていた星刻の横に立つと、星刻が腰に佩いていた剣を奪い、切っ先を喉元へ突きつけてきた。








咲世子さんも結構好きです。面白くて(笑)
最後までジェレミアにするか、咲世子さんを出すか迷いました。
でも、ジェレミアだとオレンジ畑が放置されちゃうので、咲世子さんにしました。




2009/7/26初出