*七*


 室内へ吹き込む風が、白いレースのカーテンを裾から揺らす。半分ほど開いた窓の向こうに見えるのは、青々と萌える木々、そしてそれらが支えている山々。部屋の中に微かに響くのは、指先が頁を捲る音だけ。
 穏やかな視線が頁へと注がれ、熱心に文字を読み込んでいる。そんな静けさを打ち破るように、扉が音立てて開かれる。
 それでも、視線は本のページから離されることはない。
「おい、いつまでここに篭っているつもりだ?」
 鋭く硬い声音が、部屋の主へ向けられる。だが、揺れるのは風に吹かれる長い黒髪だけだ。
「私も最初は呆然としたが、お前のそれは度を越しているぞ」
 呆れたように溜息をつき、近づいて本を取り上げれば、ようやくのように視線が上がる。彼女が入ってきた時から、指先は頁を捲っていなかった。
「聞いているのだろう?何とか言ったらどうだ?」
「………どうしろって言うんだ」
「自分で考えろ、そんなこと」
「外へ出ることは出来ないから、これでいいだろう」
 取り上げられた本を取り返し、膝の上で閉じる。
「今のお前を見て、“あの皇帝”と同じだと思う人間は、恐らくいないだろうよ」
「馬鹿なことを」
「いつまでもジェレミアの好意に甘えているわけにもいかないだろう?」
「しょっちゅうピザを食べに来ている人間が偉そうに」
「ピザは私の動力源だ」
 本を持って立ち上がり、テーブルの上にそれを置いて、カーテンを開くとテラスへと出る。
「懐かしいんだ、ここは」
「ん?」
「緑と、湖と、草原………アリエスの離宮を思い出す」
「お前………」
「今は、これでいい。世界が、安定するまでは」
 遠い眼をするその背中へ、大仰に溜息をついてみせ、そして口角を上げて、笑む。琥珀色の瞳に、悪戯な色が浮かんでいた。
「世界の安定、少し遅れるかもしれないぞ」
「どういう意味だ?」
「“黒の騎士団”に内部分裂がある」
「何故!?」
 振り返った双眸に、ありありと焦りが浮かぶ。
「お前の計画の中で、“黒の騎士団”はかなりの重要な位置を占めていたはずだ。どうする?」
「理由を、知っているのか?」
「知っているとも」
「教えろ」
「教えてもいいが、ここから出ることが条件だ。いい加減腐り続けるのをやめろ」
「………聞いてから考えてやる」
「仕方ないな」
 肩を竦めて、背中を向ける。
「“黒の騎士団”総司令殿が、辞めると言い出したそうだ」
「何だって?」
「おかげで、騎士団の中は纏まりがない。副指令と統合幕僚長だけで治められるほど、人数が少なくはないからな、今は」
「………その、理由は?」
「辞めたい理由か?そこまで知るわけがないだろう?自分で確かめろ」
「この、魔女め!」
 苛立たしげに、本の載ったテーブルを叩く姿を見て、苦笑する。
「お前だって、今は魔女じゃないか。さあ、どうする?」
「っ………それを聞いたら、尚更だ。行ってどうする。問題は自分たちで片付けるだろう」
「お前が出て行けば、解決すると思うがな?」
「どういう意味だ?」
「それも自分で確かめろ。私はそこまで優しくない」
「蓬莱島へ、行けと言うのか」
「“ゼロ”に頼めばいいじゃないか」
「あいつは今、ブリタニアにいる。ナナリーの補佐と言う形で。その計画を歪める気はない」
「なら、一人で行って来い」
「………お前は、どうするんだ?」
「私は、世界各地旨い物巡りをする」
「は?」
「ピザがこの世で一番旨い物だと思っているが、それ以外にも食べたことのないものが沢山あるからな。懐は常に潤っているし、問題はないからな」
「搾り取られるあいつが可哀想だ」
「私の財布を“ゼロ”に預けたのはお前だ」
「それがこの計画で、一番の失敗事項だ」
 額に手をやり、溜息をつく姿を見て、萌黄色の髪が扉の向こうに消える。
「じゃあな。さっさと出発しろ」
 一人残されて、深々と息を吐き、吸い込む。
「何で、そんなことに………一体、どうしたんだ、星刻」
 テーブルに載せていた本を掴み、本棚へと戻して上着を掴み、部屋を出る。長い廊下を歩いて出た屋敷の外には、燦々と降り注ぐ太陽の光が、オレンジ畑を照らしていた。


 青々とした海原に、白い漣が立つ。境目を作る船体の白さは無機質で、深く濃い海の色は、飽きる事がない。
 風に嬲られる長い黒髪が邪魔だと、後で一纏めにしたが、それでも強い風は髪を靡かせる。
「これ」
 差し出されたのは、アイスティー。高い場所で纏められた桃色の髪を一撫でして、受け取る。
「ついてこなくても、よかったんだぞ」
「護衛。これでも、元ラウンズ」
「必要、ないと思うが」
 ストローに口をつけて、一口吸う。冷たいそれが喉を伝っていくのが、心地よかった。
「緊張してる?」
「え?」
「そんな感じがする」
「………そう、かもな。アーニャが居てくれて、良かったよ」
 横で、砂糖と牛乳のたっぷり入ったアイスティーを飲んでいるアーニャを見下ろして、また海へと視線を向ける。
 繋がっているこの海の先に、裏切ってしまった男がいる。そう思うと、会うことが、怖かった。








雪は船が好きです。飛行機より断然船。
何であんな鉄の塊が空を飛ぶのか理解不能。水に浮く方が理解できる。
ので、船での移動です。
アーニャが一緒にいるのは趣味です。アーニャ好き。




2009/6/7初出