窓硝子を叩く雨は止む事がなく、重く垂れ込めた雨雲も引く気配がない。 書類の散らばった机上に置かれた電話が鳴り、受話器を上げて耳へ当てると、しばらく聞いていなかった少女の声が流れてきた。 『そちらにあいつが行っていないか?』 「いや」 挨拶もせずに、突然用件だけを切り出す声。相手が誰だか名前も言わずに意思疎通が図れるのは、それを示すのが一人しかいないと、互いに分かっているからだろうか。 『そうか。もしも何かしらコンタクトがあったら、連絡をくれ』 「何か?」 『………何日か、全く連絡が取れない状態でな。携帯電話も繋がらない』 「分かった。気にかけておこう」 『頼む』 切実な声が切れ、受話器を置く。 部屋の中央に置かれた来客用の低いテーブルの上には、二つに割れた携帯電話が置かれている。どんな力を加えたものか、見事に真ん中で割れていた。二度と、使い物にはならないだろう。 用意した服を手に持ち、脱衣室の扉を一つ叩いて開く。シャワールームから水の流れる音が聞こえ、その扉を二度、叩いた。 「服はここに置いておく」 返事はない。籠の中に服を置き、立ち去ろうとすると、背後から湯煙が流れてきた。 「ル………」 振り返ろうとする前に、背中に柔らかいものが当たる。後ろからまわされた白い腕がしがみつき、震える。細い手首には、痛々しく赤い、擦過傷。 しがみついた腕に手をかけ、そっと外し、頭から白いタオルを被せる。その時、首元に見えた赤黒い痣が、肌の白さのせいか酷く痛々しく見えた。 一体、何が………と、聞こうとして、口を噤む。言いたければ言うだろう。言わないと言うことは、聞いて欲しくないと言うことか。ならば、聞かずにいた方がいいのだろうと、かけたタオルで水気を拭う。 「君のことは誰にも言っていない。ゆっくりしていくといい」 下を向いていた顔が上がり、赤と紫の瞳が悲しげに歪み、涙が頬を伝い落ちた。 首の痣が隠れるだろうと、襟の立った黒い中華服を用意した。左目に眼帯を当てて立つその姿を、女性だと思う者はいないだろう。 「………俺が、十歳の誕生日を迎える前だった」 「ん?」 書類に落としていた視線を上げれば、眠れないのか、ソファに座り込んだ姿があった。 「母が殺され、妹が足と目を失い、一人生き残って悄然としている俺を、兄が抱いた」 「なっ………」 「おかしいだろう?例え半分しか血が繋がっていないとは言え、兄妹だぞ?最初は、何をされているのか、分からなかった」 突然の告白に、走らせていたペンも止まる。 「それが何だか知ったのは、日本に来てからだ。それが、おかしいことだったんだと、言うことも………」 空を見つめている瞳は、今、本当に何を見ているのか。自分を抱いたと言う兄の顔か、それともその時の絶望と悲しみか…表情の消えた青白い横顔からは、何も窺い知ることは出来ない。 「日本へ来て、初めて友人が出来た。妹もあいつを、好いて…だから、親愛の証だと、頬へキスをした。ブリタニアでは、普通のことだ。兄弟姉妹、家族では頬へキスをする。俺は、日本の慣習を知らなかった」 西洋と東洋の違い。文化の違い、慣習の違い、それが、大きな誤解を生む事もある。 「俺が女だと分かった途端、あいつは変貌した。“友達”から“男”に変わった」 それは、恐怖だった。“友達”をなくすことへの恐れ、“女”である自分を自覚する事への恐れ……… 「………何が、いけなかったんだろうな………俺は、ただ、守りたかっただけだ。幸せにしてやりたかっただけだ。なのに、俺は今、一人だ」 “友達”も“家族”も失った。拒絶され、排斥され、一人彷徨う絶望の中で、残ったのは痛みと苦しみだけ。 「いっそ、あのまま絞め殺せばよかったものを………馬鹿な奴」 そっと、首筋の痣に触れ、自嘲するように笑う。そのままソファに横になった細い体は、数分と経たない内に寝息を立て、眠りへと落ちていく。 軽々と抱き上げられる体を、起さないようにと抱え上げ、寝台へと寝かせた。 誰が、悪いと言うのか。 何が、悪いと言うのか。 世界の巡り果て着く場所は……… 紅く支配に縁取られた優しい瞳。向けられるのは、黒々と深い銃口。柔らかい桃色の髪が風に煽られて浮かび、悲鳴と血が迸る。 ………やめろ。やめてくれ……… 『ルルーシュ、ねえ、どうして?』 ………違う!俺のせいじゃない!! 『酷い、ルルーシュ。私、貴方のこと大好きなのに』 ひたひたと、血の滴る体。撃たれて穴の開いた腹部から、白いドレスへと滲む赤黒い血。青褪めた顔が怨嗟の言葉を吐く。 『酷い、酷い、酷い!!私が何をしたの!?』 ………許してくれ。許してくれ。すまない、すまない……… 『私を殺して、私に殺させて…』 ………ユフィ、ごめん。俺は、それでも、ユフィ……… 『何故だ!!何故なんだ、ルルーシュ!!』 ………クロヴィス兄上。それでも、俺は前に進まないと。 『私は君のことを好きだった!マリアンヌ皇妃も、ナナリーも!それなのに、何故!?』 ………貴方も、ユフィも、ブリタニア皇族。俺の敵だから。 『ルルーシュ!』 『酷いわ、ルルーシュ!』 ………ごめん。ごめん。それでも俺は、“優しい世界”を作りたいんだ。ナナリーのために。 『そうして、私も、殺すのですか?』 後ろからかけられた声に振り返れば、ゆっくりと近づいてくる車椅子。ぽたりと、その額から一筋血が流れ、淡い桃色のドレスへと滴る。 『私も、殺すのですか?“ゼロ”』 ………違う。違う。俺は!! ![]() 2008/6/3初出 |