*空隙*


 何も、覚えていなかった。
 名前も、出身も、職業も。けれど、自分が何者であるかが分からなくても、何故か、焦りはなかった。見るもの、聞くもの、触れるもの、全てが初めてで、覚える事も多く、毎日が忙しなかったからだ。
 なのに“黎星刻”と言う名前を与えられてから、焦ってばかりいる。いや、与えられた訳ではなく、それが自分の名前であると教えてもらったわけだから、元々その名前は自分のものであるのだろう。だからなのか、違和感がなく、拒絶する気持ちがなかった。
 それなのに、焦っている。名前に対して、今の自分が到底、“足りていない”と感じるからだ。何が足りていないのかは分からない。けれど、本能的にそう感じるのだ。
 それは、彼女が自分のすぐ側にいるからなのだろうか………


 写真、映像、音声、様々な物を与えられ、これが過去のお前だと言われても、信じられなかったし、理解出来なかった。いや、理解は出来るのだ。納得出来ない、と言った方が正しいのだろう。
 私を迎えに来たルルーシュという女性は、一年間、私を様々な国に連れて行った。まず出身地だという合衆国中華へ。そこで数ヶ月過ごした後、今度は合衆国日本へ。また数ヶ月過ごした後、今度は神聖ブリタニア帝国。更にまた別の国………と、滞在期間はバラバラだったが、長く過ごした国程、私の過去の人生で長く過ごした場所や関わりの深かった国だという事だった。
 けれど、だから?としか思えなかった。何も覚えていない、思い出せないのに、多くの国を巡る意味があったのだろうか?
 そして、一年経った今日、彼女は突拍子もない事を言い出した。
「住んでみたい国はあったか?」
「え?」
「興味のある国、住んでみたい国、生活しやすそうな国、何でもいい。お前の気に入る国はあったか?」
「と、言われても………」
 特別、何か深い感慨を覚えた国はない。目まぐるしい一年で、見るもの、聞くもの、触れるもの全てが、真新しかったからだ。
「お前が望むなら、どんな国にでも住めるように手配する。勿論、故郷のお前の家はそのまま維持してあるから、そこに住みたいのならそれもいいだろう」
「何故、急に?」
「最初から、一年と決めていたからな」
「何を?」
「お前を連れて歩く期間を、だ。方々で医者にも診せたが、総じて診断結果は同じ。これ以上は時間が勿体ないし、今のお前にとって大事な事は、これからを考える事だと、俺は思っている」
 突然そんなことを言われても、私には判断が出来ない。
 一年前、私に名前を教えてくれて、一緒に来るかと聞いてくれたのは、彼女だ。それなのに、今放り出されたら………
 放り出されたら?
「まあ、今日明日に決めろと言う話じゃないから、少し考えておけ。他に行ってみたい国があるなら、要望を出してもいいしな」
 話は終わりだと言わんばかりに椅子から立ち上がった彼女は、普段と何も変わらない態度で、夕飯は何がいいかと聞いてきた。


 この一年で見てきたものは、国だけではない。ほとんどの時間を彼女と過ごし、見てきて、気づいたことがある。
 彼女は、忙しい。
 仕事はしていないと言っていたが、一日に何度も彼女の携帯電話は鳴るし、電話に出て話が進むと、八割方彼女の眉間には、皺が寄る。内容は全く分からないが、大抵『俺は辞めたんだぞ』とか『俺を頼るな』とか『自分達で解決する努力をしろ』とか言っている。きっと、彼女を頼る者が多いのだろう。
 それなのに、この一年、彼女は私の側にいたのだ。それは、彼女を頼る者達から、彼女を奪った事になるのではないだろうか?それ程の価値が過去の自分に、今の自分に、どれ程あるのかが分からない。
 今の私は荷物だ。自分で働く事が出来ず、日々の生活費は、全て彼女の財布から出ている。実年齢は聞いているから、世間的に見た時に、今の自分は“ヒモ”と呼ばれる存在になるのではないだろうか?
「これは、まずいのでは?」
 ベッドの上で悶々と考えて眠れずにいたのだが、働いていない自分に、疑問を感じた事がなかった。それはきっと、病院では働く時間が決められていたし、この一年、一緒にいるルルーシュが働いている所を見たことがなかったからだ。
 このベッドも、自分の今着ているパジャマも、スリッパも、毎日の食事も、全て彼女の金で賄われているのだ。由々しき事態だ。
 慌てて飛び起き、自分の部屋を飛び出し、隣のルルーシュの部屋の扉を軽く叩くと、中から入室を促す声が聞こえた。とうに日付の変わった時刻だというのに、彼女は起きていたらしい。
「どうした?」
 彼女の部屋は、面白い。何の飾り気も、物もない自分の部屋とは違い、何台もパーソナルコンピューターやそれに付随するよく分からない機械がある。ごちゃごちゃしている様に見えて、整理整頓が行き届いている。
「働きたい」
「は?」
「私は、今、全てを君に頼っている。昼間、住んでみたい国を聞かれたが、そもそもその前に、働く事を覚えるべきだと思う」
「………………確かに、一理あるな」
「記憶のない私でも、働ける場所というのはあるのだろうか?」
「記憶云々は然程問題ないと思うがな………そうだな。まずは、面接を受けてみたらどうだ?」
「面接?」
「俺も、社会に出て真っ当に働いた事はないからあまりアドバイスが出来ないが、やってみたい仕事や興味のあるものがあるのか?」
「特別、これと言ってはないが、けれど、働かないと言うのは、なしだと思う」
「なら、まずアルバイトから経験するのがいいんじゃないか?」
「アルバイト?」
「ああ。でも、そうするとこの国では言葉が少し不自由だしな………やはり、お前の生まれ育った国がいいだろう。一度、合衆国中華へ戻るか」
「言葉が不自由なのは良くないのか?」
「言葉と言うのはコミュニケーションだ。どんな仕事をするにしても、まずコミュニケーションが必須になる。誰とも話さず、コミュニケーションを取らずに成立する仕事と言うのは、どうしても限られてくるからな。お前が得意なのはやはり、中華の言葉とブリタニアの言葉だろう?」
「今話しているのはブリタニア語だ」
「だから、一度帰る。今週中には移動できるよう、荷物を纏めておけ」
「いいのか?」
 自分の問いかけに彼女は頷き、微笑んだ。
「いいさ。お前、気づいているか?」
「何を?」
「お前が、自分から何かをしたいと言ったのは、今の“働きたい”が初めてだぞ」
「そう、なのか?」
「やりたいことがあるのはいいことだ。それは欲だからな」
「欲?」
「何かが食べたい、買いたい、眠りたい、勿論働きたいと言う意思も含めて、求める欲があることは、人間らしい事の一つだ。この一年、お前は俺に連れられているばかりで、そう言う事を言わなかったからな。受動的で、能動的じゃなかった」
 彼女の言葉は、時々難しいことがある。それでも、自分の意思を受け入れて貰ったのだという事は、理解出来た。
「この分なら、その内独り立ち出来るかもな」
「独り立ち?」
「ずっと一緒にいるわけにはいかないだろ?」
 私が彼女と一緒にいるのは、良くないことなのだろうか?









ルルーシュが星刻を迎えに行った後どうなったのか、です。
ルルーシュとしては星刻の視力が失われる前に色々見せよう、と言う思惑ですね。
記憶のない星刻は少し情緒が足りてない感じでしょうか。
情緒が足りないので、思考が一直線というか。
なので、仕事してない=ヒモになってしまう、と(苦笑)
前後編なので、後もう一話あります。





2024/9/21初出