*昏黒*


 ドレスは焼いた。長い髪も短く切った。そして、贈られた花冠は塵箱へと、捨てた。
 双眸の光を奪われ、小鹿のような双脚を失い、笑顔を失ってしまった妹の手を、そっと包み込むように、けれど強く握る。
「ナナリー、今日から僕は、お前の兄だ」
「お姉様?」
「違う。僕のことは、兄と呼ぶんだ」
「どうしてですか?」
「僕達のためだ。僕は、今日から男として生きる。誰にも僕達を傷つけさせない為に、僕達が生き抜くために、僕は男になるんだ」
「でも………」
「触ってごらん」
 言いながら、妹の手を導き、自分の頭へ、肩へ、そして着ている衣服へと触らせる。
「お姉様、髪が!それに、お洋服も」
「そうだ。分かっただろう?僕はもう、女の子じゃないんだ。日本へも、皇子として行くことを伝えてある」
「お姉様、お姉様!」
 妹の腕が、縋るように伸びてくる。その腕の中に包まれてやるように、体を預ければ、小さな手が必死に背中にしがみつく。
 包まれてやっているようでいて、実際は自分が、妹の小さな手に温かく迎えられているのだと、分かっていた。
「此処を出た瞬間から、僕は兄なんだ。いいね?」
「………分かりました。これで、最後にしますね、お姉様」
 笑顔を失った妹が、必死に、笑顔を見せようと、それでも涙を零しながら、目元を、口元を、綻ばせた。
 妹を守り、そして、生き抜く。その為ならば、自分の性別など、簡単に捨てられた。周りを騙すことに、罪悪感など抱かない。
 けれど、只一つ、最愛の妹に嘘をつかせることだけは、心苦しかった。
 それでも、生きることを決めた。
 生まれた時から死んでいるのだと投げつけられた言葉に、否を唱えるために。
「僕は、生きる。僕達は生きるんだよ、ナナリー」
「はい!」
 硬く結ばれた妹の唇が、自分と同じ決意を宿していた。


 その日、世界は闇に閉ざされた。空は、憎らしいほどの夏の青空だったと言うのに。いや、だから、というべきか。
 父を亡くし、宙へと放り出されたように下級の身分へと落とされ、日々を無為に過ごしていた自分にとって、たった一つ、心の拠り所であったものが消えたのだ。
 もう、二度と手の届かない場所へと、亡くなってしまった。
 これから、何を目的に生きればいい?何を目指して日々を過ごせばいい?光を失い、闇に閉ざされた自分の世界に、それでも、天は一筋の光を指し示した。
 彼女の優しさと同じものが、まだ、この歪み澱んだ政治の中枢にも、ある。父を殺し、自分を絶望させ、奈落の底でもがかせた、この場所に。
 小さな体を震わせ、その双眸に今にも落ちそうな涙を浮かべて、それでも真直ぐに己の意思を口にする、この国の、主。
 己が住まう国に絶望していたのは、自分自身だ。だが、まだ光はある。微かで、今にも消え失せそうではあるが、それでも、小さく強く、光ろうとしている。
 ならば、立ち上がらなければならない。
 この腕に剣を、盾を、力を、強さを。
 あの優しさへと何一つ返せなかった己の愚かさを、帳消しに出来るなどとは欠片も考えていない。むしろ、代わりを求めているだけなのだと、それすら理解していた。
 それでも、必要だったのだ。
 生きていく為に、前へと進む為に。
 崩れ落ちそうな心を、体を、誤魔化して叱咤して、光を掴む為に。
「私は、生きる」
 枯れてしまった白い薔薇を、本の間に挟んで、閉じ込める。
 二度と、開くつもりはなかった。


 西の空が夕暮れに染まり、東の空から徐々に藍色の夜色が迫る時刻。音を立てて燃える焚き火の音が、空しく響く。
 汚れたシャツも、ズボンも、気にしている余裕はないというのに、目の前で燃える火が木々を燃やし尽くす音だけが、耳に入る。
 どうして、何故、そう問う声が何度も、何度も心の内で響いている。けれど、それに答える声は、ない。答えなど、ないのだ。
 所詮、自分は子供で、何の力も持たない小さな存在なのだ。
 生きることが、精一杯なだけの。
 けれど、いつか、もしかしたら、もう少し大人になったその時に、自分の願いを叶えることが出来るかもしれない。
 いや、叶えるのではない。掴み取るのだ。そのためには、今、此処で立ち止まっているわけにはいかない。
「さよならだ、スザク」
「ルルーシュ?」
「僕達は行く。丁度、迎えも来たようだし」
 でこぼこになってしまった道路を走ってきた一台の車が、ゆっくりと停車する。
「また、会えるよな?」
 座っていたスザクが立ち上がり、まるで、縋るような目でルルーシュを見る。けれど、ルルーシュは頷かなかった。
「生きていれば、会えるだろう」
「そんな、言い方………」
「こんな状況だ。何処で何があるかわからない。君も、考えて行動した方がいい。君は、枢木首相の息子なんだから」
「っ!」
「きっと、その言葉は、何処までも君について回るはずだ」
「………分かってる」
 分かっていない。だから、そんな、泣きそうな顔をする。握り締めた拳は、今何も出来ないことを知っているのに。
「それじゃあ」
「ああ」
 車へ向かって一歩を踏み出し、二歩、三歩と歩き出した所で、腕を掴まれる。
「ルルーシュ!俺、俺は………お前のこと」
「友達になってくれて、感謝する」
「ルルーシュ………」
「きっと、ナナリーもそう思っている。友達が出来た、って」
「………そう、そうだな。友達だった」
「じゃあな」
 それ以上の、言葉はなかった。腕は離され軽くなり、前へ進むための錘はなくなった。
 不安そうに車椅子に座ったまま、膝の上で両手を握り締めていた妹へ近づき、膝をついてそっと、その両手を握り締める。
「さあ、ナナリー。行こうか」
「何処へですか?」
「安全な所へ、だ。迎えが来た」
「お迎え?」
「そうだよ。あの時言ったね?僕達は生きるんだと」
「はい」
「生きる為に、此処を離れる」
「分かりました」
 車椅子の後ろへ回り、ゆっくりと車へ向かって歩く。道は悪く、彼方此方が抉られ、何の物か分からない鉄の残骸が落ちている。戦争の、爪痕だ。
 車へ乗り込み、振り返った運転手の顔を見て驚く。
「アッシュフォードの………」
「はい。お迎えに上がりました。お二人は、アッシュフォード家で保護させて頂きます。ですが」
「何だ?」
「お二人は、お亡くなりになったと、本国には伝えさせていただきました」
「………構わない。むしろ、僕達は死んだことにしてくれ。もう、争いに巻き込まれるのは御免だ。市民として生きられるのならば、それでいい」
「お兄様………」
「承知いたしました」
 車が、発進する。無事に車が安全な場所へ到着するまで、ずっと、妹とお互いの手を、握り合っていた。















2018/12/30初出