*緑雨*


 数年ぶりに足を踏み入れたそこは、荒廃していた。手入れのされなくなった庭の草木は伸び放題に伸び、花なのか、草なのか区別がつかない。庭の中にあったはずの、建物へ繋がる石畳の場所すら曖昧だ。石の隙間に入り込み、芽を出した雑草も多くあるのだろう。
 腰ほどの丈にまで伸びきった草を掻き分けて漸う辿り着いた屋敷の屋根にも、草が生えている。崩れかかかっている瓦すら一部に見受けられる。かつては丁寧に手入れがされていたはずの、石の廊下のあちこちに歪みや亀裂が生じ、歩きにくいことこの上ない。けれど、尚酷かったのは、屋敷の内部だ。扉の蝶番が壊れて傾き、隙間風が年中入り込んだ室内には蜘蛛の巣が張り、埃が積もり、割れた皿や茶器などは床に落ち、机の脚は朽ちて折れている。
 此処は、かつて星刻の家だった。いや、正確には代々、黎家の当主が住まう家だったのだ。だが、実直だった父が陰謀で殺され、家も、土地も、奪われた。その間に、ここまで荒廃した。或いは、盗人でも入り込んだのかもしれない。金になりそうなものなどはさしてなかったはずだが、食器をしまっておいたはずの棚の中が、空になっている。陶磁類は売れると考えられたのだろう。
「空しいものだな」
 一人呟いて、屋敷を奥へ進む。
 大宦官付の武官となり、信用を得ることが出来たのか、或いは飴でも与えておけとでも思われたのか、唐突に、この場所は星刻に返されたのだ。家も、土地も、丸ごと。
「手入れには、相当時間がかかるな」
 直すところはあちらこちらにある。何処から手をつけるべきか、それともいっそ建て直してしまうべきなのか………考えながら歩いて辿り着いた先に、小さな中庭がある。本当に小さな中庭だ。屋敷を囲む壁と、建物の間に挟まれた。けれど、父は此処で花を育てることを好んだ。父の書斎から、この中庭が見えたからだ。だが、その中庭も無残に荒れ果て、花など一つも咲いていない。日当たりも悪かったのだろう、じめじめとしたその場所には、苔のようなものが生えていた。
 屋敷の近くに、高層ビルが建てられたからだ。まるで、日など当たらせない、とでも言うように。確か、このビルも大宦官の肝いりで建てられたのではなかったか………些細な楽しみを奪われた父が、哀れだった。
 自然と、足はその父が寝泊りしていた書斎へと向いた。本当に小さな子供の頃は、本ばかりが並んだ暗い部屋に見えたものだが、今はどうなっているのか………本すら、盗まれているだろうか。
 書斎の扉の取っ手は破壊され、蹴破られでもしたかのように内側へとひしゃげていた。中はやはり、埃が充満し、黴臭いように感じた。だが、考えていた以上に、室内の物は盗られていなかった。
 父が使っていた机と椅子、粗末な寝台、そして壁中を巡らす様に取り付けられた本棚。荒らされている棚もあるが、荒らされていない棚もある。盗人に、本の価値は分からなかったのか、乱雑に床に放り投げられている書籍が数冊あった。
 その内の一冊を拾い上げて埃を払えば、何となく記憶にある、病で早くに亡くなった母が読み聞かせてくれた、児童書だった。
 遠い、遠すぎる記憶だ。母の顔すらおぼろげだ。ほとんど、覚えていない。それでも、父は取っておいたのだろう。
 思い出として。
「母上………父上………」
 此処から、本当の意味で自分は、這い上がらなければならない。この国の政治基盤を建て直すために。本来あるべき形へと戻すために。
 自分に命を与えてくれた天子様に、その命をお返しするために。
 拾った本を戻す場所が分からず、とりあえず父の机の上に置く。と、星刻は、奇妙な違和感に囚われた。
 この部屋はこんな間取りだっただろうか?もっと、机や椅子の位置は、違った気がするような………子供の視線で見ていたから、違和感を覚えるのか………
「違う」
 それは、直感だった。父の机と椅子は、この位置ではなかった。荒らされた際に動かされたのだろう。それ自体は、どうということはないことだ。けれど、何かが、引っかかった。これは違う、と。
 椅子を退け、記憶の中の机のあった場所へと、大きな音を立てながら押して戻し、椅子を置く。すると、机と椅子は、中庭の見えない位置へと移動してしまった。
 中庭を見るのを好んでいたはずの父が、中庭に背を向ける形になるのだ。寝台から見えたのか?それも違う。寝台の側には壁があるため、中庭は直接見えない。
 父は、本棚を見ていたのか?そこまで本好きではなかったはずだが………そうだ。そもそもそこがおかしい。幾ら書斎とはいえ、この部屋には、何故こんなにも本が沢山あるのだ?父一人で集めたにしては多すぎる。代々の当主が集めていたのだろう。
 椅子を引いて埃を払って座り、本棚を見れば、その正面には、何かの全集のような、分厚い本が何冊も並んでいる。きちんと刊行された順番なのだろう、番号が振られている。
「数字………」
 そういえば、子供の頃から繰り返し聞かされた言葉がある。
『星刻、教えを数字で覚えなさい』
 意味は知らない。ただ、繰り返し、繰り返しそれを言われたのだ。今でも、それが何を意味しているのかはわからない。けれど、もしも、意味のあることなのだとしたら………
 立ち上がり、本棚の前に立った星刻は、本に降り積もった埃を払った。
「教えを数字で覚えなさい………順番は、確か………五、九………」
 言われて覚えた通りの順番に、本を抜いていく。抜いたのは、四冊。すると、一棚分の本棚が、右へとずれた。本を抜いた棚ではない。その横の本棚が、ずれたのだ。人一人がようやく通れるような、隙間が現れた。
「何だ、これは?」
 微かだが、石の階段のようなものが、地下へと向かって伸びているのが見える。
「明かりが必要だな」
 この部屋に、明かり代わりになりそうな物はなかった。仕方なく。携帯電話の明かりを使い、階段へと足を踏み出した。
 星刻一人が通るのがやっとの、細い抜け道のような場所だ。だが、下るにつれて段々と道は広さを増していく。そして、到着した正面は、行き止まりのように見えた。
 しかし、このような仕掛けでもって隠していた場所だ。この先に何かがあるはず。そう考え、行き止まりの壁を明かりで照らしながら手探りで探っていると、拳大の穴が見つかった。躊躇なく手を入れると、そこに突き出した棒のようなものがある。握って前後左右に動かしてみると、行き止まりに見えた壁が動き出した。
「また、扉?」
 石壁で隠されていたその先に、更に扉がある。だが、それは鋼鉄の扉で、銀行などにある金庫のような丸い取っ手がついていた。
 鍵がかかっていたらこれ以上は進めないだろうが、どうせ此処まで来たのだから、と力をこめて回した。長いこと使われていなかったせいで、軋みの音が凄かった。
 だが、何とか回転しきった取っ手を、奥へと押すと、重い音を響かせて開いた。
 そして、その先には更なる長い、長い通路があった。これ以上進むのは、面倒ごとに巻き込まれそうになるかもしれない、と感じた星刻は、扉を閉めようとした。
 だが、一つの足音が星刻の手を止めさせた。
「おい、そこの男!私が通り抜けたらすぐに閉めろ!」
 居丈高な少女の声に驚いていると、風のように、緑色の髪の少女が星刻の横をすり抜けた。慌てて扉を閉め、取っ手を回し、石壁の扉を元へ戻してしまう。
「ここは、何処へ繋がっている?」
「ん?貴様は黎家の当主だろう?知っていて開けたのではないのか?」
「今日、ようやくこの屋敷へ戻ってきた、黎星刻と言う」
「新しい当主か。なら、この私が直々に教えてやろう。知らん方がいいかもしれないが」
 少女は、名を、C.C.と答えた。















2019/2/27初出