*渇望する精神、その憧憬-V-*


 肺の中を満たす、新鮮な酸素。そして、排出されていく凝った二酸化炭素。呼吸の有無を確認し、眼を覚まし、思考を動かす。まるで、油を差されてようやく動く機械のように、緩慢な目覚め。血液中が沸き立ち、一度は停止したはずの心の臓が、幾度目か、歓喜に震えて動き出す。
 瞼が震え、持ち上がり、眼球が形を捉える。一つ息を吐き出し、肘をついて体を起こせば、重く、気だるかった。
 まだ、見慣れない風景。天井の色も、シーツの色も、布団の色も、壁の色も…全てが、まるで夢の中ででもあるかのように、現実感を伴わず、そして、白昼夢のような時間を連れて来る。
 それは、幸せだった時間、穏やかだった場所。今はないそれを思い出しては感傷に浸るのは、人の悪い癖だろうか…いや、人ではない自分にそれは当て嵌まらない。むしろ、人間以上に永い時を生きているからこそ、捕らえられて逃げられないとでも言えようか…
 自嘲してベッドから降り、サイドテーブルに置かれた小さなランプに明かりを点ける。小さなボタン一つ押すだけで明かりが点るようになったこの時代を、便利な時代になったと思う反面、機械的で単調なものだと思う。趣がなく、手間がない分、空いた時間に有効性が見出せない。
「…永く生きるのも、考え物だな」
 呟いて、明かりを消そうと、指先に視線を落とす。そこに、二つ折りにされた紙片が置かれていた。
 摘み上げて広げると、粗雑な字体で一言、“出かけてくる”と書かれている。誰が書いたのかなど、問わずとも分かる。何しろ、自分に何かを残す者など、今現在、一人しかいないからだ。
「俺も、出かけるか」
 まだ、まともにこの国を見てもいない。かつて一度来た時は、幾度か外へ出かけたが、もう、覚えてもいなかった。それだけ、印象に薄いのだろう。
 クローゼットの中に並んでいる服を一着、無造作に抜いて着替える。白いシャツは糊が利いていて、気分が引き締まった。
 窓を開ければ、涼しい夜気が流れてくる。少し視線をずらせば、人目を避けるように建てられた家屋を囲む森の向こうに、煌びやかなネオンが輝いている。そして、そのさらに向こう側には、明かりのつかない、虚無を内包した残骸の街が広がる。
 かつて、夜は自分たちの味方だった。姿を隠し、気配を隠し、正体を隠す役に立った。だが、今、夜は全て人間の味方についた。人工のネオンで輝く夜に眠りは訪れず、月明かりよりも明るいそれらが、月や星の輝きを奪い取ってしまう。
「この国で言う所の、風情か…それが、全くないな」
 無骨で無頼。人間を少し、哀れに思った。


 夜八時過ぎ。まだ、往来から人の気配が消えることはない。だが、それはいわゆる租界に限ったことだけであって、ゲットーに関して言えば、人の気配はないに等しかった。ただし、潜んでいるような気配は、多々感じる事が出来るのだが。
 朝からニュースを騒がせているのは、レジスタンス・テロ組織壊滅後のゲットーの開発プロジェクトのために、極秘に視察に出ていた視察団が、テロによって壊滅したと言うニュースだった。そして、その中に、プロジェクトの総指揮官であった、ブリタニアの第三皇子、クロヴィスがいたとの情報が確実視されていることから、第二皇子、シュナイゼル・エル・ブリタニアが本国から派遣されてくると言うニュースが、早くも流れている。
 租界の中心的な繁華街に設置された大画面のスクリーンに、繰り返し映されるそのニュースを、ルルーシュは眺めていた。ルルーシュ以外にも、幾人もの人々が見上げ、側にいる知人友人などと、意見を交わしている。その中に、イレブン―日本人は見当たらなかった。もしもこの中にスザクがいれば、かなり目立つだろうことは予測できたが、見当たらないのだから、いないのだろう。
「あいつは何処まで行ったんだ?」
 行先位書いていけばいいものを…と、嘆息し、スクリーンから視線を外す。
 どうせ出てきたのだから、昨日飲み終えてしまったワインと近い年代のワインでも探そうと、ルルーシュは歩き出した。
 既に、今見聞きしたばかりのニュースのことなど、記憶の彼方に追いやっていた。


 黒塗りの車。ゆっくりと規定速度で走るその車のウィンドウが、少しばかり開き、薄い青が眇められる。
「あれは…」
 小さく呟いた男の声を、横にいた男が聞きとがめる。
「殿下、何か?」
「いや…何でもない。大分、開発が進んでいるようだ」
 男は、ウィンドウを閉めながら、視線を車内に戻す。
「はい。それは、勿論、クロヴィス殿下の尽力あってのものです」
「…それで、クロヴィスは?」
「今は、集中治療室で」
「助かる見込みは?」
「確実な事は言えませんが、肺と心臓がかなりのダメージを受けているとのことで…医師達が全力を尽くしてはいるのですが…」
「そうか」
 男は、少しばかり眼を伏せ、背凭れへと、背を預ける。
「また、家族を失うのか…」
「殿下…」
 男の辛そうな声に、部下の男が視線を外す。だが、男の視界にはそもそも、部下の男など、入ってはいなかった。それよりも、先ほど見かけた雑踏の中の一人の後姿が、脳裏に焼きついて離れなかった。


 ゲットー。ブリタニア帝国の圧制に屈することなく、テロ活動、レジスタンス活動を内包する、ブリタニア帝国から見た場合の、悪の巣窟。ニュースで流れた通りのテロ現場には、今なお、多くのブリタニア軍兵士や警官が集まり、検分や証拠収集に奔走していた。
 そんな、ゲットーの一角。テロのあった場所から、一キロと離れていない場所で、別に起きた事件があった。テロに隠れるようにして起きた事件は、誰に知られることもなく、ニュースになることもなかった。だが、確かにそこには、数名のブリタニア軍服を着た兵士達の死骸が転がり、血溜まりが出来ている。そして、奇妙に割れた、卵のような白い大きなカプセルが残されていた。
 いつ、この惨劇が起きたのか…どれだけの時間が経ったのか誰も知らない頃、血溜まりの中に転がっている通信機と思しき機械から、ノイズ混じりの声が零れた。
『応答せよ…応答せよ…特殊部隊A班、現状の報告を…』
 虚しく、機械から零れる声だけが、そこに反響した。












2007/10/17初出