*渇望する精神、その憧憬-\-*


 決裁待ちの書類への押印などと言う仕事は、本来、秘書や部下がやる仕事で、総督自らがこなすような責務ではない。だが、自分の知らない所で、自分の知らない案件が進んでいるなどと言うことは真っ平御免だと言う考えのシュナイゼルは、どんなに瑣末な書類であっても、決裁待ちの書類へは、一通り軽く眼を通す事にしていた。
 クロヴィスの死後、溜まっていたそう言う類の書類に囲まれて、シュナイゼルはその日、執務室から出なかった。故に、内側から扉に鍵がかかり、ただ窓が開け広げになった、政庁の総督執務室から、シュナイゼルの姿が忽然と消えたその不思議は、様々な憶測と風聞をもたらした。


 その日、突然の来客は無礼にも、窓からやってきた。それは、可愛らしく鳥だとか蝶だとかではなく、生身の人間だった。
 そこは、その建物の最上階に位置し、最も侵入困難な場所にある、総督の執務室。その窓が開いていようと、せいぜい入ってくるのは鳥か蝶くらいなもので、空気の入れ替えにあけていたとしても、何ら不思議はない。まさか、そんな場所から人間が入って来ようなどとは、思わないからだ。
 だが、その人物は、息一つ切らせず、何の苦もなく、道具も使わずに、政庁の壁を最上階まで登り、そこへと到達した。
 勿論、その執務室を使うのは、現在エリア11の総督を務めるシュナイゼル・エル・ブリタニアしかいない。そして彼は、眼を見張って驚いた。
「君は…」
 音もなく、窓から入ってきて床へと足を下ろし、隙なく銃を握ったのは、昨夜見た少年だった。
「話をしに来ただけです。人は呼ばないで下さい」
「…いいだろう。なら、その銃をおろしてはくれないか?お茶でもいかがかな?」
「遠慮します」
 浮かせた腰を下ろし、椅子を回転させて、近づいてきた少年を見上げる。“彼”と外見年齢的には変わらないのか…と、少し、驚いた。
「それで、話、とは?」
「驚かないんですか?」
「驚いているよ。まさか、窓から人が入ってくるとは思わなかったからね…いや、君は人ではないのかな?いや、しかし日の下を歩いているし、吸血鬼でも、ない?」
「ルルーシュが吸血鬼だと知っていて、彼を此処へ誘拐したんですか?」
「誘拐などとは人聞きが悪い…部下に頼んで、丁重に連れてきてもらっただけだ。脅したわけでもないし」
「何故、彼を?」
「……君にそれを話して、何か私にメリットがあるのかな?」
「さあ。けれど、もし、この先障害になるのなら、今ここで、この銃で、貴方を殺します」
「では、私が障害にならないと知ったら、もう一度彼と、会わせてくれるかな?」
「…内容にもよりますけど」
「とりあえず、交渉成立、ということでいいかな?」
 それまで下ろさなかった銃を、スザクは初めて下ろし、安全装置を嵌めた。


 喉が渇く。水などでは到底収まる事のない、喉の渇きが襲い来る。
 静かに眼を覚ましたルルーシュは、何かを探すように視線を彷徨わせ、腕を動かした。
「ルルーシュ」
「…C.C.か…何だ?」
「私は、やはり身を隠す。ここにいては、お前たちに迷惑がかかるだろう?それに、各国に散在している子供達にも、危険を伝えなければ」
 見下ろしてくる、その寂しげな憂いある眼を見上げ、小さく笑う。
「さっさと行け。俺はお前などいなくても問題はない」
「そうか。それなら、いい。気をつけろよ」
「簡単に捕まったお前には、言われたくないな」
「そうだな」
 軽く肩を竦めて、C.C.は、静かに顔を横になったままのルルーシュに近づけた。軽く、頬に触れたキスは、遠い昔、母や妹と交わしたものに似ていた。
「お前が、最後の子供だ。もう、造る気はない。お前を見て、吸血鬼化が必ずしも好ましいものだとは、思えなくなったからな」
 死にたくない…死にたくないと、ただそれだけを恨み言のように口にして手を伸ばした子供に、何の説明もなしに与えた再生の血は、結果、彼を二度、苦しめる事になった。一度失った家族を、二度、失って。
「早く起きろよ。ナナリーに、花を買いに行くのだろう?」
「ああ、起きるさ」
 億劫そうに体を起こしたルルーシュの頭を、まるで幼子にしてやるように撫でると、C.C.はそのまま、濃紺に白い月の上る夜空の下へと、窓から身を躍らせた。
 ルルーシュは小さく舌打ちし、ベッドから降りた。


 ただ、君に、死んで欲しくなかった。
 死にたい、死にたいと、願い悲しむ君を、見たくはなかった。
 ならば、鎖をつけてしまえばいい。自分が死ぬ事で、誰かの命を奪う事になるのならば、その“誰か”を増やせばいい。
 そうすれば、きっと、君は死ねなくなる。どんなに罵ろうと、恨もうと、憎もうと、君は生きるのをやめられなくなる。
 君は、優しいから…


 一筋の日の光も、月の光さえも届かない暗いそこに、ひっそりと置かれた黒檀の棺。それに凭れ掛かるように眼を閉じている姿を見つけ、近づく。
「ルルーシュ」
 柔らかい髪に触れ、梳くように撫でていると、瞼の下から紫色の瞳が覗く。
「花束、買ってきたよ」
 ピンクの花を中心に可愛く纏められた花束を差し出せば、凭れ掛かっていた体を起こし、黒檀の棺の蓋へと手をかける。ゆっくりとずらしながら半分ほど開いたそこへ、受け取った花束を入れる。
「ナナリー。スザクが花束を買ってきてくれた。よかったな」
 まるで、そこに人が誰か入ってでもいるかのように話しかけるその姿は、狂人にも似ていた。だが、その眦からは、薄く一筋、涙が零れている。
 こんなにも美しい狂人が、いるわけはなかった。
 音もなく閉められた棺から手を離し、ルルーシュが立ち上がる。もう、その頬に、涙はない。
「で?何処へ行っていたんだ?」
「ん?ちょっと、人に会いに」
「誰に?」
「会えば分かるよ」
 訝しげなルルーシュを連れて、真っ暗な屋敷の中を歩く。明かりの乏しい屋敷の中は、ともすれば漆黒の闇に包まれそうになるが、それでも時折雲間から顔を覗かせる月光が、窓から入りこんでは、その闇を払拭してくれる。
 扉を開けて、先に行くスザクに続いて足を踏み込んだ居間のソファに、悠然と足を組む、シュナイゼルの姿があった。












2007/11/28初出