うっそりと、地面から霧が立ち上がり、視界を遮るかのような、そんな雨。 音もなく降り注ぐその雨は、しかし、奇妙なことに、快晴の空から降りてくる。 霧と、雨と、青空と。そんな、人気のない石畳の道で、一人、ぽつりと立っている。 だが、何処か遠くから、微かに、鈴の音のようなものが聞こえる。 規則的に、ちりん、ちりん、と。 そして、それに合わせるような、ことり、ことり、と言う音が。 そうして、鈍重な身体を動かして、その音のする方向へ首を巡らそうとする前に、その音は、目の前までたどり着いた。 白無垢の、花嫁衣裳。 だが、その花嫁は、やけに背丈が小さく、背も丸まって見える。これから嫁入りをしようと言うには、あまりに、暗く澱んだ姿のように見えた。 だが、花嫁の持った扇の先についた鈴が、先程の音の正体で、また、花嫁の履いている高下駄が、その鈴の音に合わせているように聞こえたのだろう。 ふと、その花嫁が、こちらへ顔を向けたように見えた。 だが、次の瞬間、彼の目の前に、真っ白に塗られた奇妙な顔が近づいていた。 それが、狐の面だと言うことに気付くまでに、数秒を要し、また、それをつけたのが、この行列の主役である花嫁だと気付くまで、更に数秒を要した。 何と、奇妙な行列だろう。よくよく見てみれば、花嫁の手を引いていた仲人も、その後ろを歩く両親も、皆が皆、狐の面をつけているではないか。 何と、奇怪な…そう彼が思った瞬間、まるで狐面の表情が動き、にぃ、と、笑った心持がした。 『もうすぐ、参ります故…』 ぞっと、背筋を駆け抜けた悪寒を、彼が感ずるか否かの内に、その花嫁行列は、煙の如くに、消え去っていた。 一息に飲み干され、空になった湯呑みの底で、残ってこびりついた茶葉の欠片。 それを覗き込むようにしていた男は、湯呑みを畳の上に置くと、掻いた胡坐の上に、肘を乗せ、少し前へと身を乗り出した。 「で、まぁた、そんな幻を見たってか?」 「ああ…」 「お前もなぁ、地に足をつけないから、そんなに変なものばかりを見るようになるんだ」 呆れつつ、豪快に頭を掻き毟る。そうした粗野な行動が似合うにも関わらず、この男は着物を着崩して、洒落た雰囲気を醸しだす。 「そんなに、私は地に足がついていないだろうか…」 「ついていないね。あっちへふらふら、こっちへふらふら、少し眼を離すと、とんでもない場所へ行きやがる。 大体、その幻を見たのだって、結局昨日、俺と逸れたからじゃねぇか」 「あれは、君の歩くのが速いから…」 「お前さんが遅いんだよ!」 胡坐の上から肘を退かし、今度は後へ両手をついて、背を反らす。 「ったくよぉ…折角連れて行ってやったってのに、お前さんはいなくなっちまうし…で、今日は如何するよ?」 「……遠慮しておくよ。私には、ああ言った場所は、似合わないから…」 「そうかい。ま、気が向いたら何時でも声をかけろよ」 「すまないな。わざわざ足を運んで貰って」 「家にまで帰り着いてないじゃないかと、気が気じゃなかったんでな」 後へ倒していた体を起こし、肩を竦めて立ち上がると、着物の裾をはらう。 「それじゃあ、また来らぁ」 「ああ、また…」 せっかちに部屋を出て行った男は、開きっぱなしだった障子戸に手をかける。幾度が右へ、左へ、戸を滑らせる。 立て付けの悪い障子戸が、湿った音を立てて、ようやく閉まった。 それを見て、友人の去った後に残された、茶渋のこびり付いた茶碗を片付ける。 陰に篭りすぎる自分を心配し、友人が昨夜連れ出してくれたのは、所謂、花街だった。 だが、自分は彼と逸れ、そして、幻を見た。いつも夢中で見る、狐面の花嫁の夢と、酷く似通った幻を。 しとしとと、降る雨。何もない、ただ空が泣く曇り空だけが、人気のない細い道を見下ろしている。 色取り取りの傘が道を埋め尽くすこともなければ、雨に喜ぶ子供の姿もない。 草履が、水溜りの中の水を跳ねさせる。 ぱしゃり。 音に反応したのか、影に反応したのか、その傘が動いた。 赤い、唐笠。 濃い、血の色。 ちらりと覗く、少し伸びた黒い前髪。 木箱の上に座り、跣(はだし)の足を水溜りの中へと伸ばし、跳ね上げる。 微かな泥の混じった水滴が、裾に飛ぶ。 唐笠の赤の奥に見えるのは、先の見えない路地の闇。ぽっかりと口を開けたそれは、誘う事すら忘れた、忘却の闇だった。 人の気配は、全くしない。 「濡れているよ」 見えない表情。そして、耳に届いたのは、微かな、鈴の鳴るような声音で、端的に発された、事実だった。 そう。確かに、彼は濡れていた。 傘を、持っていなかったから。 濡れ猫、濡れ犬、濡れ鼠… 額に張り付く前髪をかきあげ、雨に濡れた顔を、濡れた袖で拭う。ずしりと、袖が重くなった。 しとしとと、雨が降る。 小雨にもならねば、大降りにもならぬ。 変わらぬ、進まない時間。 「怖いのなら、引き返せばいい」 妙に大人びた口調で、話す。 傘が高く掲げられ、現れたのは、狐面。 「こーん、こーん。狐が鳴くよ。お客様をお饗(もてなし)。手を繋ぎ 輪に招かんと お饗」 くる、くる、くる、と、傘が回る。 「またおいで、お客さん。何時でも歓迎致しますよ」 とん、と軽く木箱から飛び降りて、狐面が近づく。 視界いっぱいに赤と白の色が広がる。 狐面の口が、彼の唇に軽く触れ、離れた。 赤い傘が、狐面を隠す。 ことりと、水溜りの中に落ちた狐面が、水分を吸って、ふにゃける。 それまで、彼はそこを動かなかった。 動けなかった。 その噂を、聞きつけたのは、一体、何処でだったのか、今はもう、思い出せない。だが、気に掛かるほどには、耳に残った。 幻燈の町。そこには、ないものはない、そういう話だった。 悲しみも、苦しみも、切なさも、寂しさも…負に働く感情の一切がないという噂。 嬉しさ、楽しさ、暖かさ…正に働く感情で満ち溢れているという噂。 本当にそんな町があるのなら見てみたい、行ってみたいと願った。 そうすれば、この身の内に巣食う、どうしようもない闇と空虚を、取り除くことが出来るかもしれない。 動くことのない心が、少しでも揺れ動くかもしれない。 今の自分を変えてくれる何かが、そこにはあるのではないか…そんな期待すら、抱くことのない自分が、少しでも… 暗闇の果てにたどり着いた自分。 「信じてるのか?」 幾日かぶりに尋ねてきた友人が、珍妙なものでも見るように、眉根に皺を寄せて、覗き込む。 そういえば、来ていたのだった…と、思い出す。 「信じている…という、わけではないが…」 「信じてるんだろうがよ、そんな風に聞くって事は」 「…どうだろう」 「まあ、俺も噂には聞いた事があるがな。だが、行って帰って来た奴がいるとは、聞いたことがねぇ」 「そうか…」 「もしも本当にそんな街があるって言うならそれこそお前、極楽じゃねぇか」 「そうだな」 「やっとこさ、何かに興味を持ったかと思えば…そんな眉唾物の噂に、振り回されてんじゃねぇぞ」 「君は、信じていないのか?」 「信じるか、っての。そんな場所へいく必要が何所にある?働けば金が溜まる。 その溜まった金で飯を食って酒を呑んで、少し余裕がありゃ、花街で女を買えばいい」 豪快だな…と思いながらも、不安になる。 「そんな風に刹那的に生きるのは、楽しいのか?」 「ああ。てめぇも昔はそうだったろうが。……まさか、まだ、死んだ女房が忘れられないのか?」 「……どうかな」 「いいか。こんな所に一人で住んでるから陰に篭るんだ。想い出があって動けねぇってんなら、せめて畳屋呼んで、畳位新しくしろ」 言いながら、友人が触る畳は、ざらざらとしていて、触ったそこから、ぼろぼろと剥がれていく。 「そうだな…そうしてみるよ」 「そうしろ。じゃあ、また来る」 立ち上がった彼が、相変わらず立て付けの悪い障子戸を、音を立てながら閉めるのを見送り、はたと気づく。 茶すら、出すのを忘れていた…と。 新品の畳、使い古した小さな丸い卓袱台、嫁入り道具に持ってきた、今はもう、使う者のいない桐箪笥。 近所に住む者は、いまだに顔色を窺うようにして気を使い、声をかけてくれる。 それほどに、自分は辛気臭い顔をしているのだろうと分かってはいたが、直すことは出来なかった。 確かに、友人の言うとおり、自分の中にはいまだ女房の影がちらつくことがある。 それは認める。だが、それは寂寥でも、執着でも後悔でも、何ものでもなかった。 ただの、思い出だった。 思い出すのは、ああ、そういえば、そんな女もいた、と言う程度の。 自分の女房だった女に対して、何とも薄情な物言いだと思うが、しかし、他に何とも思わないのだから仕方がない。 影がちらつくことはある。だがしかし、その顔色、形、何もかもがぼやけて、明瞭には思い出せない。 思い出せるのは、作ってくれた料理の品、掃除をしていた時の動き、そんなものだった。 女を個として思い出すことは、なかった。 斬られて、殺された女房の横たわっていた畳は血に汚れていたから拭いたが、つい最近友人に言われて、変えた。 女房の使っていた桐箪笥は、自分には無用の長物。すでに埃を被っている。卓袱台の上には、茶渋のこびりついた湯飲みが一つと、出涸らしが入ったままの急須。 昨日の雨を含んだままの、裏の通りの土が臭う。障子を閉めても、さして変わりはしなかった。 女房がいなくなったから、陰に篭ったのではない。 確かに、それは引き金だったかもしれないが、しかし、実際には違った。 女房がいなくなったことで一人になり、自由になり、時間に余裕が出来た。 それが、原因だった。 時間は、人を狂わせる。 こーん こーん 狐が鳴くよ。 お祝い喜び、狐が鳴くよ。 さぁさぁ皆様。 狐の嫁入りだ。 お姫(ひい)さんの嫁入りだ。 お酒を飲もう、御馳走食べよう。 今日は皆で無礼講。 ここは極楽、幻燈の町。 赤い火(ほむら)に狐が鳴くよ。 こーん 起きたのは、いつもより少し早い時刻だった。 万年床を片付けもせず、変わり映えのしない浴衣のまま、外へ出てみると、皆が寄り集まって、ひそひそと囁きあっている。 みなの後ろ側から、少し首を伸ばして覗き込んでみれば、皆の視線の方向に、赤い血溜りに沈む、一匹の狐の死骸があった。 「こんなところで狐なんて、ねぇ」 女が言う。 確かに。山に行かなければ、狐など見ることは出来ない。町に下りてくる狐はいない。 「そういえば、昨夜は役人が…」 「走り回っていたね。足音が五月蝿くて、子供が…」 女房達の会話を小耳に挟みながら、狐の死骸を見下ろす。 やけに、物染みていた。生き物には、見えなかった。 「狐は化けるって…」 「化けて、間違えられたのかねぇ」 どうやら、狐が人間に化けて、役人に追い掛け回され、斬られて殺されたとでも、思っているらしい。 ―馬鹿馬鹿しい。 そんな、非現実的な事があるわけがない。 だが、物染みたその狐の死骸から流れ出す血だけが、やけに、生き物らしさを醸し出していた。 ―ああ、そうだ。血、だ。 ふと、そんな風に思った。何が血なのか。確かにそこにあるのは血だが、それ以上の何があると言うのか…だが、何か、懐かしい… 「おい」 肩を掴まれて呼ばれ、振り返ると、そこには友人の顔があった。 「ああ、獵」 名前を呼べば、嫌そうに顔を顰める。彼は自分の名前が、好きではないのだ。 「んなもん見てると、気分を悪くするぜ」 強引に肩を掴んだまま、家の中へと押し戻そうとする。 心配、してくれているのだろう。 ふと、見上げた空は、突き抜けるような青さだった。 ![]() |