*幻燈の町*
雨の宵―酔 後


 彼が、問う。
 ―未練は?
 と。
 言われて、未練になるようなものが、胸の中、心の中に残っていないことに、その時、初めて気がついた。
 自分は、何時の間にこれだけ、現世(うつしよ)から離れたのだろうか。
 まるで、自分は死人ではないか…
「君は、此方側に来るのに、適した人間だ」
 狐面をつけていないその面(おもて)は、奇妙な笑顔を張り付け、手招く。
「名前を、教えてもらおう」
 赤い唐傘が、くるくると回る。
「君の、名前は?」
「…翆(みどり)」
「ようこそ、翆。我等が幻燈の町へ」
 差し出された手をとり、一歩前へ進んだ其処には、目が眩むほどの燈台、提灯の明かりが溢れかえり、ゆらゆらと、様々な陰影を作り出していた。
「此処は幻燈の町。君のいた世界とは一線を画す。因みに、僕は狐(こ)轍(てつ)だ」
 問われて、その時思い出す。自分の名前すら、呼ぶものがいなくなって忘れかけていたのだと。
 しかし、そんなものはどうでもよかった。
 翆にとっては、狐轍の言う、幻燈の町すらも、大した意味を持たず、ただ、今までにいた世界から、少し灯りの多い世界へ来たというだけだった。
 それが、何を齎すものでもなく、ただそこにあるだけの現実として、素直に受け取ることが出来た。
 たとえば、今此処で、目の前でこの町が崩れ去り、幻想の彼方へ消え去ったとしても、翆は相変わらずそこに立ち尽くし、しばらくしてようやく緩慢に、動きを再開するだけなのだ。
 そうして、歩き、座り、眠り、死なぬ程度の食物を得て、生きている。
 目的もなく、家族も、夢もなく、ただ時間を諾々と過ごすためだけのことに、周りの世界、景色が変わろうと、翆には、関係のないことだった。
「君みたいなお客様は初めてだ。お饗(もてなし)のし甲斐があるな」
 彼の言う、お饗というのが何なのか…分かるはずもなく、聞くというほどの興味すらそそられることはなかった。
「狐轍君は…」
「その呼び方はいけない。僕を呼ぶ時は、呼び捨てでいい」
 前を向いて、先を歩く狐轍の眼は、一軒の店を見ていた。
「裏口から入ろう」
 『狐楼』と、大きな木板に墨で書かれた看板が、提灯の灯りで人々の目を引く。
 狐轍は引き戸を開けて、店内に入ると、躊躇うことなく歩く。
 ついてこいと言われているわけではなかったが、翆には、他にいくところがなかった。
 それは、別に屋根のあるところならば、長屋だろうが、役所の牢屋だろうが、気にはならない。
だが、やはりどうせなら、冷たい石床よりも、暖かい布団を引ける、畳の部屋のほうが、寝やすいことは寝やすかった。
 二階。欄干から臨める景色は、光の溢れた幻燈の風景だった。
 大きな赤い鳥居が、幻燈の町を支配していた。


 周囲の風景が変わっても、翆のすることは大して変わらなかった。
 起きて着替え、食事をし、日がな一日座ったまま、何を見るわけでもなく視線を周囲に泳がせて、ぼうっとしている。
そして、夜が更ければ自然と布団に手が伸びる。それも、万年床だ。余分な行動を起こす気力も、翆にはなかった。
 そんな翆を、狐轍は必要以上に構い、まるで小さな子供に対するような口調で接した。
 そのことは別に不快でもなかったし、構われたところで、その行動自体に何の興味も疑いも持たなかった。
 しかし翆は、狐轍の眼が嫌いだった。否、嫌いと言う言葉には語弊があるが、かと言って、苦手と言うわけではなかった。
 ちりちりと、胸の焼ける音。
 何もかもを見透かして、暴き出すような闇の色。その瞳に見られ、魅入られると、まるで、酒に酔ったかのような感覚に陥るのだ。
 翆自身が知らない翆を、暴きたてようとするかのごとく、狐轍は嬉々とした眼を、翆に向けていた。

 君の罪は何処にある?
 君の罰は何処にある?
 誰獨(ひとり)、逃げられない。


 埋められた 骨に口づけ 花を刺し
      棘となりぬる 過去の色合い


 苦しい、苦しいと、流れ出る血を止めようと、必死に傷口を押さえた手が、真っ赤に染まっていく。
 どくどくと、脈打つ力を薄くしていく心臓の傍の傷口。
 畳が、流れ出る血を吸収していく。
 訪れる浮遊感と、満たされる感覚。
 嘗て、これほどまでに心満たされた事が、あっただろうか…否、ない。そう、断言できた。
 何時、何処で、何をしていても、心の中には、いつも空虚があった。何をしても埋められない、空虚。
 芝居を見ても、勉学をしても、女と肌を重ねても…どれ一つとして、その空虚を埋めるものはなかった。
 そう。何、一つ…
『如何、して…』
 掠れた声。
 もう、何も聞こえない。何も必要ない。
 欲しいのは…
 ただ、目の前にある、闇。


 ゆらゆらと、揺れる光。
 行灯の中の炎が、多少の空気の流れでその形を変えて、室内のものの影を変える。
 揺れる炎の形を眺めて、翆はそこにいた。
 四肢は気だるく投げ出されて、動かすことも億劫だった。
 糸の切れた、人形。
 狐轍は、翆をそう表現した。
 自分は、人形だったのか。だから、何にも興味を示せないのか。
 それならば、それで納得できないわけではなかった。
 別に、自分が人間であろうとなかろうと、そんなことはどうでもよく、猫だ、犬だと言われても、普通に頷き、納得する。
 個と言うものが、段々と消えていくような世界が、目の前にあった。
 ふっと、思い出す。
 あの、狐の死骸は、どうなっただろうか、と。
 誰かが埋葬しただろうか…それとも、あのまま朽ちるに任せるのか…しかし、それはないだろう。
放置しておけば、腐って腐臭を放つ。生き物の死骸とは、そういうものだ。
 …そうだ。女房の遺体は…どうしただろうか?土葬したのだったか…火葬したのだったか…それすら、翠は思い出せなかった。
だがきっと、葬ることはしたのだろうと思う。まともに、供養はしていないが…
 ゆらりと、炎が揺れる。
「陰気だね」
 冷たい指先が、頬に触れる。
「炎ばかり見つめて、楽しい?」
「別に」
「炎は嫌だね。生き物を殺す。生物の中で炎を怖がらないのは、人間だけだ」
「…人間も、怖がるだろう」
「へぇ?けど、平気で使うのは、人間だけだよ」
 狐轍は、人間を嘲笑うように喉で笑い、少し肩を震わせた。
「ちょっと、違うな。人間だけじゃない」
 薄闇の中に、行灯のものではない炎が、一つ、また一つ…
 燐火…狐火だった。
「狐もまた、炎を操る。狐は、火に属する生き物だからね」
「…だから?」
「乏しいね。もう少し反応してくれても、いいと思うけどな」
 ため息をついて離れると、燐火が消える。
「自分の罪に目を瞑っていると、皆こうなるのかな」
 罪?
 罪とは、何だ?
 翆の中に、疑問が浮かんだ。
「君の中にある罪。壊れた世界に、永遠に止まっていようとする。卵の中で、殻が破れることすら望まずに、呼吸も出来ずに雛が死んでいく。
君は、そうして死んだけれど、死んだ後に殻が破れて生まれてしまった、雛同然だ」
 死んだものは、生まれない。
「君に道理は通じない。理屈も。けれど、そういう、道から外れたものの血肉と魂は、何よりも極上の馳走だ」
 もう、何も聞こえない。
 何も、必要ない。
「そう。必要ないよ、君には、何も、ね」
 このまま、闇の中で…
「違う。此処は幻燈の町。君は、幻の明かりの中で、久遠の時を生きる」
 揺れる、燐火。
 消える、行灯。
 区別は、ない。
「君は、捕食される」
 それは、至福。
「君が、他を捕食したように、君自身も、捕食される」
 つうっと、滑る指。爪先が心臓を鷲?みしようとするように、強く、強く、皮膚に食い込む。
 痛みは、なかった。
「此処を、斬った」
 どくどくと、沸騰する血液。
 初めて命を持ったかのように、速く、強く、脈打つ鼓動。
「女房を、殺したね?」
 すっと冷える体。
 血が、酔わせる。
 彼を、狂わせる。
『女房を、殺したね?』
 ―ああ、そうだ。殺したよ…



2007/6/1初出