痛い。苦しい。これは、何の痛みだろう。何に縁る苦しみだろう。 嗚呼、怖い。あの音が、怖い。人を殺める事も出来る、あの物の音が。 痛い。苦しい。 血が…赤い、血が… 赤?…色? 駄目だ…痛い…羽、が……… ぱちん、と言う、軽やかな手を叩く音で、意識が覚醒する。 「禽(きん)様、大丈夫ですか?」 聞きなれたその声に、安心するように、ほうっ、と一つ、深く息を吐き出す。 「魘されておいででしたが?何か、悪い夢でも?」 聞きなれた彼の声と、鳥の鳴き声、風に葉の擦れる音。それらが、爽やかな朝を連れてくる。 ゆっくりと体を起こして、静かに首を左右に振る。 「ううん。悪い、夢…か、どうかも分からない…変な、夢」 「変、ですか?」 「漠然としていて、よく、分からなかったんだ」 どれだけ思い出そうとしても、夢の中の出来事はすっかり消えてしまい、何も思い出すことが出来ない。 「あ、おはよう、砕(さい)」 「はい。おはようございます、禽様」 今更の朝の挨拶に、柔らかく返される声に微笑み、布団を剥いで、昨夜の内に枕元へ用意しておいた着物を手に取る。 「朝餉はすぐに召し上がられますか?」 「うん。お腹空いた」 「では、用意して参ります」 砕が障子を閉め、縁を渡っていく。ぎしぎしと鳴る古い床は、屋敷の古さを物語っている。 禽は布団を畳み、押入れへと仕舞う。そして、着物を着替え、長い黒髪を、無造作に一括りに組紐で括る。 と、再びぎしぎしと縁の鳴る音がし、障子が開く。この家の縁や廊は古く、人が通る度になるので、すぐに誰か来たと、分かってしまう。 きちんと部屋を片付けて待っていた禽の鼻に、柔らかく温かな、食事の香りが漂ってくる。朝餉が、運ばれてきたのだ。 微かな音を立てながら、禽の分の膳が室内に運ばれ、朝餉の支度が行われる。 定位置に置かれた朝餉の膳の前に座り、箸を手に取り手を合わせた、その時… ほーほけきょ 「あ、不如帰」 「おや。もう、そんな時期ですか」 「もう、春なんだね」 「そうですね。確かに、そろそろ梅も蕾が…早い場所では、もう咲いている所もあるそうですし」 「きっと、すぐに桜も咲くね」 ほーほけきょ もう、一声、不如帰が鳴く。 和やかな、春。 ぱたぱたと、鳥の羽音に続いて、葉が揺れる音が響き、鳥が枝に止まる。 春は、何処からともなく人々の笑い声が聞こえ、花見などする声も絶えず、昼日中の桜や、夜の桜などを見に来る者達の声が、楽しげに響くものだ。 禽の住まう屋敷内にも、桜の大木があり、時期になれば、美しく花を咲かせ、屋敷前を通る者達の眼を楽しませる。 一週間ほどだけ、禽の父は屋敷の門扉を解放し、桜を見るためだけに、近隣住民を呼びこんで、花見を催す場合がある。 しかし、禽はそれに参加をしない。 一人で、静かに過ごすことが、何よりの楽しみだからだ。 大勢で騒ぐのは苦手で、桜を楽しむのは、ゆっくりと、風に吹かれてする方がよい。 酒の匂いなどは、成人していない禽にとっては邪魔なものでしかない。大人達はそれで楽しめるからよいが、禽はそうではなかった。 砕が近づき、さりげなく茶菓子と緑茶を出す。 「禽様は、此方でよろしかったですよね?」 「ありがとう。砕は?」 「私は、手伝いを申し付けられておりますので、少し離れからは出てしまいます。庭の方におりますので」 「そう。分かった」 砕は、自分の世話係だが、雇っているのは父だ。全ての決定権は父にある。 父が手伝いに使うというのなら、禽が我侭を言って、砕を引き止めることはできない。 出された湯飲みを手に取り、一口すする。 砕は、心配そうに、まだそこにいた。 「いいよ、大丈夫。一人で大丈夫だよ」 「何かあれば、呼んでください」 「うん」 砕が立ち上がり、下駄を履いて庭に降り、声の聞えて来る方へと行ってしまう。 禽は小さく溜息をついて、茶を飲んだ。 「皆、心配しすぎなんだ」 小さな茶菓子を、更に小さく切って、口の中に入れる。 「甘い」 ゆっくりと、甘さが口中に広がる。租借すればするほど、甘みが広がり、喉を潤す。 「こんにちは」 「こ、んにちは…」 突然話しかけられ、禽は茶菓子の皿を置いた。 「君は、此処の家の子?」 「そうだよ。君は?」 「僕は、此処の桜が凄く綺麗だって聞いたから、見に来たんだ」 「そうなの?」 「うん。ああ、そうか、君は………」 「何?」 「ううん。何でもない。ねえ、君の、名前は何?」 「僕?禽」 「いい名前だね。僕は、孤(こ)轍(てつ)って言うんだ」 「孤轍、君?」 「孤轍でいいよ、僕も禽って呼んでいい?」 「うん!」 禽が大きく頷いた時、大きな羽音をさせて一羽の鳥が滑空し、孤轍の肩へと止まった。 「ああ、隹(すい)」 「隹?」 「そう。この鳥のこと。大きく黒いが、烏とはまた少し違う。それに、この子は片羽と尾羽が不自由でね。最近ようやく、飛べるようになったんだ」 「可哀想…」 「可哀想なんかじゃない。僕がいる。僕は隹の友達だから」 「鳥と、友達?」 「そう。僕、動物と友達になるの、得意なんだ」 「凄いね!」 「君も、隹と友達になる?」 「え?いいの?」 「いいさ。きっと、隹も君のこと、好きになると思うよ。ほら、隹」 ぱた、ぱたり、と羽音をさせて、静かに縁へ足をつけた隹が、その爪先で、ちょいと禽の膝辺りの着物を引っかく。 「うわぁ。僕、こんなに近くで鳥に触ったのなんて、初めてだ!」 手を伸ばせば、そこにつやつやとした羽根を纏う、鳥がいる。そのことに感動して声を上げれば、孤轍が、ふふっ、と笑った。 「喜んでもらえて嬉しいな」 遠くから、太鼓の音、笛の音が聞こえてくる。宴も酣なのだろう。 「ああ、そろそろ戻ろうかな。この辺りには人が入って来てはいけない感じだったから」 「あ…僕が、いるから…」 暫しの沈黙。それを破ったのは、孤轍だった。 「…そっか。君は、籠の鳥なんだね」 「え?」 「いつか、外へおいでよ、禽。約束だ」 ぱた、ぱたりと羽音をさせて、隹が再び孤轍の肩へと戻る。 「また、ね。禽」 ふわりと、風が吹く。それに乗って届く、管弦の音は、さらに大きく聞こえ、禽は、置いた茶菓子の皿を、もう一度手に取り、一口放り込む。 「…甘い」 甘い。けれど…何だか、しょっぱかった。 咳が止まらずに、布団を肩の方まで引き上げて、包まる。枕に顔を埋めて、咳が響かないように、禽は体を縮めた。 暖かくなってきたからと言って油断して、夜遅くまで外で風に吹かれていたのがいけなかったらしい。 禽は、体が丈夫なほうではない。だから、父も母も心配して。 離れの一室を丸ごと禽に与え、すぐ側にいられるように、世話係として砕を置いているのだ。 それなのに…春先からこんな、両親を心配させることばかりしてしまう。 寒気がして、体が震える。熱がある。そう思うと、自分が重病人のような気がして、禽はぎゅっと目を閉じた。 苦しい。けど、心配させたくない。早く、治って…そう願い、体を縮め、布団に包まったまま、微動だにしなかった。 「っ…砕ぃ…」 苦しくて、涙が零れる。 枕に、涙が吸い込まれ、滲んでいく。頬にその生温さが伝わるが、そんなことはどうでもよかった。 ただこの苦しみを取り除き、早く元気な姿を両親に見せたかった。けれど、心配させたくなくて、誰も呼べない。 泣きながら、禽はゆっくりと眠った。 ぴちゃりと、冷たい雫が、当たる。 「禽様…ああ、良かった」 「砕…?」 「そうですよ。大丈夫ですか?随分と魘されていましたが…」 「平、気…」 ひんやりと、冷たい手拭が額に当てられている。その感触が、やけに気持ちよかった。 「熱は大分下がってまいりましたし…粥などお持ちしましょうか?」 「…いら、ない…欲しく、ないよ」 安堵の溜息を零し、砕は乱れた禽の髪を整えた。 「如何して、もっと早く私を呼んでくださらないのですか。お医者様が、もう少し遅ければ肺炎になっていたと…」 「…だって、砕、忙しいじゃない。呼べないよ」 「私の一番の仕事は、禽様のお世話です。何を擱(お)いても駆けつけますから、ちゃんと呼んでください」 心配をかけまいとして、更に心配をさせてしまった。 禽は頭まで布団を被り、鼻を鳴らした。 「御免なさい…」 「大事がなくて、本当によう御座いました」 降ってきた優しい声に、禽は一つ、息を吐く。 ああ、この人は、本当に自分を心配してくれているのだと。 ![]() |