*幻燈の町*
夢の朝―麻 中


 からから、からから…風車が、風に吹かれて回る。
 目を閉じて、禽は風鈴の音を聞いた。
 ちりん、ちりん…遠くから、風鈴や風車、面売り、飴職人などの声が、聞こえてくる。
「そう。今日は、お祭り…」
 幼い頃に買ってもらった風車が、文机の上の筆立てに刺さっている。
 他には、何も乗っていない、文机。
 手を伸ばして、風車をとる。息を吹きかけると、勢いを増して、からからから、からからから、と、回る。
 蝉の聲、子供達のはしゃぎ声、物売りの声…全てが、遠い過去のこと。否、禽の過去において、それらは全て色をなさない。
「禽様」
 声をかけられて顔を上げる。
「お医者様がお見えですよ」
 ふっと微笑んで、禽は座布団の上に座りなおした。
 かたりと、障子が全て開けられる。
「やあ、禽君。こんにちわ」
「こんにちわ、医師(せんせい)」
「座ってもいいかな?」
「どうぞ。砕、医師にお茶を」
「はい」
 砕が下がるのを待ち、医師が口火を切る。
「今日はお祭りだね。行きたいかい?」
「もう、そんな年じゃないですよ」
 苦笑して、持っていた風車を回す。
「そういう割には、その風車がお気に入りだね」
「これは、砕が買ってくれたから」
 からからと、音を立てて回る、風車。
「砕君が、好きかい?」
「はい。良くしてくれますから」
「もう十年かな。彼は、長く続いているね。前の人は、半年で止めたはずじゃあなかったかな?」
「あの人は、お父様の大切なお茶碗を割ったので、解雇されたんですよ」
 医師は笑い、肩を震わせた。
「そうだったね。よく覚えているな、君は」
「医師も、よく覚えていますね、前の人の事を」
「君が生まれた時から、君の主治医をしているからね。知っているさ」
 医療道具の入った袋を開け、必要なものを取り出し、診察を始めると、しばらく黙っていた禽が口を開いた。
「医師」
「何かな?」
「医師は、今の自分に疑問を持ったこと、ないですか?」
「昔は、ね。医師になる際に、本当にこれでいいのかと、問いかけたことはあった…しかし、急に、何故かな?」
 鳥の、囀りと羽音。それにしばらく耳を傾けていた禽は、膝の上で拳を握った。
「僕は、鳥になりたい」
「鳥?」
「何処までも自由に飛んでいける、鳥に。一度でいいから、疲れるまで、呼吸が塞がれるまで、遠く…遠くへ、行ってみたい」
「遠く、か…外出許可を貰っては如何かな?体の調子が悪くないのであれば、私からお父上に進言するが?」
「そうですね……でも、やめておきます。またきっと、砕を困らせるだけだから」
「そうか」
 道具を仕舞い、立ち上がった医師を送ると言う禽の好意を辞退し、部屋を出た医師は、廊の門で立ち竦んでいるような砕に、苦笑を向けた。
「彼はいい子だね。聞いていたのだろう?」
 盆の上に乗った湯飲みの一つをとり、一息に飲み干し、盆の上へ返す。
「けれど…彼を出してはいけないよ、離れから」
「承知しております」
「例え、どのような身であろうと、彼は確かに、この家の跡取りなのだから。では、診察はまた一週間後に」
「はい。伝えておきます」
 盆を持ったまま頭を下げ、医師を見送る。上げられた砕の表情は芳しくなく、何処か、憂いを帯びていた。


 おいで。おいで。
 早く、早くおいで。
 ゆっくりでもいいから、近づいてきて。
 僕の名前を呼んで。
 また、年が一つ過ぎていく。
 君は、何時になったら僕に気がつくの?
 何時になったら、僕の名前を呼ぶの?
 それとも、もう…
 僕のことなんて、忘れてしまったの?
 君を守れるのは僕だけ。
 君を真に愛しめるのは、この僕だけ。
 僕の名前を呼んで…忘れないでよ…
 もう、此方側には来ないの?
 この、淡い燐火の泳ぐ深淵には…
 壊れてしまうよ。君がいないと。
 君のいない此処は、静か過ぎるんだ…
 闇が、濃く、深くなっていく。
 忘れてしまったの、僕を?


 禽は、箸を落とした。
「今、何と言ったんですか?」
「縁談の席を設けたと言ったのだ」
 突然、朝餉を取っている所へ入ってきて、父が宣ったのは、禽に縁談の席を設け、それは明後日だということだった。
「ちょっと、待ってください。僕、こんなですよ?先方は、承知しているんですか?」
「無論だ」
「でも、そんな、いきなり…」
「何がいきなりなものか。お前ももういい年だ。そろそろ嫁を貰ってもおかしくない年齢だ」
「けど、何でそんな…僕の気持ちは如何なるんですか?」
「決まったわけではない。嫌なら断ればいいことだ。無理強いはしない。話だけでも、と言うことだったからな」
「本当に?」
「嘘をついて如何する」
 心を落ち着けようと深呼吸をして、目を閉じる。
 自分は、普通の成人男性とは違う。世間一般と同じように縁談を貰うことなど、一生ないと思っていた。
 禽は落とした箸をきちんと拾い、膳の上へ置きなおした。
「分かりました。お話だけはきちんと窺います」
 屋敷の庭で、悲しそうに鳥が鳴いた。


 如何すれば…如何すればいいのだろう。
 焦りばかりが先走り、頭は何も有効な手立てを思いつかない。
 如何すれば…
 追い詰められる。
 こんな気持ちを知られるわけにはいかない。そのことは、重々承知していた。
 警鐘が頭の中に鳴り響き、混乱する。
 如何すれば…
 美しい麗人を、手に入れるためには…


 秘めごとを 心に隠し 声を閉じ
     こじあけられる 黒瞳(こくどう)の真名(まな)


 軋む廊下の音を聞いて、首をめぐらす。
「禽、入るぞ」
 襖が開かれると同時に差し込んできたであろう光は、何の変化も彼には齎さない。
「お父様、今日お仕事は?」
「休みだ。そんなことより、挨拶をしなさい」
「あいさつ?」
「お前の世話係だ」
 父の手に促されて立ち上がり、引かれた腕が、見知らぬ素材の着物に触れる。
「女の人じゃない」
「ああ。今日から、この青年にお前の世話をさせる」
「初めまして。砕と申します」
「初めまして。僕は、禽です。お願いします」
「こちらこそ」
 大きな父の手が、頭を撫で、続いて座らせる。
「よいか、禽」
「はい」
「お前は普通とは違う。不便かもしれないが離れから出ず、彼の言うことをよく聞いて、生活しなさい」
「…はい」
 自分は普通ではない。そのことは重々承知していたが、こう真正面から言われてしまうと、改めて自覚する他なかった。
「いい子だ。それでは頼むぞ、砕」
「はい」
 父が去っていくのを足音で確かめて、禽は腕を伸ばし、砕の着物に触れた。
「ごめんね」
「え?」
「僕が、こんなんだから、砕にも、一杯、一杯迷惑かけちゃうと思うの」
「謝らないでください。私はお世話係です。禽様の従者なのですから」
「でも、ごめんね。お父様にも、お母様にも皆に、迷惑をかけちゃう。僕が、こんなんだから」
「禽様…」
「お父様も、お母様も、たくさんのお医者様に見せてくれた。けど、皆、駄目だって言うの。治らないって」
「御辛いですか?」
「ううん。仕方がないから。けど、そのことで、皆が苦しむのは嫌なの。だから、だからね、砕」
「はい?」
「僕が嫌になったら、すぐにやめていいからね」
 見えない瞳に涙を浮かべ、着物をつかんだ指に力を入れる。
 その姿が痛々しくて、砕は心が軋んだ。



2007/6/8初出