盆に載った茶を持ち、声をかけて襖を開ける。 「…禽様?」 いるはずの禽の姿が、部屋の中にない。 風車だけの乗った文机の上に盆を置き、縁側に続く障子を開ける。 庭に出る時に禽が履いている草履も、消えていた。 砕は急いで庭に降り、その姿を探した。だが、広い庭に禽の姿はない。 「禽様?何処ですか?」 水の跳ねる音。それは、鯉が池の中で跳ねるような音にも、何かが水中に没した音にも聞こえた。 嫌な予感が、砕の頭の中をよぎる。 庭には、少し大きめの浅い池がある。まさか溺れるとは思えないが、何分、禽は盲目。何気ないことが命取りになる。 「禽様?」 小さなくしゃみが一つ。 ずぶ濡れになった禽が、池から上がるところだった。 「だ、大丈夫ですか!」 急いで駆け寄って池の中から上がらせ、濡れた着物を絞ってやる。 「何をなさっていたんですか。明日は大事な縁談の日でしょう?」 「ちょっと、転んじゃって」 「お怪我はされていませんか?」 「平気。大丈夫だから」 大丈夫といいつつ、くしゃみを連発する。 「湯殿へ行きましょう。すぐに沸かしますから。まずは体を温めませんと、風邪を引いてしまいます」 腕を引こうとする砕の手を跳ね除けて、禽は髪を絞った。 「平気。大丈夫」 「何を言っているんですか」 「いいの!」 「禽様?」 まるで、小さな子供に戻ったように、湯殿へ行くのを嫌がり、砕の手を離そうとする。 「離してよ。僕一人で戻れるから」 「そんな格好でお部屋に戻られたらお風邪を召されます。旦那様に、何と仰るお心算ですか。明日は…」 「いらないよ、縁談なんて!」 「…禽様…」 「僕は結婚なんてしたくない。縁談なんか、どうせお父様の体面を守るだけのものだ! 僕がこの家の一人息子だから…どんなに出来損ないでも、外に出せない子供でも、それには変わりないから…」 「如何して、ご自分でそんな、出来損ないだなどと」 「だって、そうじゃないか!この眼は何も映さない!何も、僕の脳裏に描いてはくれない…砕の姿すら、見られないのに…」 「禽様…」 「僕は、誰も、欲しくないんだ…」 項垂れた禽の顔は、池の水と涙に濡れていた。 「兎に角、湯殿へ参りましょう。薬湯(やくとう)もお持ちいたします」 「だから!」 「禽様に風邪をひかれては、私の心が痛みますので」 抱きしめた細い肩が、震えた。その震えに合わせるように、何処かで、鳥の鳴き声が甲高く、響いた。 痛い。痛い。痛い。 ああ、流れていく…温かい、血が…真っ赤な、血が… この瞳は色など分からないのに、どうしてその血が真っ赤だと、分かるのだろう… いいや。そんなことは如何でもいい。ただ、痛みが酷い。 前にも、こんな痛みを感じた事がある。酷く、痛くて、そして、音が… そう。父が狩りの練習をする時に使っている、猟銃の放たれる音に似た音が…怖い。 何故、こんなにも痛いのだろうか…自分は撃たれたのか…父に? …ああ、そうか。撃たれたのか、父に。撃たれるのか、父に。殺されるのだ、自分は。 ああ、だから、こんなにも、羽が…打たれて失われた羽根が、落ちている。散らばっている。 黒い、羽。 ―可愛そうな、禽。可愛そうな、僕。君は僕で、僕は君。僕達は、二つで一つ。 君の苦しみは、僕の苦しみ。僕の苦しみは、君の苦しみ。 さあ、僕達は、飛び立たなくては。何時までも、籠の中にいてはいけない。 囚われた鳥のままでいるわけには、いかないのだから。 さあ、君の欲しいものは何?僕が君の瞳になってあげる。だから… …だから、君は、僕の羽になって。 その声は、甘美なる麻薬。 鳥の鳴き声が、響く。 冷えた夜気の中、薄い浴衣一枚で廊下を歩く。 触れる壁の冷たさが、襖の感触に変わる。そこを開き、すぐさましゃがみこんで、畳の上を探るように進む。 伸ばした手が掴まれて、布団の上で反転させられる。 「禽様…何をなさっているんですか。夜盗かと思ってしまいましたよ…」 呆れたような、驚いたような声でそう言うと、砕は手を離し、禽の体を起こした。 「砕、強いね」 「昔、武芸を習っていたことがありましたから」 「そうなんだ」 腕を伸ばし、指先で砕の浴衣の袖を摘む。 「禽様?」 「砕、お願いがあるんだ」 「お願い?何ですか?」 体を伸ばして砕の首に抱き付く。 「僕を、何処かに連れてって」 「え?」 「僕は、砕がいれば、それでいいんだ。お父様も、お母様も、僕を省みない。 僕を見てくれたのは、砕だけだから…砕がいてくれるのなら、それだけでいいんだ」 「禽様、ですが、それは…」 「言ったでしょ?縁談なんかいらないって。ずっと家の中にいたら、僕は、何時か…」 腕に力がこもり、大きな背中をかき抱く。 「僕は、外に行きたい。折角の名前が、可哀想だ。禽なんて、僕に似合わない名前…」 苦笑して、砕の肩に埋めていた顔をあげる。 「このまま、半永久的に、何処にも行けずに一人で、家の中にいるのは嫌だ。 確かに僕は盲目だけど、だからって、夢を見てはいけない、なんてことはないでしょう?」 「外へ行くのが、禽様の夢ですか?」 「うん。そうだよ。お願い、砕。僕を何処か外へ連れて行って」 「それは、二度とここへは戻らないという意味ですか?」 「勿論、そうだよ」 大きな手が肩を掴み、押し返す。 「できません」 「如何して?」 「私に、そんな権利はない」 「そんなの、どうでもいいよ。僕は、砕に側にいて欲しいんだ」 禽の懇願に、砕は、返答しない。 長い、長い、沈黙だった。 「そう。分かった。もう、頼まないよ」 砕の肩を支えにして立ち上がり、入ってきた襖の方とは反対側の縁側、障子の方を開ける。 皓々(こうこう)と照らす月の光も、禽の眼には届かない。 頼りない月明かりだけが頼りの闇の中、ぼうっと、白塗りの顔が浮かぶ。 ぎょっとして身を引いた砕は、それが闇の中に浮かんだ、狐面だと気づく。そう。祭りの縁日で売っているような… 「迎えに来たよ、禽」 「孤轍…と、隹?」 「そう。大きくなったね、禽。さあ、隹。君の兄弟だ。大切な、君の片割れだ」 狐面を被った少年の後ろから、禽と全く同じ顔をした男が、姿を現す。漆黒の長い髪、漆黒の瞳。 だが、左肩から腕がなく、体が右へ傾いている。 「ああ、お帰り、禽。ようやく、僕の所に戻ってきてくれるんだね…」 恍惚としたような表情で、右腕を広げ、禽の体を掻き抱くと、禽の肩越しに、砕を睨みつけた。そして、声は出さず、口だけを動かす。 ―大切なら、追いかけておいで。幻燈の町まで… 右腕だけで禽を抱え上げ、隹はそのまま闇へ溶ける。 部屋に一人残された砕は、目の前で起きた事に眼を丸くし、急いで庭へと転がり出た。 「禽様!」 白塗りの面が、目の前に、あった。 光の溢れるそこは、まるで、花街。 砕は、己の眼を疑った。 此の世のものではない、現世(うつしよ)と一線を隠す如き世界。 「ようこそ、幻燈の町へ」 狐面の少年が、砕の手を引きながら、深々と演技めいた仕草で頭を下げる。 視線を巡らすそこにあるのは、ほとんどが二階建ての建物で、表通りに面した二階の欄干からは、身を乗り出すようにして幾人かの女や店のものが、顔を出している。 「禽様は…」 「禽はとても綺麗だよね。本当は、僕が喰べたかったんだけど…隹の大切な片割れだからね、遠慮したんだ」 「喰べる?」 「そう。きっと、美味しいだろうなぁ。血も肉も…あの見えない瞳なんか、きっと、極上の、美味だ」 砕は眉根を寄せ、自分の腕を掴んでいる手を振り払う。舌なめずりをするようなその仕草が、酷く、汚らわしかった。 「そんなに怒らなくてもいいじゃない?喰べるのは僕じゃないんだから。ああ、自己紹介がまだだったね。僕は、孤轍だ」 孤轍は、砕の腕を先ほどの力とは全く違う力強さをこめて、引く。 「漸く、片羽を見つけたんだ、隹は」 狐面をつけた黒く穿たれた瞳の奥、見えない顔が、嘲笑う。 「隹は、ずっと、ずっと探していた。自分の片羽を。同じ夢を共有する、不完全な形で生まれてきた二人は、一つにならなければならない」 「何を、言っているのだ?」 「んー。分からないかな?此処は、母胎だ。二人は、再び一つになって生まれようとしている。この町は、その為に今祭りをしているんだ」 「祭り?」 確かに、色取り取りの堤燈が店先に吊るされている。が、それだけで祭りとは、到底考えられなかった。 「ま、この町は何時もこんな感じだけれど。幻燈の町だからさ」 ぐいぐいと、砕の腕を引いて孤轍が辿り着いたのは、一軒の店。 『鳥遊庭(ちょうゆうてい)』。その店先には、名を表すためか、一つの鳥籠が吊るされていたが、中には鳥が入っていなかった。 声もかけずに孤轍は木戸を開き、店番もいない店内を進んでいく。あまりの静けさに、人が住んでいるとは到底思えなかった。 それは、表が煌々と明るく照らされ、それと相反する店内の暗さのせいであっただろう。 階を上へと上がると、一部屋だけを残し、後は全て明かりが消えていた。 「あそこは?」 「あそこが、母胎だよ。見てみる?」 少年が進み、乱暴に障子を開け放つ。 「どうぞ」 孤轍は体を少しずらして、砕に室内を見せるように、誘った。 砕は、廊下の壁に背を凭れさせた。 この世界は、何処かが狂っている。そうとしか思えなかった。それとも、自分が狂っているのか。 禽の手をとることもできたのに、それをしなかった自分。 本当は、禽が縁談をもらい、嫁をもらう姿を見たくはなかったのに、自分の感情を押し殺して、禽の心までも殺してしまった。 「禽、様…?」 呟いた砕の声に反応したのか、部屋の中央で、白、赤、紫…様々な色をした花に囲まれて、蹲るように背を丸めていた青年が、顔を上げる。 黒く長い髪で顔が隠され、よく見えない。だが、白い、女体のような細い腕が、砕を招くように、手招きする。 「ふふっ」 青年が笑う。 ―狂っている… 長い黒髪を畳の上に垂らし、その無垢な白い肌に赤い血を付着させた、美しい鳥。 青年の下、流れるような黒髪から覗くのは、横たわるような姿勢の、白い骨。 青年の背に生える、揃わない白い小さな羽が、付着した血を振り落とすように、細かく震える。 「隹?大丈夫?」 頭を緩慢に振り、顔を上げれば、長い黒髪が背へと流れる。にっこりと微笑んだその顔は、紛れもなく禽のものだった。 「ええ。狐轍様」 そして、声も… 「凄く綺麗だよ。眼は見えている?」 「見えています。漸く、禽が僕を受け入れてくれた」 「これで、何処までも飛べるね。僕の肩を借りずとも。過不足のない体だ」 「漸く、雅(が)雄(ゆう)になれた」 「本当。その名前が相応しい。それで、どうするの?」 「何がですか?」 「彼」 狐面を外して振り返った狐轍の顔が、砕の方へと向いた。 濁りのない瞳が、真っ直ぐに砕の顔を見、口元が歪み、言い様のない、嘲りを含んだような表情で微笑んだ。 「砕…禽を追ってきたの?遅かったね。もうあの子は僕の物だよ。君にはあげないから」 部屋の隅にあった桐箪笥の抽斗を開け、着物を取り出すと、狐轍は隹にそれを渡した。 「ありがとう御座います」 「何時までも裸でいられても、ね」 受け取った着物を羽織り、緩く帯を締め、そのまま壁に寄りかかった砕に近づいた。 「何をぼうっとしているの?」 「…禽、様?」 「違うよ。雅雄だ」 崩折れた砕の体を抱きしめて、顔をその肩に埋める。 「禽と、隹が一つになって、漸く一羽の鳥になったんだ。雅雄になれた」 狐轍が再び狐面を顔につけ、音もなく縁側の欄干から外へと下りる。 部屋の中には、雅雄と砕、そして、色取り取りの、禍々しい、花。 「大丈夫。安心して、砕」 麻薬のような甘い声。聞き慣れた声であるはずなのに、自分の名前を呼ぶ禽の声は、毒を孕んだように小さく、甘く囁いて、室内の空気に散っていく。 …鳥が、何処かで囀る。 「ずっと、この町で君を飼ってあげるから」 噎せ返るような、花の香り。濃く、甘く、狂わされるような… 何時の間に握っていたものか、雅雄の手に白い花が一輪、あった。 簪を挿すように、その花を砕の髪へ挿す。 砕の瞳から、光が消えた。 ![]() |