*幻燈の町*
雪の倫(みち)―軌(みち)


 六花(りっか)が、散る。
 白く、全てを白く埋め尽くす、六花が。風が唸り、六花を撒き、吹雪かせる。轟々と。
 そんな中を歩けば、手先が冷え、足先が凍え、先が見えなくなって行くのは、道理。
 …死にたくない。死にたくない。こんな所で、死んでたまるものか。棲む場所を追われ追い出され、当て所なくただ、ただ、雪の中を歩き疲れ、死に至るなど。
 深く、深く降り積もる雪に足を取られ、思うように前へ進めない。と、ずしりと、腕を引くものがあった。
 寒さに凍えながら振り向いたそこに、自分の手を掴んだまま倒れこんだ、体が一つ。
 ゆっくりと閉じていく、綺麗な瞳。美しい金茶の髪の間で、瞳が開かない。
 声が、出ない。こんな所で、大事な、大切な家族を、亡くすのか…こんな、何もない、ただ白いだけの世界で。
 白い雪の上に残る、小さな足跡。その合間にある、紅い痕。
 足元に蹲り、動かない体。
 ゆっくりと膝をついて、その体に触れる。雪よりも、さらに冷え、触れた指先から、心までが凍えてしまう。
「…許、さない…」
 雪が、降る。
 白い、ただ白い世界に、埋没する。
「人間…ども!」
 低く呟かれた声音は、白い世界に反響することなく、掻き消えた。


 僕の、願いは………


 地が、悲鳴を上げる。木々が、泣き声を上げながら倒れていく。その合間を、自然に生きる全てが、嘆きをあげて駆けていく。
 世界が、壊れていく。世界が、壊されていく。色取り取りの花が咲く春も、緑豊かに木漏れ日射し込む夏も、紅に黄に染まった葉が地面を埋め尽くす秋も、しんしんと降り積もる雪が全てを眠りに落とす冬も…全てが、奪われる。
 その情景を、しかと眼に焼き付けるかのように眼を見開き、立ち尽くす影が一つ。悲しみに溢れ、憎悪に燃える眼が、壊されていく一つの景色を、眺めている。
 足元に、転がるようにかけてきた、一匹の栗鼠。怯えるように震えるその小さな体に手を伸ばし、拾い上げる。
「可哀想に…行く所はあるのかい?」
 栗鼠の丸い眼が、静かに伏せられる。
「なら、僕と一緒においで。そこにいる、君達もだ。皆で、僕らのための世界を作ろう」
 空からは何羽もの鳥達。地を這うは蛇、地を駆けるは四足の獣。それら全てが、手を差し伸べる影に寄り添うように、集まる。
 そして、影は支配者然として、言い放つ。
「さあ!人間どもへ、復讐しよう!」
 燐火が、燃える。青く、赤く、冷え切り、熱い、鬼火が。


 愛した…ただ、それだけだった。
 それが一体、どんな罪だったと?


 降る雪はただ白く、屋根に、土に、人へ、降り注ぐ。しんしんと、静かに音もなく、雪が降る。
 それでも尚、曇天の空がまだ足りないと、雪を降らせる瞬間を待ち侘びている。
 空の鼠、地面の白、屋根の黒、堤燈の赤に炎の橙。色が混ざり合い、感覚を狂わせる。
 窓から身を乗り出し、空を見上げていた狐轍は、小さく笑い、体を室内に戻し、立ち上がった。
 手の中で狐面を玩びながら、障子を開け、冷えた冬の廊下を歩く。
 足先から伝わる冷たさ。けれど、そんなものは大した冷たさではなかった。
 あの時の、雪の冷たさに比べれば…。
 未だに体の奥で燻り続ける、憎悪と憤怒の炎は消えることなく、むしろ、燃え盛り続けている。
 何を造りだしても、何を壊しても、決して消える事はない。
 涙と笑顔を狐面の奥底へ隠しても、隠しきれない嘲笑は浮かぶ。
 世を嘆き、憂い、嘲笑う笑顔は。
 何が、いけなかったと言うのだろう。何が悪かったと言うのだろう。
 必死に生きた事か。足掻いて、足掻いて、妄執を捨て切れずに、生き足掻いた事か。それとも、人を殺めた事か。
 ならば、同じ人同士で殺しあう人間は、何故のうのうと生き続けている。何故、死ぬことなく、連綿とその血を続けている。
 それが、許せない。
「奪った…くせに…」
 大切な…とても大切な、孤轍のものを、奪い取ったくせに…それでも、人はその罪に気づくことなく、自分の罪だと思わずに、殺め続けているのに…
 孤轍は、知らなかった。何故、自分に親がいないのか、ということを。そして、何も疑いはしなかった。そもそも、親と言う概念を理解できなかった。自分にとっての肉親は一人だけで、いつでも自分を守り、愛してくれるその存在が、全てであったから。
 だから、孤轍も当たり前のように、たった一人の肉親を愛した。一緒に居さえすれば、何も怖いものなどなかった。冬の凍えるような寒さも、幾日も食べるものが手に入らなくても、眠る場所さえ見つからなくても、二人で手を握っていれば、それでよかったのだ。
 命宿るものに必ず、その命終える時が来ることは、知っていた。だが、どんなものにも訪れるのであろうその時が、まさか、そんな形でやってくるとは、思いもしなかった。
 そんな、悪意と享楽に満ちた、おぞましい姿でやってくるとは、終ぞ………


 逃げる。ただ、追ってくる幾つもの足音を耳で捉えながら、走る。横を見れば、併走する自分のただ一人の家族。けれど、片足を引きずり、白い雪の上に、ぽたぽたと、赤い血が流れている。
 心配そうな視線を向けると、大丈夫だとでも言うように、一つ頷かれた。
 けれど、全く大丈夫には見えない。流れ出る血が止まる事はなく、傷口は勿論すぐには塞がらない。そして、今走っているのは、足場の悪い雪の上。怪我をした足で、何処まで逃げ切れるか………
 と、思っていると、併走していた体が傾いで、雪の上へ倒れこむ。
 足を止めて引き返し、その顔を覗き込む。
「逃、げ…」
「嫌だ!」
「逃げ、なさい。早く…捕まっては、いけない!」
「一人になるのは嫌だ!」
「孤轍………」
「ずっと、孤雨夜(こうや)と一緒だ!」
「うん………けれど、もう、駄目、だから」
「そんなこと言っちゃだめだ!」
 必死で、どうにか雪の中に沈もうとする体と、閉じようとする瞼を留めたくて、その体を揺さぶる。
 ぱんっと、何かの弾ける音。そして、燃え上がるような痛みと熱さ。
 ゆっくりと、その痛みの根源を、追う。腕に、赤い鮮血が流れていた。
 遠くで、叫ぶ声。怒鳴り声にも似た、低くしゃがれた声。幾つもの足音が、雪に吸収される。
 来た。来た。早く、逃げなければ。
「孤雨夜………孤、雨夜?」
 体を揺さぶるが、閉じられた瞼が、開かない。そっと体に耳を当ててみるが、温もりがなく、音がない。
 嫌な音が、耳を掠めていった。
 ゆっくりと顔を上げ、体を起こす。
「許せない。君を、殺した…」
 白い雪に映える鮮血と、美しく雪上に映える金茶色の髪。
「君を苦しめた報いは、確りと、受けてもらわないと、ね」
 爛々と、憎しみの色を湛えて光る瞳。
 燃え上がる燐火が、周囲の新雪を溶かし、近づく脅威を退ける。
「愚かだよね、人間は」
 恐慌をきたした叫び声が、後方で掻き消える。
 燐火が、死を充分すぎる程満たした骸を、浄化していく。
 後には骨も何も、残らない。
「僕は、もう一度君に会えるまで、ずっと生きているよ」
 残った雪の上の血に、触れる。
「ずっと、待っているから。ねえ、孤雨夜」
 新雪の中に、体が沈んでゆく。


 人が、誰もいない。
 ひっそりと静まり返った石畳。深々と降るのは、牡丹のような雪。
 ぼとり。
 ぼとり。
 一つ震えて腕を摩れば、ふと、傘を差しかけられた。
「ふふっ。見世へ、来る?」
 青年だった。長い髪を緩く括り、だらしなく着物を着流した。
「見世?」
「そう。僕の見世。名前は『鳥遊亭』。こんな雪の日は、暖かいお茶を飲んで、火鉢に当たるのが一番いい。如何する?」
「ここは、何処だ?」
「此処は幻燈の町。彼岸と此岸の狭間にある夢幻の町」
「……幻燈の、町?」
「おや?ご存知なのかな?」
「人伝に、な」
「………でも、美味しそうには、見えないけれど」
「ん?」
「ううん………何も、迷っているようにも悩んでいるようにも、ましてや此岸に別れを告げようとしているようにも、見えないから」
「俺は、探してたんだ」
「何を?」
「いなくなった友達だ」
「ふぅん?まあ、こんな所で立ち話も何だ、見世へ行こう」
 青年は、赤い唐傘をくるりと回し、積もった雪を幾許か落とすと、すぐ側にあった店の扉を開いた。
 見世の軒先には、か細く啼く小さな鳥の囚われた鳥籠が、吊るされていた。


 まるで人の息吹のない店だと思いながら、冷たい廊下を歩く。冬の冷気に冷え込んだ木目の美しい廊下は、下駄を脱いだ素足には聊か、応える寒さだった。
「この町は、現世と隠世の狭間にある町。現世から迷い込む人々は、一向に後を絶たないけれど、僕達はだからといって追い出したりはしないから、大丈夫」
 青年は、雅雄と名乗った。先を行く足取りは軽く、何の足音も廊下の軋む音もしない。自分一人だけが歩いているように思えて、足音を気にしてしまう。
 まるで背に羽でも生えているかのように、前を行く。
 雅雄が一つの部屋の障子を開ける。
 突然目の前に広がったのは、極彩色豊かな温もりのある部屋。
 絢爛豪華な屏風。彩色が細かく施された天井は、一部分がくりぬかれ、硝子板を嵌め込み、水を入れ、金魚が泳いでいる。
 外は雪が降り、凍えるような寒さだったというのに、この部屋の中は春のような陽気を持ち、室内の隅には桜の木が、別の隅には椿が生えていた。
「何だ…この部屋は…」
 呆気にとられて、部屋の異様さに眼を奪われる。
 室内には桜が狂い咲き、椿が畳の上に赤いその花を落とし、金魚が空を泳ぐ…その中にいるのは、自分と雅雄だけ。
 だが、雅雄は頭を掻くと、溜息をついた。
「部屋を間違えた。あれー?何でこの部屋に繋がったんだろう?」
「繋がった?」
「僕は茶室の扉を開けたつもりだったのに………って、あれ?孤轍様?」
 雅雄が目を向けた先は、桜の木。その根元に一人、手の中で狐面を玩ぶ少年がいた。
「いらっしゃい、雅雄」
「すみません、何でか繋がっちゃって」
「ああ、構わないよ。僕が繋げたんだ。其方のお客さんに、用があってね」
 少年が、手の中の狐面を顔につける。ゆらりと立ち上がり、とん、と軽く一つ畳を蹴ると、一つ瞬きをする内に、雅雄の横に立っていた。
「いらっしゃい、獵。翆なら此処にいるよ」
「何?」
「会いに、来たんだろう?君の大切なお友達の翆に」
 狐面の向こう側から聞こえてくる、高めのくぐもった声。嘲るようにも、悲しむようにも聞こえるその声に、雅雄に連れられてきた客、獵は眉根を寄せた。


 部屋の中央に座らされ、正面には狐面をつけたままの少年。どんな言葉を口にしていいのか分からずに、ただ黙って真っ直ぐに正面にある狐面を見ていると、どこへ行っていたのか、雅雄が手に盆を持って立っていた。
「孤轍様はお酒でいいんですよね?」
「うん」
「っておい、餓鬼。手前、まだそんな年じゃねぇだろ?」
「ん?こう見えても、年だけは無駄に食ってるから大丈夫だよ」
 少年は、狐面を外すと、出された猪口と熱燗を持ち、堂に入った仕草で酒を注いだ。そして、獵の前に出されたのは、煎茶。
「で、僕はどうしたらいいんですか?」
「ん?戻ってもいいよ?聞きたければ、そこにいてもいい。君にも、少しは関係のあることだしね。ううん。君じゃなくて、君の中にいる、禽、かな」
「ああ、その話ですか。それなら、もう十二分に聞きましたから、僕は席を外します。でも、いいんですか?こんな部外者に、その話をして」
 品定めをするような目つきで、雅雄が獵を見る。その視線から外れるように、獵は動いて煎茶の入った湯飲みを手に取った。
「ううん。彼は、部外者なんかじゃないよ。とても重要な、関係者だ」
「解りました。それじゃあ、僕は戻ります」
「うん。またね」
 ひらひらと、猪口を持った手ではない方を降り、雅雄を見送ると、美味しそうに猪口に口をつけ、酒を呑む。
「さて、と………で、一体君は何をしに来たのかな?」
 雅雄の着ている着物の色が見えなくなり、ぱたりと、音を立てて障子が閉まる。
「………翆が、此処に居ると言ったな?」
「居る」
「会わせろ」
「会って、如何するの?」
「連れ戻す」
「君に、その権限があるの?」
「権限、だと?」
「そう」
 空になった猪口に、再度酒を注ぎ、その揺れる水面に、視線を注ぐ。
「翆は、望んでこの町へ来た。その望みを絶つ権利が、君にはあると言うのかい?」
「友達を心配して、何が悪ぃんだ?」
「友達…ね。僕は、彼に君のような面倒見の良い友人がいる、ということがとても驚きだったよ」
「昔は、あんなじゃなかった。堅苦しい位真面目で、学が出来て、顔もそこそこいいし、品があった。女連中にも男連中にも好かれるいい奴だった。それが、何時の間にか、あんな風な、生きてるんだか生きてないんだかわかんねぇ、幽霊みたいな奴になっちまった」
「幽霊か…言い得て妙、だね」
「そうしたら今度は、急に行方不明。どう考えたって、変だと思うだろうがよ?」
「そうだね。翆は、変だよ。この町にあっても尚、妙だ」
 煎茶を一息に飲み干し、脅かしでもするかのように乱暴に、湯飲みを畳みの上へと置くが、その音は大してうまく響かなかった。
「会わせろよ、あいつに。引っ叩いてでも正気に戻してやる」
「ねえ、聞いてもいいかな」
「何だ?」
「君の言う、正気って、何?」
「あ?」
「君の言う正気って、どういう状態の事を言うの?朝起きてご飯を食べて、排泄をして、洗濯や掃除をして、仕事をして、またご飯を食べて、近所の人と当たり前に会話をして、余裕のある時には風呂屋に行って、寝るって言う、一連の行動が出来る人?」
「それが、普通だろうが」
「じゃあ、その普通が、正気ってこと?」
「ああ」
「なら、此処に居る存在は、全て皆正気じゃないよ」
「何?」
「翆は、その中でも一等、狂気染みてる」
「どういう、意味だ?」
「何たって、もう、骨だもの」
 にやり、と孤轍の口角が、上がり、邪悪な笑みを形作る。笑っていない瞳が、獵の背筋を凍らせた。だが、聞き捨てならない台詞が今………
「手前、翆は居るって言ったじゃねぇか」
「居る、とは言ったよ?けど、生きているとは、一言も言ってない」
「そう言うのは、屁理屈ってんだ!」
 空になった湯飲みを引っ掴み、獵はそれを投げた。だが、勢いよく空を切ったはずのそれは、当たると思った寸前で砕け散り、畳の上へと欠片を落とした。
「危ない事、しないでくれる?」
 右の人差し指が、湯飲みの割れた場所に無造作にあった。その指で、弾いて割ったのか…だとしたら、一体、どれほどの力の持ち主だと言うのか…
「仕方ないなぁ…暴れられても厄介だから、会わせてあげる。ああ。でも、その前に一つだけ、質問をいいかな?」
 割れた湯飲みの上に、猪口が落とされ、割れて重なった。
「如何して君は、翆を騙したの?如何して翆に、嘘をついたの?」
 獵の眉間に皺が寄り、米神が動いた。


 障子が独りでに動き、開く。その向こうにあるのは、また部屋。だが、その中央には、見慣れぬ物があった。それが、船で異国から渡ってきた寝台だとは、獵は知らなかった。薄い布で覆われたその台には布団が乗り、その布団はこんもりと、人一人分盛り上がっている。
「…誰だ?」
「僕の、大切な家族。僕の、大切な血族。血の繋がった、姉様」
「姉?」
 訝しむ獵をおいて、孤轍は立ち上がると、隣の部屋へと移動する。そして、寝台を覆う薄い布をゆっくりと捲り、布団の上へと腰掛けた。
「今は、眠っているだけ。此処で、傷を癒しているんだ」
「傷?怪我でもしたのか?」
「そう。それは、酷い怪我を負ったんだ。翆のせいでね」
「………どういう意味だ?」
「君は、まだ僕の質問に答えてない。如何して翆を騙したの?如何して、嘘をついたの?それに、答えてくれないと」
「俺が、何時、あいつを騙したって?何時、嘘をついたって言うんだ?」
「白を切るつもりかい?君は、翆に嘘をついただろう?」
『女房が、他の男と歩いているのを見た』
「って」
「っ!」
 慌てたように、獵が立ち上がる。
「それは、何故?」
「何で、知ってやがる?」
「知ってるさ、僕は何でも。だって、ずっと見守っていたんだから。狐雨夜を」
「狐雨夜…って、翆の女房か!」
「そう。可哀想に。鋭い刀で、胸を斬られて噴出した血が畳を染めて…ずっと、見ていたよ。刀を振り下ろした瞬間の、憎しみに満ちた翆の顔。狐雨夜が手を伸ばしているのに、表情の無い顔で見下ろして…どんなにか、痛かっただろう…どんなにか、苦しかっただろう…」
「まさか、狐雨夜が、手前の姉だとでも言うのか?」
「そうだよ」
 孤轍の言葉に、獵が動く。
 走って部屋を移動し、孤轍の座っている寝台の薄い布を、まるで千切るような力を込めて引く。
 白い布団に埋没するように眠るのは、幼い少女のような顔をした女性。長い黒髪に白い肌、色を失った唇、まるで、死人のような…
「狐、雨夜…」
「誰が、見ていいと言った?」
 間近に迫った孤轍の表情に驚く間もなく、獵の体は蹴り飛ばされ、元いた部屋へと転がった。
「っ…手前…!」
「僕は、全部知っている。今、君の罪も此処で全て、暴いてあげるよ」
 孤轍が腰掛けていた寝台から降り、静かに畳みの上を歩く。足音もなく、体重も感じさせずに動き、獵に顔を近づけ、にたりと笑った。
「君は、翆を、好いていたのだろう?」


 人は、自分とは違う存在を恐れつつも、惹かれることから逃れられない。遠ざけようと思っても、自ら進んで離れようとする事が出来ない。憎もうと思っても、それでも憎みきれないことが、間々、ある。
 獵も、そうだった。
 初めて翆に会った頃、何ていけ好かない野郎だと、半ば憎しみの篭った視線を向けていた。
 自分よりも良い寺子屋での成績、老若男女問わず人好きのする穏やかな性格、面倒見のよい一面、全てが、どこか癇に障る存在だった。
 それが、何時の頃からかはもう遠くて忘れてしまったが、いつの間にか、二人でいることが多くなった。
 成績もよく、人好きもし、面倒見もよいのにどこか抜けている翆を、憎むに憎みきれなかった。
 だからだろうか。まるで、自分が引っ張ってやっているような、面倒を見てやっているような気がしていた。
 そう。だから………
 自分に何の相談も、素振りも見せずに、突然妻を娶ることになったと、少女のような女を紹介された時に、獵は心底驚いた。
 まるで、裏切られたような、そんな気すらして………
 馬鹿だと思う。馬鹿馬鹿しいと思う。いつまでも一緒にいられるわけがないこと位、分かっていたはずだった。幼子のように、ただ遊んで暮らしていけるわけもない。人は成長し、仕事をし、家庭を持ち、子を設け、老いていくものだと…
 永遠なんて、決して存在しないのだと。
 それでも、当たり前に横にいた存在が、いつの間にかいなくなっていることに、愕然としない人間がいるだろうか。それまで当たり前だった景色が、たった一つの欠片が消えたことで、全く違う風景になったことに、一抹の淋しさや悲しみを感じない人間が………
 だから、ほんの、瑣末な、些細な、悪戯心だった。
 少し、波風を立ててやろうか、とでも言う程度の。
 そのささやかな悪戯心の果てに、一体何が起きるのかなど、想像もしていなかった。
 忘れていたのだ。翆が幼い頃からどれほどに、生真面目な性格であったのか、を。それを考慮に入れさせすれば、そんな悪心を起したとしても、それを行動に移すことなど、しなかっただろうに………
 既に、後の祭り。
 久方ぶりに顔を合わせた翆は、人が違っていた。
 暗く、人との関わりを避け、仕事もしているのやらしていないのやら分からぬ風情。獵が時折顔を出して様子を見なければ、万年床がまるで湿ってでもいそうな雰囲気。
 聞けば、妻は死んだと言う。
 殺されたのだと。
 誰にだ、と問うた獵に、翆は一言、こう答えた。
「さあ?」


 幻。現世と隠世との境。
「一体全体、どういうからくりだ?狐雨夜は不浄を清めるために、荼毘に付されたって聞いたぞ?」
 確かに、獵のよく知る、生前の姿と同じように見える狐雨夜の姿に、動揺する。
「ふふっ………人間如きの作り出す炎で、姉さんを燃やしつくせるとでも、思ったの?」
 馬鹿だよねぇ…、と呟いた孤轍が、腰に手を当てて、獵を見下ろす。
「僕は、絶対に許さない。絶対に!」
 向けられるその憎悪は、幼い子供が持つような幼稚なそれではない。
 何年も、何十年も、それこそ長い長い時をかけて蓄積され、育てられたような、深く濃い毒のような、怨嗟。
 ふと、腰に当てていた手を下ろし、顔を上げた孤轍が、くるりと袖を膨らますように一回転すると、部屋の中が、真っ白になった。
 吐く息が、白い。狐雨夜の眠っていた寝台もなくなった。あるのは、ただ、白く、白く…どこまでも続く、白い雪。足跡もなく、ただただ、白い世界………
「昔語りを、してあげる。ほぅら、来た。御覧よ」
 孤轍の手が、すっと、獵の後ろへと向けられる。振り返ったそこに色鮮やかな部屋はなく、またそこも真っ白な雪の世界。
 遠くから、何か、近づいてくる。ゆっくりと、ゆっくりと…それが近づいてくるにつれて、段々と色と形が鮮明になる。
 それは、黄金に輝く毛皮をもった、狐だった。寄り添い走るように、力強く四肢を雪上へつけている。けれど、二頭いる片方の動きが、どこか、妙だった。
 近づいてきた狐が、獵になど気づかないように、横を通り過ぎていく。その揺れる尻尾を追いかけるように視線を動かし、気がついた。
 真っ白な雪の上に、ぽつり、ぽつりと、赤い雫。生々しいほどに鮮やかで美しい、まるで椿の花のような、明るい赤。
 と、静寂の銀世界を震わし脅かす、大きな音が響いた。
 聞き慣れないそれが、猟銃の音だと言うことにすぐには気づかず、獵の視線は彷徨い、見つけた。
 幾つかの人影が、狐の来た方角から走ってくる。幾人かがその手に、猟銃を持っていることが見受けられた。
「怪我をしている狐はね、彼らに足を撃たれたんだ。人間の作り出すものは、酷いものばかりだ。山を切り崩す斧、獣の皮を剥がすための刃、そして、獣を殺すための銃。もしも本当に八百万の神がいると言うのならば、何故人間に、それを使える腕と、知能と、道具を与えてしまったのだろう」
 神をすら凌駕し、屠ろうと考える人間だっているのにね………呟いた孤轍の指が、狐を指す。
 怪我をしている方の狐が蹲り、まるでそれを心配するように寄り添うもう一頭の狐。動きを止めた二頭に、無慈悲にも距離を縮めて近づこうとする人間の手にある、猟銃が火を吹く。
 白い世界を揺るがす音が響き、寄り添っている狐の腕から、血が流れる。
「痛かったよ…けれどね、それよりももっと痛かったのは、横で雪に埋もれていく大切な家族の命が、消えようとしていること」
 袖を捲くった孤轍の右腕。そこに、引き攣れたような、痛々しい銃傷。
「自然界は弱肉強食だ。弱ければ喰われて死ぬ。けれど、喰われても、喰ってくれたその動物の中で、再び血肉となって命の欠片となることができる。けれど、人間はどうだい?自らが楽しむために、動物を狩るじゃないか!生きるためじゃない!享楽のためだ!そんなのが、許せるかい?」
 袖を下ろした孤轍の目に、憎しみの火が宿る。爛々と輝くその瞳の奥には、獵などには窺い知ることの出来ない長い年月が、横たわっていた。
 近づいていく人間達。撃たれて沈んだ一頭に折り重なるようにして、腕を撃たれた狐が頭を乗せている。何と大きな狐かと、一人の男が腕を伸ばした瞬間………
 青い炎が、高くその火柱を上げた。
 高く、高く、天まで届こうとでも言うように青い炎が燃え盛り、腕を伸ばした人間、猟銃を持った人間を、その炎の中へと取り込んでいく。
 命からがら…と言った体で逃げ出した男は手に持っていたものを全て放り投げ、一目散に振り返りもせずに逃げていく。
「誰が、悪いの?」
 ことりと、首を傾げて問う孤轍の瞳には、先ほどまでの憎悪はない。まるで、今日の夕飯は何?と聞く子供のように無邪気だ。
 だからこそ、背筋に悪寒が走る。
「僕たちはただ、与えられた天寿を全うしたいだけだ。与えられたそれを終えて、土へ還る。そんな、自然の生き方を、どうして君達に奪われなければいけないの?」
 寒さは、もうない。白い雪の世界も消え、獵の周囲は、元の部屋へと戻っている。孤轍の後ろに、狐雨夜の眠る寝台も、きちんとある。
 それなのに、寒い。指が、足が、震える。
「だから、僕は誓ったんだ。もう一度会えるまで…もう一度会えるまでに、安全で、安心で、とても美しい場所を、用意するんだ、って」
 人間に脅かされない、虐げられし者達の場所。天寿を全うすることの出来る世界。
「大事な、大事な、たった一人の家族。何十年も、何百年も…気が狂うほどの長い時間を待ち続けて、漸くこの町で生まれた、僕の姉さん。姉さんの為だけにこの町をつくった。姉さんが生まれてくる母胎となるように…」
 顔を覆い、泣き崩れるように孤轍の声が絞り出される。
「この町は、僕達の墓場であり、同時に母胎でもある。新しく生まれてくる生命を優しく包み込み、育み、いつか命終えるその時に、静かに眠りにつける、町」  そうして、再び出会えた大切な家族。一度奪われてしまった、たった一人の………
「狐雨夜は、此処を出たいと言い出した。とても、優しい人間に会った、って。あの人ならきっと、分かってくれる、って、とても幸せそうに微笑んでた。だから、此処から出したんだ!本当に幸せになってくれるのなら、そうして天寿を終えてくれるのならば、それに勝る至福はないから!」
 それなのに!
 悲痛な叫びが響き渡る。
 一度奪われた命。ようやくもう一度廻り生まれた命が、奪われた。
「許さないよ」
 穏やかな声が、微笑んだ唇から発せられ、冷たい視線が獵を見下ろした。
「狐雨夜を一度目に殺したのは、禽の先祖。二度目に殺したのは翆。そして、その翆を唆したのは、君だろう?」
「………………翆は、何処だ?」
「馬鹿の一つ覚えみたいに、同じこと何度も繰り返さないでよ」
 懐に手を入れた孤轍が、何かを取り出し、座り込んだままの獵の膝の上へと、放り投げた。
 それは、面だった。狐面かと思い手にとったその面に張り付いているのは………
 翆の、顔。
 悲鳴すら上げられず、面を放り投げて部屋を飛び出す。
 何処を如何走っているのかなど、分かるはずもない。ただ、とにかく、あの部屋の空気が何か、獵をおかしくしそうだった。
 飛び出していった獵を見送り、放り投げられた面を拾った孤轍が、笑う。
「馬鹿な、奴」
 それは、何の変哲もない、狐面だった。


 目についた襖に手をかけ、開いて飛び出したそこは、何の変哲もない部屋だった。欄干に凭れかかるようにして、一人の男が座っている。
 獵が入ってきたことに気づかないのか、その視線はずっと、外を見ている。
「あれ?孤轍様と話をしていたんじゃないんですか?」
 後ろからかかった声に急いで振り向くと、そこには、獵を孤轍のいる場所まで案内した青年が、立っていた。
「ごめんなさい、少しずれて貰えます?」
 襖を開けたまま突っ立っていた獵は、青年が手に食事の乗った盆を持っているのに気づいて、体をずらす。
「砕、食事だよ」
 優しい声で話しかけ、欄干に凭れた男の前に盆を出すと、その両手を取って盆まで導いてやる。
 男の目は、見えていないようだった。
「今日はね、白米と味噌汁と香の物だよ。魚はないんだ、ごめんね」
 男は従順に、導かれた手で探り、箸を持つと、白米の盛られた碗を手にとった。
「さて、と…で、貴方は何故此処に?」
「襖を、開けたら………」
「ああ。慣れないと、色々な場所へ繋がってしまうから。で、此処に留まるんですか?帰るんですか?お友達には会えました?」
「っ………」
 拳を握る獵を見て、笑う。
「分かりました。お帰りですね。出口まで案内しますよ」
 静かに、細々と食事を取る男を振り返り、そっとその頭を撫でる。
「少し、出かけてくるね。逃げたら、僕の中の禽を殺すから」
 男の肩が震える。しばらく止まっていた箸が、再び動き始めたのを見て満足したのか、軽やかに畳みの上を滑り、獵の横で立ち止まる。
「じゃあ、行きましょうか」


 外は、一面真っ白な、雪の世界。
 先を行く雅雄の後ろについた獵は、なるべく周囲の景色を視界に入れないようにと、前を行く雅雄の足元だけを見ていた。
「僕はね、羽がなかったんです」
「え?」
「羽が、なかったんです。飛べない鳥だったんですよ」
「いや、だが…」
 今、目の前にいる雅雄は、人の姿をしている。どこが、鳥だと言うのだろう。
「僕には羽がなく、僕の魂の双子には、眼がなかった。だから、僕達は一つにならなければいけなかった。そうしなければ、僕達はこの世界を生き抜けない」
 雅雄の手には、赤い唐傘。いつまた、雪が落ちてくるとも知れない曇天だからか。
「何故、そんな風に生れ落ちてしまったのか…一体、何の因果があって、そのようになってしまったのか、いつも不思議だった」
「因果………」
「罪、だったんです。それが」
「罪?」
 殺した罪。
 殺された罪。
 それは、死と言う名の不浄。
「ええ。罪を償うための罰が、それだった。けれど、それを清める事が出来る手段があった。それが………」
「二人が、一つになる、か?」
「そう」
 白い、雪。赤い、傘。前を行く雅雄の、黒い、髪。
「僕と彼は、一つになった。そして、僕らは互いを補い、羽と眼を手に入れた。飛べない鳥は自らを生かせない。瞳のない鳥は羽を使うことが出来ない」
 何も見えず、何処へも行けず。それで如何して、生きていけると言うのだろう。
「あの男は、もう一人の僕を突き放したんです。必死の思いで縋り、吐露した感情を、無慈悲にも踏み躙った。だから………」
 罰を、与えたんです。
 雅雄が、手に持っていた傘を開き、差す。そして左手を上げると、大きな赤い鳥居を示した。
「どうぞ。その鳥居を潜れば、貴方にとっての現世がありますよ」
 穏やかな風貌、語り口。けれど、やはり何処か寒々しいものを感じるのは、此処が獵にとっての、現世ではないと、そういうことなのか………
 薄気味の悪い思いをしながら、一歩を踏み出し、赤い鳥居を潜る。
 と、目の前に広がるのは見慣れた長屋の風景。空には晴天の雲一つない青空があり、纏わりつく暑さと、耳に届く蝉の鳴き声が、獵の意識を刺激し、眩暈を起させた。
「俺は………」
 ふらつく頭を押さえてその場に膝をつき、深く息を吐き出した。
 ………俺は、悪くない。


 ひらひら、ひらひらと、室内で蝶が舞う。
 赤い金魚と椿、金の屏風、薄い桜色、水の青、蝶の黒と紫。
 ゆっくりと開かれた、長い睫に縁取られた瞳が瞬き、すぐ側にある顔を見、ゆっくりとその瞳を細め、微笑んだ。
「おはよう、孤轍」
「おはよう、姉さん」
 お帰りなさい。お帰りなさい。
 ただ一人の、大切なひと。


 心待つ 愛しきものよ 手をのばし
         流(なが)る涙に 寄せる屍


 金屏風の前に、二つのお膳。その前に座るそれぞれが顔を見合わせ、穏やかに微笑む。
「おめでとう」
「おめでとう」
「おめでとう」
「おめでとう」
 幾つもの声がかけられ、照れるように見合わせた顔を背けたその仕草に、周りからの祝いの言葉は消えることがない。
「ささ、御一献」
 赤い盃に、とくとくと酒が注がれ、並々としたそれを飲み干した顔に、朱が走る。
「さぁさ、花嫁さんも」
 言いながら、白無垢の前に進み出て、赤い盃にとくとくと酒を注ぐ。
「おお、いい呑みっぷり」
 やんや、やんやと、宴会が続く。
 馳走が振舞われ、盃に酒が注がれ、華々しい祝いの席が、続く。
 幽玄の、時。


 こーん、こーん
 狐が鳴くよ。
 お祝い喜び、狐が鳴くよ。
 さあさあ、皆様
 狐の嫁入り。
 お姫(ひい)さんの嫁入りだ。
 お酒を飲もう、御馳走食べよう。
 今日は皆で無礼講。
 花を散らして踊りましょう。
 赤い火(ほむら)に狐が鳴くよ。
 こーん


 赤い鳥居に月がかかる
 此処は幻
 幻燈の町





2008/2/23初出



幻燈の町シリーズ完結です。
ここまでお付き合いくださった方、ありがとうございました。
色々と語りたい事もあるのですが、あまり語らない方がいいかも…とも思います。
孤轍は自分の書くキャラクターの中では、珍しいキャラでした。突飛と言うか、何と言うか…
もし何かご質問等あれば、お気軽にどうぞ。答えられる範囲で答えさせていただきます。
蛇足ですが…現世(うつしよ)隠世(かくりよ)と読んでいただけるとありがたいです。まあ、感覚で構いません。