*壱章〜再逢〜一*




 大きな手が、子供の頭を撫でる。その手の温かさに、子供は、泣きそうになった。
「さあ、もう帰れ。二度と此処へは来るな」
 優しさのこめられた低い声音を、もう二度と聞けないのかと思うと、子供は、寂しかった。


 見えない、という恐怖に身震いをする。目元を塞いだ布は、固く頭の後ろで結ばれている。両の手首を同じく布で結ばれ、動きを封じられているが為に、無闇に動くことすら、出来なかった。
「そちの眼(まなこ)は、恐ろしい」
 男の乾いた声が、落ちてくる。上から見下ろしているのか、と思っていると、吐息が首筋にかかった。
 嫌悪感が胸中に広がったが、それを顔や、まして口に出したりはしない。そんなことをすれば、大切な顧客を一人、失うことになるのだ。我慢するために、封じられた手の先で拳を強く、握る。
 どうせ、こんなことは、日常茶飯なのだから。
 腰帯を解かれ、硬く太い指が、首筋から胸元、そして腰へと、辿るように肌の上を這って行く。
「ほんに、吸い付くようじゃ」
 楽しげな男の声とともに、指が内股を撫で摩り、両の足を開かせた。
 逃げたくても、逃げられない。両の手を封じた布は、御丁寧にも、錫杖で床に縫い付けられている。
 逃げないように、暴れないように、との用心なのか、それとも………
「そうじゃ。過日、面白い薬を手に入れた。そちで試すとしよう」
「っ!」
 一体、何の薬なのだ………と、問う前に、開かれた足の間の奥、他者へ見せることなどない場所に、男の指が触れてきた。
「なぁに。案ずることはない。信用できる修験者から買い入れた物よ」
 息を呑む音が聞こえたのだろう。くつりと笑った男の指が、ぬめる何かを、足の間の奥へと塗り込める。
「くっ………」
 突然入りこんできた男の太い指に、言葉を飲み込んで、首を横に向ける。
 見えないとわかっていても、反射的な行動だった。
「薬が効いてくるまで、わしは手酌で一献、飲み干すとしよう」
 いつの間に用意してあったのか、床から土瓶を持ち上げるような音がする。とくとくと酒を注ぐ音。そして、それを飲み干した男の声。
「美味い」
 再び酒を注ぐ音と、男の喉の鳴る音。
 音だけの世界で、耐えていた体に、異変が起こる。薬の塗られた箇所が、むず痒いような、熱いような感覚が広がり始めたのだ。
「そちは、何故都に住まぬのじゃ?あのように辺鄙で寂れた村など、食べる物にも困るであろうに?」
「それは………」
「それに、そちが都に住んでおれば、こうしていつでも、遊べるというもの」
 そうだ。これは、遊びなのだ。この男からしてみれば。単に、珍しい遊び道具を手に入れたから、試してみたいというだけの。
 そのことに気づいた瞬間、諦めという名の帳を下ろし、心を殺す。
 こうすることでしか、自分は、生きていけないのだから、と。
「そちは、酒を嗜むのかえ?」
 意外と近くで聞こえた声に驚き、声のした方向へと顔を向ける前に、きつい香りを放つ雫が、唇へ零された。それが酒だと気づくのに、幾らもかからない。滑って口中へ落ちてきたそれを呑みこんでしまい、後悔した。
 酒は、苦手なのに、と。
「わし一人嗜むのでは、勿体ないからのぅ」
 土器(かわらけ)と思しき物で頬を軽くはたかれ、酒の注ぐ音に続いて、顎を掴まれる。
「飲みやれ」
 押し付けるように土器が唇に当てられ、一息に酒が口内へ流れ込む。受け付ける以外に何もできず、呑みこんだ。
「どうじゃ?効いてきたであろう」
 男の声が、少し、遠かった。酒は、拙い。意識を、朦朧とさせる。
 薬と、酒と、むず痒さと、熱さで、わけがわからなかった。
「夜明けまで、たあっぷりと、可愛がってやろうぞ」
 乾いていたはずの男の声が、粘り気を帯びていた。


 気怠い体を、引きずるようにしてたどり着いた小川の横で、青年はもよおした吐き気を堪えきれずに、土の上に手をついた。
「うっ………ぐっ………」
 競りあがってくるものを吐き出し、荷物の中から手拭を探り、取り出す。
 小川の中へ手拭を浸し、絞る。それを額に当てれば、少しは良くなるような気がした。
 布に、薬に、酒に翻弄され、夜明け近くまで嬲られて、心身ともに疲労が蓄積されていたが、今日中に山を一つ、越えねばならないのだ。そうしなければ、明日までに村へ戻ることができない。
 次の仕事が、控えている。早めに取りかからなければ、その次の仕事が滞る。そうしなければ、食べていくことができない。因果な己の商売を憎みながら、それでもそれに固執することでしか命を繋ぐことのできない自分に対して、滑稽さがこみあげてくる。
 それを飲みこむように、小川の水を一掬いして口に含み、漱ぐ。水の冷たさがもたらす清涼さを取り込めば、穢れた体が少しは奇麗になるかと、一口、二口と掬った水を呑む。
 それでも、体の奥底に凝った嫌悪感は、消え去らない。
仏門に帰依した身でありながら、平然と肉欲に溺れる男が、真面目な顔で民衆に理を説いているのかと思うと、おかしかった。
 そして、そんな男に抱かれていた自分も、また。
 握りしめ、温もってしまった手拭をもう一度小川の水につけて絞り、顔を、首を、腕を拭い、青年は荷物を持って立ち上がった。


 烏の鳴き声が、山の中にこだまする。その声を煩わしいと思いながら、ゆっくりと盃を傾ける。
 まだ青い東の空に、薄く、ぼんやりと、細い月が上がっている。
「忌々しい」
 呟いて、盃を空ける。
 傍らに置いた土瓶を持ち上げると、その軽さに溜息をつき、軽く両の手を叩いた。
「お呼びですか?」
 すっ、と音もなく、男が階(きざはし)の下へ膝をついて頭(こうべ)を垂れる。
「また、酒を買ってきておけ」
「承知いたしました」
 そのまま、男の姿は掻き消えるように、その場から失せた。
 空になった盃を庭へ飛ばすと、岩に当たって、砕けた。
「満たされるものか」
 空腹が、喉の渇きが、止まらなかった。


 夕闇迫る時刻、ようやく辿りついた村への入り口を通り、田畑の広がる村の中心部からはかなり離れた場所にある家へと、足を向ける。
 既に、田畑に人の姿はない。日の出とともに眼を覚まし、日の入りとともに眠りにつく村人達は、今頃夕食の席を囲んでいるのだろう。
 薄暗く、丈の高い雑草に覆われた、ほとんど通る者のいない道なき道を進んで行けば、木々に囲まれ、覆われるようにして建つ、小屋に近い我が家が現れる。家、などと呼べるほど大きな建物ではないが、それでも、寒風が入り込まないだけ、ましではあった。  だが、ようやく辿りついた我が家の前で、青年は深々と溜息をついた。
 鼻をつく、嫌な臭い。引き戸の前に大量に捨てられているのは、野菜の皮や魚の頭、そして本来ならば、肥溜めに溜められるはずの糞尿だった。
 こんな村の外れにまで、よく運んできたものだと、感心すると同時に、呆れもし、壁に立てかけてあった鋤で、それらを少しずつどかして、捨てる。
 こういったものが時折、留守にしている間に捨てられるせいで、家の周りの植物達は発育がとても良い。雑草などは勢いよく伸びてしまうため、折を見て引き抜かなければ、村や山へ通じる道を、簡単に塞いでしまう。  今夜中は匂いが取れないだろうが、それでも何とか、家の中へと入ることはできる。引き戸を開けて中へ入り、一応、心張棒で戸を支える。盗られる物など何もないし、留守中は心張棒などつけてはいないが、どうせ、村の人間は、家の中にまでは入らない。  板張りの床の上へ荷物を置き、草鞋を脱いで上がる。荷解きをする気などおきなくて、何とか旅装だけは解いて、布団を敷くと、その上に寝転がる。
 体が、とにかく重かった。ゆっくりと、夢を見ることもなく、眠りたかった。


 どこか、遠くで呼ばれている気がする………そんな風に寝惚けた思考が、ゆっくりと重い瞼を押し上げさせる。
 汚れた天井が視界に入り、暗くない家の中を見て、日が昇ったのか、などと考えていると、耳を打つ大きな音が響いた。
 呼んでいたのはこれだったのかと、引き戸を乱暴に叩く音に、溜息をついて布団を退かし、草鞋を履くのも面倒で、素足のまま土間へと降りる。
 心張棒を外し、引き戸を開ければ、戸を叩いていたままの、腕を上げた姿勢で、男が動きを止めた。
「清秋(きよあき)、もう少し、静かに来てくれ」
 見慣れた村人の一人に、額を押さえながら応対すれば、驚いたような表情を作った。
「まだ寝ていたのか?とっくに日は昇っているぞ」
「昨日、夜遅くに出先から戻ってきたばかりだったんだ」
 疲れた溜息をこぼして見せれば、悪い、と素直に謝られてしまい、それ以上の追及はできなかった。
「それで、何の用?」
 まだ十分に眠くてよく働かない頭では、無愛想な応対にもなろうと言うものだが、清秋は気にした風もなく、笑う。
「ん?二、三日都へ行く用事が出来たんで、村の連中に買いだす物がないか、聞いて回っているんだ」
「律儀だね、君も」
「そうか?でも、出先から戻ったって言うことは、少し前まで都に行っていたのか?」
「一昨日までね」
「言ってくれれば一緒に行って、色々案内してもらったのにな」
「案内って、君だって都へは行くだろう?」
「行くが、年に一度行くか行かないか、だ。お前のように仕事でもない限り、行かない」
「その君が、都に行くんだ。どんな用事なんだい?」
「へ?あ、ああ………う〜ん。お前には、先に言っておくか」
 頭を掻いて逡巡した後、照れたように顔を背ける。
「その、稲刈りの終わる時期に、な………祝言を上げることになった。それで、彼女に贈る簪でも、ってな」
「おめでとう。ようやくだね」
「ようやくって何だ!確かに俺は、遅いって言われたけどな!」
 不貞腐れたように腕を組む清秋に苦笑していると、ふいに、清秋が表情を曇らせる。
「悪い」
「え?」
「お前を、祝言の席にも呼ぼうと思ったんだが………」
「………いいよ。僕は、行かない」
「すまん」
「君が謝ることじゃない。ご両親の思いは尤もだと思うよ。僕のような人間が、村の祝い事に参加するわけにはいかない」
「翡翠………」
「卑下しているわけじゃない。僕のせいで、皆の間に波風を立てるのは嫌なだけだ」
 首を左右に振り、顔を上げる。
「早く行った方がいい。急がないと、日が暮れる前に都へ辿り着けないよ。薄暗くなれば山道は危ない」
「ああ。じゃあ、行ってくる」
「気をつけて」
 元気よく、小走りに去っていく清秋の後ろ姿を見送り、翡翠は引き戸を閉めて家の中へ戻り、足についた土を払って板の間へ上がると、再び布団へ潜りこんだ。









2011/9/4初出