*壱章〜再逢〜二*


 振り上げられ、振り下ろされる腕。投げられた石のぶつかった皮膚は切れ、赤い血が滲む。逃げようと走り出せば、先回りした者に足をかけられて転ばされ、髪を掴まれて引きずられる。口の中に入ってしまった砂や土を吐き出したくても、その暇すら与えられることはない。
 遠くから見ている大人達は、誰一人としてそれを助けようとは思わず、黙々と畑仕事をこなしている。
 それに気をよくした子供達は、さらに増長して、石で子供の頭を殴り、髪を引っ張り、浅い川の中へと放り込む。
 高く響く、子供達の笑い声。勝利に満ちて誇らしげな。
 ようやくのように川から上がり、子供達が去ったのとは逆の方向へ歩き出し、水を含んで重い着物の裾を絞る。
 痛い。痛い。痛い。痛い。
 心の中に呟く言葉はそれだけで、それ以外の言葉は出てこない。
 何とかたどり着いた小屋のように粗末な家の戸を引くと、家の中で煮炊きをしていた男が、不快気に眉根を寄せて、手近に置いておいた木々を放り投げてくる。
 薪割りをして来い、という意思表示なのだろう。切傷だらけの腕で、それらを持ち上げようとするけれど、持ち上げることがかなわない。
 取り落とした様子を見て、男が立ち上がると、掴んだ水桶の傍の柄杓で、頭を殴る。何度も、何度も、何度も、何度も。
 痛い。痛い。痛い。痛い。
 けれど、声は上げられない。声を上げれば五月蠅いと罵られ、さらに殴られるとわかっていたからだ。
 子供は、耐えに耐えた。耐えて、耐えて、そうして、感じないように心を殺した。
 ふうっ、と日が落ちた後のように、暗い闇の中。視界の端で、ちらちらと炎が揺れている。それが、燭台の炎だと理解するまでに幾らかかかり、自分が腰を下ろしているのが、よく磨きこまれた板張りの床だと気づく。
 遠くで、声がしている。養父が仕事相手と話をしているのだろう。自分は、此処に置き去りにされているのだ、とわかり、微塵も動かずに、息を潜めて待つ。
 しばらくして、板張りの床が軋み、足音が二つ近づいてくる。姿を現したのは養父と、仕事相手と思しき貴族だった。狩衣を纏い、烏帽子を被っている。
 貴族が燭台を持ち、明かりを近づけてきたのに気づき、顔を見られまいと背けようとするが、顎を掴まれる。
「ほぉう。げに恐ろしき眼じゃな」
「しかし、これには何の力も御座いません」
「真じゃな?祟られたり呪われたりはせぬ、と?」
「御座いません。存分に」
「ふむ。謝礼は弾むとしようぞ」
「有難う御座います」
 深々と、腰が折れ曲がるほどに頭を下げる養父が、部屋を出ていく。自分も帰らなければ、と思うのに、貴族に腕を掴まれ、動けない。
「何処へ行きやる?」
 咎められた、と足が竦んで動けなくなる。この貴族は養父の大事な客なのだ。不興を買うわけにはいかない。
「理解しておらぬようじゃ。初めてかの?」
 貴族の言っている意味が分からない。何かを察して欲しいのかも不明だ。
「そちはな、売られたのじゃ」
 売られた………その言葉に、完全に動けなくなった。
 誰に?何のために?如何して?
「ゆるり寛ぐがよい。そちの養父は、明日の朝まで戻らぬ。たんと、酒代をくれてやったからのぉ」
 明日の、朝?まだ、宵の口なのに?
「なぁに、怖いことなど何もせぬ。そちはただ、麿の言うとおりにしておればよい」
 腕を掴んでいた貴族の指が、這うように袖の内側へと入った。


 汗で、着物が肌に張り付いている。じっとりと滲んだ脂汗が、髪を額や頬に張り付けていた。
「何で、今更………」
 嫌な夢だった。何故、今更昔の夢など見るのか。
 いや。原因は分かっていた。先日の男が、似ていたからだ。初めて自分を買った男に。
 あれは、いつの頃だったろう。十になるやならずやの頃だったか。
「っ………」
 痛い。苦しい。怖い。気持悪い。助けて。
 どれだけ心の中で叫んでも、誰にも届かなかった言葉達。もう、呟くこともとうにやめてしまったけれど。
「好きで、こんな風に生まれたんじゃない」
 どれだけ憎んでも、嫌っても、変えられない自分の姿。何度も、夢の中で繰り返される痛みの記憶。
 まるで、楽になることを、許さないかのように。
 病で死んだ養父の呪いか。それとも、村人全ての怨嗟の念か。
 いっそ、この眼を抉り出してしまえれば、いいのに………そう思いながら、翡翠は重い体を無理矢理に起こして、草鞋を履いて土間へと降りた。


 中天にかかるほどに昇りきった太陽を見上げて、大分寝過ごしてしまったと、外に置いたままにしておいた大きな笊を掴む。
 大分遅い時間に目が覚めたため、普段している早朝の仕事を今からするわけにはいかない。常であれば、村人達が起きだすよりも先に目を覚まし、山へと分け入って薬草を摘みに行くのだが、今から山へと入ったのでは、足元の覚束ない夕暮れに下山することになってしまう。それは、危険だった。
 仕方なしに、都へ行く前に積んであった薬草を干そうと、笊を幾つか並べていく。
 翡翠の仕事は、薬師(くすし)だ。村で、只一人の。村に隣接した山で薬草を摘み、それを干し、煎じ、粉末状の薬にしたり、煉り薬にしたりして、都で売るのだ。
 笊を並べ、家の中へ戻ろうと振り返った瞬間、翡翠の顔に、冷たいものがかけられた。
「なっ………」
「いよぉ、鬼子(おにご)」
 桶を持って立つ男が、一人。かけられたのは冷たい水だが、それはどこか生臭く、鼻をついた。恐らく、魚を洗うかさばくかした際に使用したのだろう。
 わざわざ、こんな村外れにまで、そんな水を捨てに来る者はいない。汚れた水は大抵、川に流しているはずだ。ならば、彼はそれを翡翠にかけるためだけに、ここまでやってきたのだ。
「秀雄(ひでお)」
「今度は、どんな悪巧みだ?」
 悪巧みなど、したことはない。たとえそう口にした所で、秀雄が信じることなど決してないのが分かっていたから、翡翠は口を閉じていた。
 何も、言うまい。何も、答えまい。何かを口にすれば、それだけで、秀雄の中の苛立ちは表に出てくるのだから。
 口を閉ざしたままの翡翠に、秀雄は桶を投げつけてきた。それは、翡翠の肩にぶつかって、地面へ落ちる。
「拾え」
 腰を屈め、拾おうと腕を伸ばすと、近づいてきた秀雄の腕が、翡翠の肩を、頭を押さえつけ、地面へと押し倒す。
「てめぇがいると、村の空気が悪くならぁ」
 地面へと擦りつけるように、秀雄の腕が翡翠の頭を押さえつけ、揺さぶる。
「とっとと出て行けよ、この、疫病神」
 頭を押さえつけていた腕が離れ、転がった桶を拾い上げると、それで一度翡翠の頭を殴り、笑いながら、秀雄は立ち去っていく。
 その足音が聞こえなくなるまで、翡翠は体を起こさなかった。
 たとえ、殴られた場所が切れ、流れ出した血が、地面に零れても。


 夕刻から降り出した雨は、勢いを弱まらせることなく、強めて降り続けていた。この分では、都でも雨だろうと、今朝方都へ発った清秋が、無事に雨宿りのできる場所を探せていることを祈った翡翠の耳に、無遠慮に戸を叩く音が聞こえてきた。
 既に、戌の刻を過ぎている。こんな夜半に訪れる者など―それも、こんな雨の日に―いるはずもないと思ったが、雨音を掻き消すほど強く戸を叩かれては、開けないわけにもいかなかった。
 何せ、翡翠の家は他の村人の家とは違い、戌の刻でも油を使い、火を灯しているのだから。
 火を灯してはいても、土間まで照らすほどの明かりではない。手探りをしながらどうにか心張棒を外し、引き戸を開けると、雨粒の叩きつける夜の中で、更に黒い二つの影が、立っていた。
「夜分に申し訳ない。この雨を凌ぎたいのだが、一夜の宿を借りられないだろうか」
 低い、男の声。雨を凌ぐ為に纏っている蓑のせいで、体格が大きく見えるようではあったが、旅の者なのだろう、背に、荷を背負っている。
 断りを入れて、こんな雨の中へ放り出して家の先で死なれても、寝覚めが悪いだけだ。仕方なしに、翡翠は半分だけしか開けなかった引き戸を、全開にした。
「どうぞ」
「ありがたい!」
 男は、心底ありがたいようで、ほっとしたように肩で息をつくと、後ろにいた男へ振り返った。
「頼光(よりみつ)様、こちらの方が一晩、泊めてくださると」
「真か。忝い」
「いいえ。外は寒いでしょう。どうぞ」
 男二人は、蓑を外すと、土間へと足を踏み入れ、滴を払うように軽く腕を払い、戸を閉めている翡翠を振り返った。
「いやぁ、本当に助かった。この村はどこもかしこも明かりがついていなくて、このままではこの雨の中で野宿かと、諦めておった」
 頼光、と呼ばれた男が、話し出す。翡翠に宿を請うた男は従者なのだろう、頼光から蓑を受け取ると、引き戸の傍へと置いた。
 翡翠は土間から板の間へ上がり、隅へ退かしておいた練薬を二つ掴んで、再び土間へと降り、二つの椀へそれを入れ、温くなってしまった湯で溶かした。
「飲みますか?」
「それは?」
 従者の方が、訝しげに問いかけてくる。薄暗がりの中、突然椀を差し出されれば、不審に思うのは当然だろう。
「薬湯です。湯が冷めてしまったので少し温いですが、冷えた体を温める役には立つと思います」
 従者が椀を手に取り、匂いを嗅いで、慎重に一口、口をつける。暫くそうして動かずにいたかと思うと、もう一つを取り、主へと渡した。
「毒ではないようです」
「うむ」
 受け取った二人が飲み干すのを確認して、翡翠は板の間へ上がると、敷いてあった布団を畳み、円座を出した。
「上がってください。水気を拭うための布を出します」
「いや、そこまでしてもらっては………」
 躊躇うように、頼光が辞退を申し出ようとするが、翡翠は見えないとわかっていて、首を左右へ振った。
「いいえ。僕は薬師です。病にかかられるのは困る」
「何と。この村に薬師がいるとは」
「ですから、お上がり下さい」
 消えかかった燈台の皿へ油を足し、布を二人へ手渡して、翡翠は瞼を伏せた。
 この薄暗がりの中ならば、見えることはないとわかっていても。
「板間を使ってください。僕は土間で寝ますから」
「いや、それは………」
「身分ある方のようですし、どうぞ」
 言いながら翡翠は土間へと降り、茣蓙を取り出してその上へ座った。
「火は御自由にどうぞ。後、僕の顔は見ずに早朝に出て行ってください」
「は?」
 そうして翡翠は、もう一枚の茣蓙を取り出して体の上へかけると、幾許も経たぬ内に、そのまま眠りへ落ちて行った。


 すぐさま寝息が聞こえてきたことに驚き、二人は顔を見合わせた。
「薬師とは。幸運な巡り合わせだ」
「しかし、それにしては様子がおかしいですが」
「何を言う。見知らぬ男二人を板間へ上げて泊めてくれるという御仁に、おかしいなどと言うものではない」
「はっ、申し訳ございません」
「だが、顔も見ずに、というのは解せんな。そのようなこと、武士(もののふ)の道に悖ろうというものだ。礼の一つも告げてから、出て行かねばなるまい」
「何か、謝礼でも渡せれば良いのですが、生憎と持ち合わせがありません」
「旅の帰りであるからな。なぁに、一度都へ戻り、落ち着いてから再び訪れても、遅いことはあるまい」
「そうですね」
 借り受けた布で水気を拭いながら、腰に差した刀を外し、手甲と脚絆を外し、旅装を解いて身軽になってから、二人は円座を枕に、横になった。


 まだ、日も登りきらぬ明け方、薄暗い時刻に、乱暴に戸を叩く音で、翡翠は目を覚ました。
 そういえば、昨夜は土間に寝たのだと、茣蓙を外して体を起こし、板間を振り返れば、眠っているのか、客人二人分の姿が見えた。
 何度も、何度も執拗に叩かれる引き戸。訝しむように、翡翠は引き戸の側にある小窓から外を覗き、急いで茣蓙を元の場所へ戻し、寝ている二人を叩き起こそうとしたが、翡翠が板間に昇った途端、二人は跳ねるようにして起き上がった。
「何事だ?」
 従者の男が、低く声を出す。二人が枕代わりにしていた円座を取り上げるようにして元の位置へ戻し、翡翠は板間の奥にある押入れを開いた。
「早く隠れてください」
「何?」
「いいから、早く!」
 小声で二人に促し、押しやるように押入れの中へと、荷物ともども押し込め、閉める。そこへ、今まで寝ていたかのように布団を敷いて、引き戸の心張棒を外した。
 すると、昨日やってきた秀雄を先頭に、村の男五人ほどが、翡翠を睨みつけた。
「よぉ、鬼子」
「こんなまだ暗い内から、何の用ですか?」
 秀雄は、翡翠を突き飛ばして家の中へ足を踏み入れ、ぐるりと見回すと、草履を脱ぐことなく板間へと上がり、足で乱暴に布団を蹴ると、押入れを開けようと、手を伸ばした。
「開けるな!」
「何、だと?」
「そこには薬草が入っている。様々な種類の薬草だ。君は、何の知識もなくその中の物を散らかして、死にたいのか?」
「て、めぇ!」
 翡翠の鋭い言葉に逆上した秀雄は、板間の上を飛ぶように駆けると、その反動で翡翠の体を蹴り飛ばした。
「この、鬼子が!疫病神が!やっぱりてめぇは禍だ!村を滅ぼす気だろう!」
 蹴り飛ばした翡翠の体を追いかけ、細い首を掴んで壁に叩きつける。
「ぐっ………」
「やめんか、秀雄!わしらはこんなことをしに来たんではない!」
「けどよ!」
「鬼子に手を出せば、わしらが呪われる!」
「っ!」
 年嵩の男に注意され、秀雄は翡翠から手を離すと、汚い物でも触ったかのように、その手を袖口で拭った。
「昨夜、村のあちこちの家を回り、宿を求めた二人連れがいる。来なかったか?」
 年嵩の男の言葉に、絞められた首を摩り、呼吸を取り戻した翡翠は、首を左右に振って立ち上がった。
「こんな村の外れにまで来る旅人など、いません。ここには、山へ通じる道なんて、ありませんから」
 翡翠の言葉に、男は頷くと、秀雄を促し、他の男達と去っていく。その背が、村の中へと消えていくのを確認して、翡翠は壁に手をつくと、競りあがってきた血を外に吐いた。
「っ………はっ、うっ………」
 蹴られたのは、腹だった。もしかすると、どこかが傷ついたかもしれない。けれど、骨の折れるような音はしなかった。大丈夫だろう。
 ようやく明るくなってきた空を見上げ、壁に縋るようにして立ち上がると、気配もなく背後に、男が二人立っていた。
「すまぬ。私達のせいで、そなたに迷惑を」
「いいえ。こんなのは、いつものことですから」
 口元を拭い、体ごと振り返り、二人の双眸が丸く見開かれていることに気づき、翡翠は顔を背けた。
「そなた、眼が………」
 まずい、と腕で眼を覆った時には、遅かった。
 従者の男が、握っていた刀の鯉口を切る音がした。だが、それを頼光が止める。
「止めぬか。身を挺して我らを庇ってくれた恩人に対して、刃を向けるなど言語道断だ」
「しかし、この者………」
「話を聞いてからでも、遅くはなかろう」
 主の言葉に、従者は抜きかけていた刀を戻し、姿勢を正した。










2011/11/5初出