翡翠が居を外れに構えさせてもらっている村は、四方を山に囲まれた農村だった。土地の半分以上を田畑と畦道が占めていて、所々に小さな家が点在している。村人のほぼ全てが、村での農作業に何らかの形で関わっているが、山を二つほど超えた所に都がある為、毎年のように都での華やかな暮らしを夢見る若者が出て行ってしまい、人手不足に悩まされている。 そんな村の、目下頭痛の種というのが、翡翠の存在だった。 黒髪、黒眼で、農作業で日に焼けた肌を持つ村人とは違う姿をした翡翠は、恐怖と排除の対象だった。元々が、この村の生まれではないことも、原因の一つではあるだろう。余所者を嫌う村の慣習として、翡翠は村八分にされている。 男にはあるまじき黒く長い髪、白い肌、そして何よりも、翡翠自身が嫌い、他に同じ色をした人間を見たことのない、新緑色の瞳。この瞳こそが、村人を恐怖させる要因だったが、どこへ行ったとしても同じ目に合うことが理解できている翡翠は、この村を出ていく気はなかった。 翡翠は、実の両親の顔を知らない。道の端に捨てられ、息も絶えなんとしていた所を、通りかかった薬師を生業とする男に、拾われた。男は翡翠に衣食住を与えたが、成長するにつれ、男が決して翡翠を助けようとしたわけではないことが、わかった。 珍しい姿形をした翡翠を、珍しい物が好きな貴族に、売り渡すためだ。その上、使ったことのない様々な薬草を、毒がないか、薬になるか、翡翠で試すためだった。 そんな、翡翠を拾った男も、数年前に病で亡くなった。都へ行った際に、流行っていた病をもらってきたのだ。村人は当然、一人も近寄らなかった。 いっそ、諸共死んでしまえ、と思っていたのだろう。 だが、翡翠は生き残った。男の苦しむ声と怨嗟の言葉を聞きながら。 そして今も、この村で、生きている。 「僕は、人間です」 何者だ、と問われた翡翠の答えがそれだった。他に、答えようがない。 妖しだと、物怪だと、そう答えればいいのだろうか。それがきっと、彼らの望む答えなのだろう。けれど、翡翠は未だかつて、人ならざる力など、使ったことはない。持っているとも思えない。 もしも、持っているのならば、こんな風に泣き寝入りをする必要など、なかっただろうと思う。 蹴られた腹を摩り、溜息を吐く。 「………確かに、そなたは鬼には見えぬ」 「鬼?」 源頼光、と名乗った男がいう。横に控えた男は、部下の渡辺綱、というらしい。二人とも、都の警備にあたる武士で、今回はたまたま遠方で用があっての帰りだという。 「左様。この辺りには、鬼が出るという噂があると耳にしてな。丁度良い機会であるし、通りがてら調べてみようかと思った次第だ」 「そうですか」 鬼、と言われて、翡翠は、ああ、と呟く。 「何かあるか?」 「いいえ。ただ、この村は山に囲まれていますが、そのほとんどの山が人の足が入ったことのない場所が多くて、危ない。道もありませんし。でも、子供達はそんなの関係なく遊び場所として山を選びたがるので、脅かすために親がそういう風に言っているのは、聞いたことがあります」 「脅かしの種、ということか?」 「そうです。村はあまり広くありません。大人に隠れて遊ぼうとするなら、山しかないんです。けれど、獣だっているでしょうし、足場も悪い」 「確かに、先日この村へ入る際に登った山は下りの道が全くなかった」 「都へ向かう道は、僕の家のすぐ脇の山にあります。そこだけは、比較的村人も使う道がありますから、安全だと思います」 「そうか。鬼は、いないか。ならば、取り越し苦労というものだな」 「はぁ」 「何、私やこの綱にかかれば、鬼など退治てくれる、と意気込んでいたのだがなぁ」 「頼光様、お戯れを」 「そうか?」 はははっ、と豪快に笑う頼光に、綱が呆れたように溜息をつく。それを見て、翡翠は強張っていた肩から力を抜いた。 殺されなくて済んだようだ、と。 「して、先ほどの村人達は、何故あのように息巻いていたのだ?」 「きっと、余所者を追い出そうとしたんだと思います」 「余所者とは、私達のことか?」 「はい。この村は、余所から来る人を信用していません。徹底的に排除しようとするんです。昨夜、貴男方が各家の門戸を叩いて誰も出なかったのも、そういう理由だと思いますよ」 「妙なこともあるものだな。歓迎されないことは間々あるが、追い出されるほど悪いことなどしていないが」 「良い、悪いは関係ないんです。ただ、余所者は信用できない、と。そう思っているんです」 翡翠は立ち上がり、押入れに仕舞っておいた硯と墨、筆と紙を取り出した。 「山の安全な道をお教えします。都へ戻るのですよね?」 「ああ。忝い」 墨をすり、紙に山の形を書く。わかりやすいように山の中にある池や巨木の位置などを書きしるし、綱へ渡す。 「この道が比較的安全だと思います。今まで一度も、獣に遭ったことがありませんから」 「いただこう」 「何か、礼をしたいが、今は生憎と持ち合わせがない。都へ戻り、落ち着いた頃にまた、改めて礼をさせていただく」 「いいえ。いりません」 「しかし、恩に報いないのは武士の道に悖るであろう」 真剣に言う頼光に、翡翠は首を左右に振った。恩を売るために、彼らを泊めたわけでも庇ったわけでも、ないからだ。 「必要ありません。家先で、死体に転がられたくなかっただけですから」 ここまで冷たく言えば、彼らも呆れ、早々に辞してくれるだろうという翡翠の予想に反し、頼光は瞬間目を丸くし、細めた。 「確かに、一理あるな。死体を片づけるのは一手間だ」 頼光様、という綱の咎めるような、呆れたような声が、拡散していった。 手近にあった土器の盃を掴み、柱へと投げつければ、それは投げられた力を反映するように、微塵に砕けた。土瓶を掴み、直に口をつけて飲み干した酒もすぐに空になり、憤りをぶつけるように、それも柱へ向かって投げる。狙いを違えることなくぶつかったそれもまた、砕けて床の上へと落ちた。 それでも、木霊する声が、消えない。頭の中で響く、声が。 ―喰らえ。 ―血肉を、命を、喰らえ。 「五月蠅い!」 叫び、腕を振り上げれば、近くにあった燈台が倒れる。油皿に入っていた油が床上に染み出したが、火はついていなかった。 足を振り上げて床板を踏み抜き、腕を振り上げては調度を壊し、襖を蹴倒して破り、ようやくのように止まる。 「………渇く、喉が………腹が、空いた」 全てが死したかのような闇夜の中に、ぎらりと獣の双眸が輝いた。 夜の山越えは危険だという翡翠の言葉に一度は頷いたものの、早々に都へ戻りたいという気持ちがあった頼光は、綱を伴って山へと分け入った。 夕刻ともなれば、鬱蒼と木々の生い茂る山中に日の光は差さず、随分と薄暗くなってきた。その内に、退くも進むもできぬほど、辺りは暗闇に包まれた。 「致し方ない。今宵はここで野宿としよう」 「はっ」 綱が即座に腰に括った袋の中から火打石を取り出し、火を起こし始める。その間に、頼光は背負っていた笈をおろし、平らな場所へと腰を落ち着け、竹筒の中の水を一口、含んだ。 「こんなことならば、あの青年の言葉を聞き入れておくべきであったな」 「しかし、頼光様。恐れながら、あの青年の双眸、この国の者では持ちえぬ色味であるかと」 「確かに。私とて、あのような目の色は見たこともないわ。だが、もしもあの御仁が鬼などであるならば、今頃私たちは、喰われて形もなくなっているだろう。違うか?」 「いえ………」 「わざわざ私たちに薬湯など差し出してくれるはずもない。それに、私たちを庇い立てした上で怪我まで負ってしまったのだぞ。感謝こそすれ、疑うなど以ての外」 「はっ………申し訳御座いませぬ」 火打石から飛び散った火の粉が、細く細かい木々の屑に火をつける。そこから、近場にあって拾った小枝に火を移せば、心許なくはあるが、焚火となった。 「明日は、せめて隣村まで向かうぞ。今宵は体を休め………ん?」 「頼光様?如何なされ………」 綱の言葉を遮るように頼光は立ち上がり、腰に下げていた刀の柄に手をかけた。その動きに呼応するように、綱も腰を低く落とし、刀に手を添える。 幾許かの緊張が二人の間に流れたが、聞こえてきたのは、ほー、ほー、という梟の鳴き声。そのことに二人は安堵し、同時に刀から手を離した。 「何か、気配がしたと思ったのだが、な」 「ええ。大型の獣のような………まさか、梟だったとは」 「旅の疲れが溜まっておるなぁ。昨夜雨に濡れたのも、よくなかったのかもしれん。火は絶やさぬように気を付けながら、眠るとするか」 「承知しました」 焚火の中へと、近くを歩いて拾った小枝を数本投じ、火を大きくしてから、綱も笈の中から糒を取り出した。 ぎしり、と牙と牙の擦れ合う音が耳中で響き、次いで、己の爪が己の腕に食い込む痛みで、長く息を吐き出す。 後少し、梟が鳴くのが遅ければ、あの二人を襲っていただろう。旅人には見えぬ身のこなし。恐らくは、武士。腰に下げた刀も、鈍とは思えなかった。 爪が食い込んでいた部分が傷となり、そこから血が流れ出したのが、香りでわかる。 甘美な香りだ。闇に生きる者の食欲をそそる、香り。それにつられるように、背後に幾つもの気配が生じる。 「散れ、雑鬼共が」 声にならぬ声を上げながら、気配達が音もなく近づいてくる。それを、一睨みすることで散らし、傷口を軽く撫でる。 「くそっ!」 小さく呟き、そして、その場には一つの気配もなくなった。 痛い。痛い。痛い。 苦しい。苦しい。苦しい。 どうして?どうして、誰も助けてくれないの?僕が、何か悪いことをしたの? 寒い冬に水汲みだってした。暑い夏に薪割りだってした。火も熾したし、洗濯もして、毒見だってした。言われたとおりに貴族のご機嫌だってとった。 なのに、どうして?どうして、ぶたれて、蹴られて、斬りつけられるの?僕が、何をしたの? おにごって、なぁに? 「それはな、そなたが禍だということじゃ」 しわがれた声が、上から降ってくる。擦れた、厳かな声。 「そなたは、此処にいてはならぬものだということじゃ」 じゃあ、どこに行けばいいの?どこに行けば、僕は禍ではなくなるの? 「そうさな。三途の川でも渡ればよかろう」 川?川を渡ればいいの?そうすれば、僕は禍ではなくなるの?村長がいうのだから、渡ればいいのかな?でも、どこにそのさんずの川があるんだろう。山の中かな?村の中にはないから……… 「やーい、おにご!きたならしいおにご!」 「おにごがきたぞー!にげろー!」 僕は、ここにいちゃいけないんだ。だから行かなくちゃいけないんだ。 でも、どこに? 「村へ帰れ、子供」 だぁれ? 「そんな叢で蹲っていても意味はないぞ」 だって、見つからないんだ。川が。 「川?そんなもの、どこにでもあるだろう」 でも、ないんだ。さんずの川。 「死にたいのか?」 死ぬ?どうして?僕は村にいちゃいけない禍だから、さんずの川を渡れば禍にならなくていいんだ。 「………怪我を見せてみろ」 だめだよ。僕なんかに触ったら、禍が移ってしまう。 「人間如きの禍など取るに足らん」 あなたは、だぁれ? 「俺のことなどどうでもいいだろう。貴様の怪我を治してやる。治してやるから、村へ帰れ」 でも……… 「三途の川というのは、死者の国にある川だ。そこを渡れということは、死ね、ということだ。意味がわかるか?」 僕は、死ぬの? 「死ね、と言われたんだ。貴様は悔しくないのか?」 悔しい?………悔しく、ないよ。だって、僕が悪いんだ。僕が、こんな姿をしているから。 「生きろ。生きて、見返してみろ。村の連中を」 でも、僕は……… 「さあ、もう帰れ。二度と此処へは来るな」 あなたは、だぁれ? 汚れた天井板に向けて伸ばされた、自分の手。 「あれは、誰、だったんだろう?」 掴もうとして、掴めない、夢。昔、昔に出会った誰か。 「優しい、人だったな」 どうやったのかはわからないが、腕から流れていた血を止めて傷口を治し、殴られて腫れた頬を撫でてくれた。 「名前も、聞かなかった」 懐かしい、夢だ。子供の頃の、今よりひどく嬲られていた時の。殴られ、蹴られ、翡翠を見かけるだけで、時には包丁を持って追いかけてきた者すらいた。生傷が絶えないどころではなかった。 「もう一度、会ってみたい」 逆光で、顔すら、姿すら、覚えてはいないけれど、頬を、頭を撫でてくれた手の温かさだけは、覚えている。 懐に入れた小さな細長い箱を、着物の上から撫でて、清秋は一人、微笑んだ。 玉の価値などわからない。高い着物を買ってやれるわけでもない。それでも、精一杯、嫁となる女性への贈り物を、選んだ。その気持ちだけでも届けばいいと、そう、願いながら。 清秋の友人で、都で売り買いされている品物に目が利きそうなのは、翡翠一人しかいなかった。 買ってきた物が本当にいい物なのかどうか見てほしくて、清秋は駆けるように山道を急ぎ、村へ辿り着いた。 既に夕暮れの帳が村を覆い、東の空からは暗闇が迫ってきている。 道のようには見えない道を歩いて、翡翠の家へ辿り着くと、丁度、外へ干していた薬草を取り込んでいるらしい翡翠がいた。 「翡翠!」 「清秋?随分と早かったね」 「ああ。走ってきたからな!」 鼓動が逸るのを押さえるように、懐へ手を入れ、一呼吸おいてから箱を取り出す。 「女って、こういうので喜ぶか?」 箱の蓋を開けて、中におさめられた物を見せれば、翡翠が苦笑する。 「僕にこれを見せるために、早く帰ってきたのかい?」 「ああ。お前ぐらいだ、都の物の価値がわかるのは。どうだ?」 「そうだね………小ぶりだけど、綺麗に細工してあるし、祭りの日なんかにつけるには最適じゃないかな、珊瑚だし」 「珊瑚………店の親爺もそう言っていたな。それは何だ?」 「海の中にある物だよ。海へ行ったことがないからわからないけど」 「へぇ。海のもんか」 「君のお嫁さんは幸せだ。こんな風に大切に思ってくれるんだからね、君が」 「だといいんだが」 照れたように頭を掻いて、大切そうに懐へ箱をしまう清秋を見て、翡翠は少し待つように言って家の中へ戻ると、土間に置いてあった土瓶の中から、一つを掴んだ。 「清秋。これ」 「何だ?酒か?」 「ああ。少し前に、薬の謝礼でもらったんだけど、僕は呑まないから、どうしようか迷っていたんだ。丁度いいから、前祝ってことで受け取ってくれないか」 「いいのか?貰って?」 「勿論だよ」 「ありがとう。じゃあな!」 土瓶を受け取り、清秋は暮れかかる空を見上げて、家路を急いだ。本当は今すぐにでも嫁になる彼女の所へ行きたかったが、それはあまりにも性急だろう。明日、改めて家へ訪れて、渡すつもりだった。 「気をつけて」 転びかねない勢いで走りだした清秋に、翡翠は何とか声をかけて、家の中へと薬草をしまった。 2012/6/3初出 |